第八十四章 劉文伯
1
多くの群雄が倒れていく一方、新たに出現した勢力もある。建武五年に誕生した劉文伯政権、その特異な成り立ちを追う。
話は王莽の末年に遡る。
盧芳は安定三水の人、さしたる富貴の家に生まれた訳でもなく、学問や剣術の才があったわけでもないこの男。しかし、彼の周囲には不思議と人が集まった。彼には話術の才能があったのである。それも単に口が上手いというだけではない。時には身振り手振りを交え、手を替え品を替えて話し続ける盧芳は、この地方に出入りする胡族や羌族までも時に聴衆とした。
賈覧もそんな盧芳に魅せられた一人である。賈覧は地元の愚連隊の頭領で、騎射をよくする豪傑だったが、幼馴染のこの盧芳を大将と担いでいた。
ある日、盧芳は賈覧に命じて多くの聴衆を集めさせた。
「盧芳兄ィ、今日はどんな話を聴かせてくれるんだい」
「面白かったラ、鹿の肉わけてやるデよ」
ならず者や異民族の聴衆が集まってやいのやいのと騒いでいる。
盧芳は言った。
「今日はみんなに言わにゃならん事があるんだ。耳かっぽじって良ーく聞いてくれ」
賈覧ですら話す内容は事前に聞かされていない。盧芳は急に姿勢を正すと神妙な面持ちで言った。
「俺、実は武帝のひ孫なんだ」
言わずとしれた漢王朝の皇帝、匈奴を打ち払ったあの武帝。突拍子もない話をされた聴衆は静まり返った。
「驚くのも無理はない。真実っていうのは物語よりも不思議なもんだ。でも、俺はいつまでもあんた達を騙してらんなくってよ。あんた達は俺にとっちゃ兄弟みたいなもんだ」
それから盧芳は喋りに喋った。とてつもない分量の法螺を。時には賈覧から水をすすめられて飲んだりしながら盧芳は喋りきった。
多くの聴衆は既に魔法にかかったかのような陶然とした顔をしている。しかし、いくらか怪訝な顔をしている者がいた。異民族の聴衆である。
「ぶてい、ちゅうのはそんな偉い人なんカ」
「お、良いこと訊いてくれたねぇ!武帝ちゅうのはあんたら胡族でいうところの単于様よ。それもそんじょそこらの単于様じゃねぇ。あの冒頓単于様、冒頓様に匹敵するってぇすげえお方なんだ」
バガトル、バガトル様だってよ、などと胡族や羌族は囁きあっている。反応が良い。盧芳の耳目はこういう反応を決して見逃すことはない。
「ここまで言ってしまったなら、もうコレも言わなきゃいけねえな。俺と兄弟達の間に隠し事はあっちゃならんよな。さっきの姫君の話、みんな覚えてるか」
「兄ィのホントの母親!さる姫君ってやつかい?」
「そうそのお方だ。姫君ってのは……実は匈奴の姫君なんだ。匈奴のさる王族の令嬢が、俺の母親なんだ。この二重の目や尖った鼻は、匈奴の血筋よ」
聴衆達はどよめいた。
「つまり、俺は漢王朝の皇帝の血と、匈奴の単于の血を引いてるっていうわけさ」
賈覧は幼馴染なのでこれらが全てウソだと知っている。知っているが、知っていても聞いてしまうのだ。
「王莽の政治が悪くって、世の中は荒れに荒れている。ヤツの目が届かないこの地に、こんな血筋の俺が流れ着いたのは天命としか思えねぇ。みんな、天下のためにこの盧芳、いやさ劉文伯に力を貸しちゃあくれないか」
万雷の拍手の中で盧芳は劉文伯となった。しかし、この時点ではまだまだ小規模な勢力に過ぎなかった。
2
王莽滅亡後、代わって権力を握った更始帝は、謎の小勢力であった盧芳に官職を与えて取り込んだ。しかし、その更始帝も滅亡し、安定三水を含む涼州の支配権は西州大将軍の隗囂のものとなった。盧芳は自動的に劉秀政権に組み込まれ、隗囂の配下という扱いにされたのである。それに不満を持つ者達が盧芳の部下の中に現れた。血筋の上では、劉秀やましてや隗囂の下風に立つなどあり得ないというのである。
「た、大変だ、大将。勝手に胡族や羌族の連中が匈奴に使者を送ってしまって」
「ほう、それでそれで」
盧芳は慌てる様子がまるでない。
「単于は、援助をしてやるから顔を見せに来いと言っているそうだ。行ったら嘘がバレちまうし、行かないと攻めてくるかもしれないぜ。どうしよう」
「行こうじゃないの。何事もやってみなきゃわからんよ」
賈覧は耳を疑った。しかし、盧芳は早くもそれらしい服装を調えはじめるのである。
3
荒涼とした大地に時折風が吹きすさぶ。地平線は遠く霞んでいる。世界が滅亡した後だと言われても信じてしまいそうな、寒々とした風景だった。
盧芳と賈覧は、馬に乗り、匈奴の支配地を進んでいた。
