第八十六章 井の中の蛙
1
隗囂からの使者一行は洛陽の宣徳殿の軒下で待たされていた。宮殿の内部は動乱の爪痕を残し、控えめに言ってもボロボロだった。
こんなところで待たされて本当に皇帝への目通りがかなうのか、蜀の宮殿の方が遥かに立派だった、使者の一行はひそひそと話す。黙っているのは一行の長だけだった。
「待たせて申し訳ない」
頭巾を被り、簡素な衣類を着た男がばたばたとやってきた。使者の一人が口を尖らせる。
「また取次か。いい加減に皇帝陛下のところに通してもらおうか」
使者の長が慌てて部下を制した。
「その皇帝陛下のお目見えである。やめないか」
頭巾の男がはにかんだ。
「いかにも、私が劉文叔である。卿の名を教えてくれ」
「私の名は馬援、隗囂様の親書をもって参りました。まずは部下の非礼を深くお詫びいたします」
馬援、右扶風茂陵県の人。はじめは新王朝の時代に犯罪者を護送する督郵という役人であった。彼は護送する囚人が止むに止まれぬ事情から罪を犯した事を知り、これを逃し官職を捨てて牧畜を始めた。牧畜で得た利益を周囲に還元したことから名声を得、新王朝の末期には漢中郡の太守に任命された。これは騎馬の技術が貴重であったこの時代に乗馬技術を身に着けた牧童を多数抱えていたこと、実は趙の名将である趙奢の子孫であること等が、王莽の耳に入ったことによる。新王朝の滅亡後は隗囂に招聘され、その信頼を得て重用されていた。
馬援が劉秀に対してひざまずくと部下たちも慌ててそれに続いた。
「よいよい。部屋着で出てきた私が悪かった」
劉秀は思い出したかのように、あ、と声を上げて続ける。
「そういえば卿は公孫述のところにも行ったそうじゃないか。非礼と言うならそっちの方が非礼だろう」
馬援の真の任務は、劉秀と公孫述、そのどちらが隗囂にとって与するに相応しい器であるかを見極めてくるというものであった。親書などというのは表向きの理由に過ぎない。
「今の世は、ただ君が臣を選ぶだけでなく、臣もまた君を選ばなければ生き残れないのです。私は公孫述と幼馴染であるため、蜀にも派遣されました」
馬援は劉秀が促すので、立ち上がった。
劉秀はてくてく歩きながら言う。
「今、私に会ってみて何か感じたことはあるかい」
「私が蜀に行った時、幼馴染である述は物々しく陛戟を整えて接見しました。それに対し、陛下が見も知らぬ私にこうも簡便に接してくださるのは何故ですか。私が刺客や姦人でないとも限りますまい」
劉秀は笑って言った。
「卿は刺す客ではなく、説く客であろう」
場が静まり返ってしまった。
「今のは……どこが笑いどころだったかと言うと」
滑ったときの一番駄目な収拾をはじめる劉秀を見て、馬援は笑みを浮かべた。
「いや、洒落は面白うございました。陛下が洒落を仰られるなどと想定していなかっただけです」
劉秀は顔を明るくした。
「そうか!実は冗談や駄洒落が好きなんだ。妻が冗談を真に受けて本当に怒るから、最近は披露する機会がなかなかなくってね」
だからといって会ったばかりの使節団に披露することもあるまい、馬援はそちらの方にむしろ可笑しみを感じた。
「天下は覆り、偽りの帝王は数知れません。いま陛下を見るに、心が広く大きく、高祖と同じようであり、真の帝王というのがいると知りました」
馬援はその後しばらく劉秀の伴をし、董憲への遠征を間近に見るなどして傾斜を強めた後、隗囂の元へ戻った。
2
隗囂は馬援がもどってくるとその労を労った後、二帝の感想を聞いた。
馬援は言う。
「まず公孫述ですが、食事の最中でも飛び出して国士を迎え、天下の計略を立てねばならぬ時なのに、上辺ばかり飾って人形のようでした。天下の人士が集まる器とは到底思えません。さしづめ、井の中の蛙、といったところです」
隗囂はくすりと笑って、言った。
「周公と比べられては流石に可哀想だな。して、東方はどうだった?」
