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第八十七章 李憲

 揚武将軍の馬成ばせいは淮南平定のために劉秀から送り込まれた将軍である。こんがりと焼けた小麦色の肌と若々しい顔つきは、将軍というよりも兵卒を連想させる。河北へ旅立った劉秀を徒歩で追いかけて合流したという、並外れた健脚と行動力の持ち主である。

淮南は十万余りの軍勢を擁する李憲りけんの支配領域で、その周辺の揚州や臨淮も様々な勢力が割拠しており、長らく手出しが出来なかった。事態が動いたのは傅俊ふしゅんによる揚州の平定である。傅俊の軍は規律が乱れており現地の恨みを買っていたのだが、郅惲しつうんなる人物が軍に入って厳しくこれを戒めた。郅惲の言うとおりに傅俊自らが率先して行状を改めると、揚州の民はほぼ戦わずして降伏したのだという。

馬成が配下としてつけられた劉隆りゅうりゅうにその話をすると、彼はその郅惲なる者の名に聞き覚えがあるという。


「郅惲というのは、王莽おうもうの簒奪直後に簒奪を告発した人物ですよ。この告発文は気が狂って書いたのだと言え、と脅迫されても頑として応じずに獄に繋がれたとか」


「獄死していなかったのは喜ばしい。そういう気骨の士を拾っていくことも、これからの陛下にとって重要ですね。先ごろ降ってきた侯覇こうは殿も、そういう人だと感じました」


傅俊が揚州を平定したことにより、臨淮郡も降伏を申し出た。臨淮太守の侯覇こうはは、北に董憲とうけん、西に李憲りけんという強烈な群雄に挟まれつつ今まで自立を保っていた。真主が至るまでこの二つの賊のどちらにも降るまいと歯を食いしばっていた、と語った侯覇の目に偽りはないと馬成は信じる。臨淮郡が支配下に入ったことで緩衝地帯は消滅し、今や淮南皇帝の居城であるじょは目と鼻の先である。二人の会話は自然に軍議へと繋がっていった。劉隆は問う。


「馬成殿、補給もたっぷりあるこの状況ならば、正面から挑みかかっても潰せるのではあるまいか」


後方補給は鄧晨とうしんが担当している。二年は戦える備えがあると豪語する鄧晨の言は、経験の面からも信用できた。


「いや、この状況であるからこそ、犠牲を払わずに李憲を倒すことができる。長丁場になりますが、お付き合い頂けないか」


劉隆は呟くように言った。


「犠牲を払わずに勝利する………それはいい。とても良いな。せっかちな私ですが、付き合いましょう。」


彼の目には亡き妻子が映っているのかもしれない、と馬成は思った。



 李憲は舒の城中にあって漢軍の不可解な行動に困惑していた。漢軍は城の周囲をひたすら掘削しているのである。

王莽が健在であった頃、李憲は水賊の王州公を討ち取ってその功績を認められ、太守の座を得た。王莽が敗亡するとそのまま私兵を集めて淮南王と称し、続く更始帝の乱脈な政治と滅亡のどさくさに紛れて帝位を宣言した。九城を落とし、公卿百官を揃え、兵力は十万余り。

李憲は漢軍の動きをしばし眺めていたが、結論にいたるとにやりと笑った。


「ははぁ、さては地下から攻めてくるつもりだな。いぶり殺してくれるわ」


李憲は部下に油や薪を集めさせて、坑道から侵入してくる敵を撃退する準備を整えた。

しかし、馬成が行ったのは全く異なる作戦であった。

馬成らは溝を掘りながら、少しずつ溝の前に土を積み上げていた。ある一定の高さまで土が達したある日、いつもであれば日が落ちれば退くところを、休む事なく夜を徹して作業が行われた。

あくる朝、城壁の周囲にそれと同じ高さの土塁が構成され、舒の城は糧道を絶たれてしまった。

土塁の上にはまるで城壁を巡回するように馬成の兵が配置されていた。

李憲は配下の兵に矢を射かけさせて挑発したが、漢軍は防御するばかりで一向に応戦しない。

そして、一週間が経ち、一月が経ち、二月が経ち……。


「ついに、食糧が枯渇したようですね。内通者から、李憲が今晩夜陰に乗じて逃亡するとの情報が入りました。」


実に一年半の後の事である。馬成から事態の進展を聞かされた劉隆は飛び上がって喜んだ。行き過ぎた暇はもはや苦痛ですらあるのだ。


「やっと李憲を討ち取るときが来たのですね。この私にやらせてください」


「申し上げにくいが、その必要もないのです」


李憲は件の内通者、護衛の帛意はくいなる者の手によって殺害された。淮南から覇を唱えんとした李憲の政権はここに瓦解したのである。

騎兵が城中に侵入しても、組織的な抵抗はなかった。

劉隆は舒の民衆に食糧を配給する任務をこなしつつ、ふと呟いた。


「これが王者の戦い、なのかもな」


兵站が整っていなければこんな悠長な戦い方は出来ない。これは強者の余裕があってはじめて成し得る戦い方であろう。それは馬成の余裕というよりも、この戦法を許容できる劉秀の余裕である。

李憲は海賊討伐の功もあり、弱将ではなかったはずだ。それが殆ど矛を交えることなく、味方の手によって殺された。

恐ろしい、と劉隆は思う。

数多の獣が倒れていく中、血だまりの中になお立ち続ける獣王は、時に牙や爪を振るうことなく敵を屠るのである。

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