第八十五章 秦豊
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「婿殿がついていれば、洛陽の小童など恐るるにたらず。のう」
楚黎王を号する秦豊は、盃をもって延岑に話しかけた。秦豊は胡麻塩頭の壮年で、日と酒に焼けて肌が黒い。目つきは延岑に語りかける口調ほどには緩んでいない。
「親子の契を交わしたからには、負けるなどということはあり得ません」
延岑も延岑で、今日から義理の親となる相手に全く気を許していない。馮異と趙匡に関中を叩き出された後、南陽に侵入した延岑だったが、今度は耿弇に大敗を喫した。流れ流れて楚の国まで辿り着いたときにはほんの数十騎しか配下はいなくなっていた。秦豊の庇護下に入るというのは、やむを得ず選択した手段に過ぎない。
それに政略結婚で自分を繋ぎとめようなどという企みは如何にもみみっちい、と延岑は思った。
秦豊が政略結婚によって抱き込みを図っているのは延岑だけではない。明後日には田戎と秦豊の次女との婚礼が控えているという。田戎は夷陵に勢力を張って周成王などと称していた盗賊の頭領である。彼は漢軍に敗れて降ろうと考えていたところ、不吉な占いが出たために躊躇した。その事に業を似やした部下が自分の首を手土産に降伏しようと画策したため、漢軍への投降をやめて秦豊と連携することにしたのだという。
「頼もしいのう。儂は鄧まで出張って漢軍を防ぐつもりである。婿殿には東陽に向かっているという敵の援軍を叩いてもらいたい」
「お安い御用です。次の宴では敵将の首を座敷に飾ってみせましょう」
延岑は作り笑いをしながら、自分の妻となる不幸な娘を見た。この秦豊からこんな娘が生まれるものかという器量よしである。成り行きでこんな娘をもらってしまっていいものなのだろうか。
「私の顔に何かついていますか」
「いえいえ、何もついてはござらん。ついつい見惚れてしまい、申し訳ない。長年戦場に身を置いていたゆえ、美しい物に縁がなかったものですから」
秦豊の長女は頬を赤らめた。
「婿殿は口も達者じゃのう。さては、あっちのほうも達者じゃな。孫の見れる日も近いぞ」
秦豊は豪快に笑ったが、相変わらず目つきは変わらなかった。秦豊の娘は顔を真赤にして目を伏せた。
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延岑が東陽にて陣立てをしていると、秦豊からの援軍が現れた。援軍の将は張成という大男で、光る魚鱗甲に矛を引っさげていた。漢軍が姿を現すと、同時に出撃しようという延岑を張成は押し留めた。
「貴殿には此度の戦果報はありません。我らが敵を破るのを見物して頂きたい」
「ふん、そうまで言うなら見物させて頂こう」
戦場にひらめく漢の赤旗、先頭にいるのは祭遵と朱祜だった。
朱祜は馬上から呼びかけた。
「天命を知らぬ弊賊め、なぜ延岑を縛り、早々に降伏しないのか」
張成もまた馬上から返す。
「汝が主人劉秀は誰から禅譲を受けて、天下を我が物と思い、我らを賊と名付けるのか」
朱祜は言う。
「我が君は漢帝の宗室、上天の命を受けて、民を悩ます溢れ者を討っている。即ち我が君が真命の天子、汝が主秦豊は国賊である」
張成はからからと打ち笑った。
「妄りに上天の命を受けたなどと言うが、天が物言う声を聞いたことがあるのか。天下は一人の天下にあらず、天下の人の天下である。我が主秦豊様が賊ならば、汝が主劉秀も賊よ」
張成は矛を構えた。
「いざいざ、賊と賊との力比べをしようじゃないか」
朱祜と張成は同時に駆け出すと、火の出んばかりに互いの得物を打ち交わして一騎打ちを始めた。
張成の矛を朱祜の左の鞭が受け、同時に右の鞭が攻撃を放つ。朱祜は短期間に血の滲むような修行をし、以前は片手で使っていた鞭を言わば二刀流で扱えるようになっていた。
しかし祭遵はというと至って冷静で、弩弓手による一斉射撃の後に歩兵を前進させて張成の軍の前衛を打ち壊した。左右から騎兵を回り込ませ、背後を取ろうと試みる。
張成は自軍の苦境に気づき、ちらちらと背後に視線を遣る。
その様子を見て、朱祜は不敵に笑う。
「舐められたものだな。私は余所見をしながら勝てる相手ではないぞ」
張成の矛は上下から同時に繰り出された鉄鞭に挟み込まれ、中心で柄が砕け散った。