やがて、見窄らしい農地がちらほらと目に入るようになった。さらわれた漢族が虚ろな目で鋤を振るっていた。
遊牧を主たる生業とする匈奴は、農業の技術を持たない。このため漢族をさらっては奴隷として農業をさせるのである。もし収穫が得られなければ、刈り取られるのは奴隷の命だ。
やがて穹廬ーー獣の革や骨、木を使って作られた折りたたみ式の住居ーーが見え出した。
どこからともなく匈奴騎兵が現れ、並走をはじめた。話は一応通っているようだ。
匈奴達の姿が目に入る。獣皮を加工した上衣や帽子、騎射に便利な胡服は共通しているが、顔は様々だ。頬骨がはり、目が細い者。縮れた髪の毛を編み上げ、浅黒い肌をした者。色が白く、鼻も背も高い者。匈奴とは単一の民族を指す名ではないのかもしれない。
馬を進めるにつれ、周囲の穹廬は大きく、紋様の入った物が多くなった。
賈覧は、自分達がいわゆる単于庭、すなわち匈奴の首都に着いたのだと思い至った。
一際巨大な穹廬の前で、並走していた騎兵に降りるように促された。
魔除けの石像の様に、入り口の左右には獅子の全身骨格が飾られている。単于の穹廬だ。
二人は中に入っていった。
灯りが灯され、奥に進んでいく。
左右には屈強な戦士達が、青銅の湾刀を片手に整列している。
赤い敷物の上を進んでいくと、最も奥には獣皮を敷き詰めた巨大な椅子にどっかりと腰をおろしている男がいた。右手には輝く金の盃、その中には血のように赤い酒が注がれていた。左手はしなだれかかって侍っている愛妾の乳房を弄んでいたが、その目に盧芳と賈覧の二人を見とめるとその手を離して、あっちへ行けと指図をした。愛妾は二人を睨むと暗がりの方へ消えていった。
「余が呼都而尸道皋若鞮単于である。お前が劉文伯か」
流暢な漢語で問うた単于は、単于庭で見た他の匈奴と比べても特異な風貌だった。長く真っ直ぐな髪の毛は金色、目は瑠璃色、肌は抜けるような白さで、鼻は高いというよりも長かった。上衣の上に、毛織物の羽織を着ている。その羽織には上半身が鷲で下半身が獅子の怪獣が鹿を襲う様が刺繡されていた。
「いかにも。漢の皇帝と匈奴王の血を引く、劉文伯でございます」
単于は立ち上がり、腰にさしていた二本の大小の湾刀のうち長刀を徐に抜くと、盧芳の首筋に突きつけた。
「ふざけた事を申すな。漢土に奔った姫の話など聞いた事もないわ。こちらがさらった女なら沢山いるがな」
盧芳は泰然として恐れるところがない。
「そのような些末事が陛下にとり何か意味を持ちましょうか?中原の鹿を平げんとする鷲獅子たる陛下が、そのようなちっぽけな事を気にしていてはいけません」
湾刀は突きつけられたままだ。戦士達が使う青銅のものと違い、黒みがかった鋼で造られた刀である。単于の刀は空から落ちた星の破片から造られた物だと、賈覧は聞いたことがあった。
「……続けよ」
「漢の高祖劉邦は、かの冒頓単于に白登山で大敗北を喫しました。それから二国は匈奴を兄、漢を弟として契を交わしました。弟が兄を敬うように、漢は贈り物を欠かさず贈る。兄が弟を慈しむように、匈奴は漢を他の部族から守る。二国は仲睦まじく歩んできたのでございます。二国が兄弟なのですから、私個人に匈奴の血が流れているかいないかなど、些細な事です」
賈覧は話の嘘っぱち具合に衝撃を受けた。そんな微笑ましい内容の和約ではない。匈奴が漢を守ってくれた事などないし、条約を無視して度々侵攻してきている。それに自分の曾祖父だという武帝が匈奴を度々攻めたことを完全に捨象した物言いだった。
「王莽が匈奴に対し、臣下の礼を取るように強制したのは愚の骨頂でございます。現に天罰が下って、王莽は無惨に死にました。今こそ、あの麗しい兄弟愛を復活させるときでございます。陛下は、この劉文伯を通じて正統の漢を再興し、漢土に覇を唱えるべきなのです」
単于は呵呵大笑すると、刀を降ろした。
「よくもまあ、舌の回ることよ。その度胸は気に入った。漢人にしておくには惜しい男だ」
盧芳もまた、笑みを覗かせた。
単于は言う。
「準備次第、胡騎を一万送ってやる。存分に暴れてこい」
単于は腰の小刀を外すと、盧芳に放った。
「受け取れ、勇者よ」
盧芳が短刀の刀身を確かめる。小刀もまた、冷やりとする黒い鋼で出来ていた。
こうして、建武五年、匈奴を後ろ盾とする強力な劉文伯政権が北辺に誕生したのであった。