馬援は目を見開いた。
「私は未だかつてあのような英名な君主にあったことはありません。才能は人を遥かに上回り、その武勇は何人も敵対できるところではありません。心を開いて誠実で、人と語るときは良いところも悪いところも隠しません。天下への大略を持ち、為し得るすべての恩を施します。用兵や戦略では、常に敵を正しく分析して勝利します。度量が広く大きな節義があることは高祖劉邦のようです。加えて博学でもあり、政治や文章に関しては過去の歴史にも比肩する者はいないでしょう」
興奮する馬援を見て隗囂は目を丸くした。自分と同じく冷たい血の流れている生き物だと思っていたのに、こうも熱くなる人間だったとは。
「卿は、高帝と比べるとどうだというのか」
「高帝には及ばないでしょう。高帝は“可もなく不可もなし”という方です。高帝と異なる点は、今上は事務を好み、挙止動作には節度があり、お酒をあまり飲みません」
隗囂は笑って言った。
「卿の言うようならば、反って勝っているではないか」
可もなく不可もなし、とは孔子が自身を評して言った言葉である。高帝を孔子と同様に俗人が評価しがたい規格外の偉人としながら、馬援の劉秀に対する評価は劉邦の欠陥を全て埋めた超人のように聞こえる。
隗囂は内心喜ばなかったが、馬援の言うことを一応信用して、ひとまず劉秀との関係を強化することにした。隗囂は長子の隗恂を洛陽に人質として差し出した。
3
「君の放った忍びから報告を受けたよ。馬援は朕のことを散々けなしたそうだ」
銀の刺繍が施された白絹の長衣を纏い、冕冠を被った男。
綺羅びやかな成都の宮殿。その玉座に座るのは、井の中の蛙こと公孫述である。
「幼馴染とはいえ、縁があるとは限りません。あれは陛下の臣になる星の元に生まれていなかっただけということ。お忘れになるが宜しい。……大体、私のような怪しげな者を拾ってくださる陛下の度量が、狭いわけがない」
答えるのは梟のような大きな目をした小男、趙匡である。
不気味な仮面の武芸者集団を引き連れて現れたこの男を朝臣達は警戒したが、公孫述は奇貨居くべしとして迎え入れた。
優れた軍略を持つ趙匡は、今や公孫述の知恵袋と言うべき存在になっていた。
趙匡だけではない。王郎の大司馬であった李育、関中の群雄であった呂鮪等、他の勢力から流れてきた者や落ちぶれた自立勢力の長を、公孫述は積極的に引き入れてきた。
「さてさて、陛下の臣となるべき男がもうすぐ着きますよ。度量の広さを示す絶好の機会でございます」
宮殿にたどり着いた件の男は、傴僂の従者たった一人を連れて襤褸切れのように薄汚れていた。
関中にその名を轟かせた英雄であるとは俄に信じがたいが、顔をあげたその目には闘志が確かに宿っていると公孫述は見た。
「その様子では、ここに来るまでに随分と苦労したようだな」
「おかげさまで、蜀が天然の要害と呼ばれる所以を味わい尽くすことができました」
強がっているが、その男、延岑の声はがらがらに嗄れていた。
公孫述は咳払いをする。
「名高き勇者が朕を頼って来てくれたこと、真に嬉しく思う。延岑よ、汝を汝寧王」
公孫述が横目で見ると、趙匡は人差し指を上に向けて上下させている。奮発したと思ったが、もっと必要ということか。
「兼ねて大司馬に叙任する」
趙匡以外の朝臣は騒然となった。軍事の最高位をいきなり余所者に任せるなどということがあり得るのか。
延岑も信じられないと言った様子で、絞り出すような声でいった。
「それ程の厚遇、頂くための条件はなんでしょうか」
公孫述は今度は趙匡の方を見なかった。大体“ノリ”は掴んだ。
「条件などあるものか。赤眉を打ち破りしその力、朕の下で存分に発揮してくれ」
延岑は大声で拝命すると、その場に埋もれんばかりに平伏した。
傴僂の従者、屈狸は延岑の肩が小刻みに震えているのを見て驚いた。
この人が感動して泣くなんて、何かの悪い冗談だ。