張成はただの木の棒と化した自慢の矛を見て固まってしまった。その首筋を朱祜の右手の鞭が襲う。
頚椎のくだける鈍い音がして、張成の巨体はどうと地に落ちた。
「かっこいいセリフは、もっと強いやつが言うものだぜ」
朱祜の口調は、鄧奉のそれだった。
「おいおい張成よ、口先だけにも程があるぞ」
「親分も大概ですが、上には上がいるもんですな、ししし」
困ってしまったのは延岑である。いきなり大将の一人を失ってしまっては挽回のしようがない。延岑は無駄に戦おうとせず、敗軍を収容して遁走した。
3
一方、秦豊は鄧の城に篭り、固く防御していた。状況に変化をもたらしたのは漢軍から監視の緩みをついて脱出した捕虜の証言である。
征南大将軍の岑彭は鄧の攻略を諦め、西の山都を奇襲する計画を立てているというのである。山都も本拠地である黎丘までの距離はさほど変わらない。中間目標の選択肢としては確かに有り得るものだった。
秦豊は西の山都に移動し、兵を潜ませて迎撃の準備を整えた。
「遅い。漢軍はいつになったら攻めてくるのだ!」
「ほ、報告します!岑彭軍は漢水を渡り、直接黎丘へ向けて進軍している模様です!」
秦豊は結果的に嘘の報告をしたことになる件の捕虜を怒りに任せて斬り伏せると、大慌てで黎丘へ引き返した。
黎丘の近傍の山頂に篝火が灯っているのを見た秦豊は、これこそ敵の本陣であるとして大部隊を送って強襲した。しかし、山頂にあったのは篝火だけである。山の中腹に潜んでいた漢軍に囲まれ、強襲部隊は全滅してしまった。秦豊は命からがら黎丘城へ逃げ込んだものの、その勢力は大きく損なわれてしまった。
秦豊は苦し紛れに延岑に兵を与えて再び送り出した。劉秀のお膝元である南陽を襲撃させて後方を撹乱する作戦だった。
「南陽にはあの人が向かっている。あの人は随分と変わられた。任せておいて大丈夫だろう。」
岑彭は延岑を追わず、黎丘の包囲を続けた。
南陽には二人の将軍、鄧曄と于匡が駐屯していた。
動乱の初期から当に波乱万丈というべき人生を歩んできた二人だったが、劉秀のもとに落ち着いていた。
二人を指揮する総大将として送り込まれたのは右将軍の鄧禹である。
大きな目の下にはこれまた大きな深い皺が一本刻まれていた。顔は若いが、その表情は老猫を思わせた。
「この戦いで重要なことは一点。敵の挑発に乗ってはならない、ということだけである。この事さえ守ってくれるならば、あとのことは貴卿らの判断で構わん。」
その言葉は二十代の青年が言ったとは思えないほどに重々しく響いた。
「御意」
二将は声を揃えて応えた。
延岑は挑発を繰り返したが、鄧曄と于匡はこれに頑として応じない。やがて遠征軍である延岑の軍に疲労の色が見え始めた。二人は結局自己の判断では動かず、敵への総攻撃を鄧禹へ上申し、命じられるという形をとった。鄧禹の軍略に接し、重んじるべきだと考えたのである。
「なあ、于匡よ」
「なんだ、急に」
「この戦いが終わったらよう」
「そういう事を言うと死にやすくなる気がするからやめてくれ!」
「釣りに行こうぜ。昔みたいによ」
「……そのくらいなら、大丈夫かな」
鄧曄と于匡は延岑を大いに打ち破った。延岑は連れていた秦豊の娘に離縁状と有り金を渡すと、再びどこかへと消えた。
鄧曄と于匡はこの娘を発見したが、人質の価値無しとして捕縛しなかった。
秦豊の命運は既に尽きていたが、本人がそれを認めるまでには長い時間がかかった。
あまりにも長く籠城を続けるので、劉秀自身が降伏の呼びかけに出向いたことがあったが、秦豊は城下の劉秀に品性のない悪罵をこれでもかと浴びせかけた。劉秀は激怒し、秦豊が今後降伏を申し入れてきても受け入れないように部下に厳命した。
一年以上の時間が経過し、ついに城内の飢餓は限界に達した。
朱祜は肌脱ぎして降ってきた秦豊を殺さず、洛陽へと送致した。極限まで痩せさらばえた秦豊は手足の自由が効かなくなっており、兵士たちは彼を檻車に乗せるのに苦労した。
結局の所、秦豊は洛陽で斬られた。
呉漢は朱祜が勅命に背いて秦豊の降伏を受け入れたことを告発したが、劉秀はこれを取り合わなかった。
朱祜は当初は呉漢に腹を立てたが、呉漢の態度から同僚を陥れようという卑しい意志が感じられないことからその怒りを抑えた。呉漢は本当に命令違反でけしからんと思ったから告発しただけなのだった。




