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第七章 下江の兵

 小長安での大敗の後、反乱軍は棘陽きょくようまで退いた。

失った戦力は全体のおよそ三分の一。

しかし、反乱軍は後方に引き連れていた多くの家族を戦場で失い、その衝撃は単純な戦力の損失では計れないものがあった。

 蕀陽の県長の居館では、悲憤の声があちこちから聞こえた。


「我が一族は豊かであったのに、お前の嫁のせいでまるで釜茹でのような目にあってしまった。なんとか言え」


劉秀が見ると、鄧晨(とうしん)が宗族の老人達に詰め寄られている。

先程叫んだ老人が鄧晨の襟首を掴んで罵詈雑言を浴びせている。

劉秀は我慢しきれず割って入った。


偉卿(いけい)殿は妻子を亡くして間もない。一番辛いのはこの方です。そして、亡くなった姉を辱める言葉は聞き捨てならない。一体、何があったのですか」


 老人は急にうなだれると、事情を語った。反乱軍の大敗を知って寝返った新野の役人達によって、鄧氏代々の墓は叩き壊されて遺骸を野ざらしにされ、一族の家も尽く焼き払われたのだという。

現代よりも祖先への崇敬や家との結びつきが強い時代である。

その屈辱は計り知れないものがあった。

老人は―凶事の元凶はお前ら兄弟だ。次男坊だけでなく、お前も、お前の兄も死ねばよかったのだ―と呟いた。


「行こう、文叔。気を使わせてしまって、悪かったね」


劉秀は鄧晨を居室まで送った。

私が、あのとき姉上や姪達を置いていかなければ。

劉秀は必死に謝りながら、逆に鄧晨に慰められてしまった。

――いいんだよ、文叔。仕方がなかったんだ。――

廊下で鄧晨は独り言のように言った。


「はじめは怒りや悲しみが心の大半を占めていたけどね。いまは、考えているんだ。四人のためにこれから出来ることはなんだろうって」


劉秀はただ黙ってその言葉を聴いていた。

 劉秀の叔父、劉良は妻と息子を亡くした。

椅子に座ったまま虚空を見つめる劉良に声をかけたが反応はなかった。

すっかり放心してしまっている。

私がこの人を反乱に巻き込んだのだ。

劉秀は叫びだしたい気持ちになって、逃げるようにその場を離れた。

廊下には、重傷を負った末端の兵士達が転がされ、ただ死を待っていた。

その中に劉秀は見慣れた顔を見つけた。小作人のほうだった。


「豊、豊!しっかりしろ」


「ああ……若様」


豊の胸には大きな切り傷があった。布を当てているが、赤黒く変色している。


「私についてきたばっかりにこんな事に……」


「そんな事ねえだす。若様みたいなえらい人らと一緒に戦って、おらもえらくなったみたいで……楽しかっただ……。……その上、若様に看取ってもらえるなんて……おらは果報者だあ」


劉秀は豊の手を握りしめた。


「死ぬな。生きて、私と一緒にこの酷い世の中をひっくり返そう。そして、いつかお前の妻を買い戻すんだ。いや、奴隷なんて、みんな放してしまおう……だから」


豊は目尻に涙を浮かべて、微笑んだ。


「若様だったら、きっとやれまさあ。ご一緒出来なくて……ざんね……」


豊の手から、力が抜けていった。

劉秀は冷たくなった豊の前から、中々離れる事が出来なかった。寒々とした廊下に、死が充ちている。個人的な思い入れのある者も、ない者も、それぞれの生があった。その生が、永久に失われていく。その事を考えると頭の芯が灼かれるように熱くなった。

しかし、その一方で、頭を抱える自分をもう一人の自分が遠くから観ているような、不思議な感覚もあった。


――それで、これからどうするんだ、お前は――


どうするもこうするもあるか、こんな時にできることなんて……。

 ふと顔を上げると、廊下の向こうで、王匡と王鳳が騒いでいる。張卬(ちょうごう)が逃げた、と言っている。

同じ内容のことを交互に言っているのでうるさくて仕方がない。

張卬は新市兵の武将で、盗賊一味の重鎮のはずだ。

双子の動揺もうなずけるが……待てよ。張卬は逃げた。そこはいい。では、どこへ逃げたんだ。


「兄上、失った戦力を回復する起死回生の策があります」


伯升の居室に駆け込んだ劉秀は息せき切ってこう言った。


「奇遇だな、弟よ。俺もおそらくは同じ策を見出したところだ。答え合わせをするとしよう」


 劉秀は内心で、いつもと変わらない兄に感謝した。

これでふさぎこんでいるようだったら、殴っていたかもしれない。


「私は張卬が逃げたと聞いた時、逃げる宛があるのかと思いました。兵卒ならばあてどなく逃げ出すということもありえましょうが、将ともあろうものがそのようなことをするとは思えません」


伯升は黙って聴いている。


「加えて不審なのは新軍の動きです。我々に勝利した甄阜(しんふ)は黄淳水のほとりに布陣し、我らの反撃を待ち構えているかのようです。これは新軍の別の部隊が近くまで来ていて合流するか、我らを挟み撃ちするかのどちらかを狙っていると考えます」


「そうだ。新軍の別の部隊が何者かを追って近くまで来ているのだ。そして、それが張卬が当てにしている逃亡先だ。奴のかつての知己である可能性が高いだろう。それが我々が同盟を結ぶべき相手でもある。すなわち……」


「「下江(かこう)の兵」」


兄弟の声が重なった。

盗賊の緑林軍はかつて疫病に襲われ、新市の兵と下江の兵に分かれた。

下江の兵はもっと南方に位置しているものと思ったが、おそらくは新軍に追われて北上してきている。

彼等と同盟を結ばなければ、明日はない。


「しかし、今のはまるで王兄弟のようであったな」


少し笑って、伯升はそういった。

劉秀の脳裏に次兄の姿が浮かんだ。

――すまん。お前はこいつで我慢してくれ。――

――うんうん。お前みたいな優秀な弟がいて俺は本当に嬉しいよ。――

思い出すのは、とぼけた顔ばかりだ。


「兄上、仲兄がもしここにいたならば、一緒に声を合わせてくれたでしょうか」


伯升の顔から表情が消え―言うな―とだけ呟いた。

兄の声はかすかに震えていた。

 劉秀は膝から崩れ落ちると、床に額をつけて()いた。


 劉伯升は残った弟の劉秀、李通りつうを連れて下江の兵のもとへ向かった。

恐れを知らぬ劉稷りゅうしょくが事前に単騎で偵探に出ており、宜秋ぎしゅうに下江兵が位置しているとわかった。

 宜秋は蕀陽と沘陽ひようの二県に挟まれた位置にある。

新軍は下江の兵に背後をとられることを恐れて蕀陽を包囲せず、沘陽の北に大量に輜重しちょうを積んで蕀陽と宜秋の双方を警戒している。

劉稷の報告で、甄阜しんふは下江の兵を破った別の部隊と連絡がまだ取れていないらしい、ということもわかった。

 下江の兵と合流し、沘陽の輜重を奪い、甄阜を討つ。


「止まれ!」


 宜秋からおよそ二里のところまで馬を進めると警戒の兵につきあたった。

三人の兵の内、一人が張卬とともに逃れてきたもので、事情を説明すると案内をしてくれることになった。

このように警らの兵を出せるということは、統制が行き届いている証拠と言える。

劉秀は下江の兵を率いているという王常おうじょうという人物に期待を寄せた。

 宜秋の城門をくぐると現れたのは張卬であった。


「はてさて、何をしに来られたのかな?王常殿は忙しい。お会いできる状況にはないのだが」


 張卬は分厚いたらこ唇を引きつらせている。

あからさまな対応に伯升は眉をひそめたが返答はしなかった。

代わりに大きく息を吸い込むと、


「南陽の劉伯升である!下江の賢将にまみえて大事をはかりたい!」


と城中に響き渡るほどの大声で叫んだ。

城郭の一室から、通せ、と大声で返答があった。

 張卬が憤怒の形相で伯升を睨みつけているが、李通が何事か耳打ちするとその表情が和らいで、王常の室まで案内するといった。

劉秀が李通に耳打ちの内容を尋ねると、


「邪魔しなければ謀議が成立した場合に、“張卬殿が取りなしてくれた”と王兄弟に言ってやろう、と告げたのさ」


劉秀は李通を連れてきた兄の判断を内心で賞賛した。

 王常は宜秋牧の居館にある一室で一行を待ち受けていた。

床にむしろをしいて、どっかりとあぐらをかいている。


「はるばる良う来なすった。座ってくんな」


低い声ではあるが、言葉通りの歓迎の調子があった。

太い眉と濃いもみあげが印象的だ。

身にまとう雰囲気には裏社会の者特有の威圧感があったが、他の盗賊達のような酷薄な面差しとも違う。


「俺ぁ王顔卿おうがんけいっつうもんだ。潁川えいせんで博徒の元締めをやってたんだが、弟の仇を討ったら手配されちまってなぁ。逃げまわってるうちに盗賊の仲間入りよ。あとのことは大体聞いてんだろ?」


 あとのこと、とは疫病による緑林軍分裂の顛末のことだろう。


「早速で悪いが本題に移ろう。我らと兵を合わせて共に戦ってもらいたい」


 早速過ぎるだろ、と劉秀は思ったが時間の猶予があまりないのも確かである。

いつ新軍同士の連絡がついて挟撃されるともわからない。


「俺達も荘尤そうゆう陳茂ちんもに敗れてここに来たんだ。一緒になったからって勝てる見込みでもあんのかねぇ」


「ない」


はっきりと言い切った伯升に王常は目を大きく見開いた。


「我らが兵を合わせても、敵はなお数倍。戦っても勝てる見込みは五分にもならないだろう。しかし、このまま手を拱いていては遠からず各個に滅ぼされるだけだ。それならば、この劉伯升は打って出る。どうだ、乗るか?」


 王常はしばらく黙っていたが、やがて笑みを見せて言った。


「面白ぇ奴だ。命を賭けた大博打、保証も何もねえ。それでいて、その自信だ。博徒王常、久しぶりに血が騒いできたぜ。この勝負、乗った!」


 即決である。

しかし王常の配下の間にはざわめきがおこった。


「顔卿殿ほどの方が、何故いまさら他人の下風に立たれるのか」


 ことさらに不満を示したのは成丹せいたんという将であった。

それに対して王常は説いた。


「今や民衆が歌に歌うほどに漢の世が懐かしまれるご時世だ。劉氏で志のある御仁が出たなら天下はそいつのもんになるだろう。だから、この旦那と組めるのは天佑ってもんよ。俺が信用できねえってんなら、いつでも見捨ててもらって構わねぇ」


 成丹はあなたがそこまで言うのなら、と静かに頷いた。

 かくして、盟約は成った。

 頼もしい味方を得た三人は、意気高く棘陽に戻った。

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