第八十三章 彭寵
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燕王を称し巨大な勢力を誇った彭寵、その権勢に陰りが見えたのは、建武四年のことだった。
耿弇、朱祜、祭遵、劉喜、四人の将軍からなる遠征軍が琢郡を攻撃。祭遵が彭寵の同盟者である「無上大将軍」こと張豊を捕らえることに成功したのである。
縛られて引き出された張豊は、蔵面をつけた祭遵の姿を見ると激昂した。
「未来の天子である余を捕らえるとは不届き千万。だいたい、顔を見せんか、顔を!」
祭遵は哄笑すると蔵面をめくって見せた。顔の右半分は女性かと見まごう美青年、左半分は頰に開いた大きな傷が口まで達し喰人鬼のような顔になっていた。祭遵はかつて戦いで頰に矢を受けたが、矢の刺さったまま指揮を続行し、賊軍を撃破した。彼は勇名とともにこの恐ろしい顔を手に入れたのである。
張豊は小さく悲鳴をあげて仰け反った。
「肝の小さい天子様もいたものだ。自分が天子になるとなぜわかる」
祭遵が問うと張豊は身を揺すって答えた。
「旅の道士が余に告げた。余の右肘には五色の袋が石を包んで繋がり、その石の中には玉璽があるのだと。余の天子となる由縁である。」
祭遵は張豊の右腕だけ縛めを解くと、短剣を抜いてその肘を突き刺した。短剣を回転させて引き抜く。出てきたのは夥しい血だけだった。
「何か言い残すことはあるか」
張豊は天を仰いだ。茫然自失という様子だ。
「……死しても恨むところはありません」
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張豊を処刑した四将は琢郡に駐屯し、そこで“耿弇を主将とし、彭寵を攻めよ”との劉秀の命令を受け取った。
しかし、耿弇は洛陽への帰還を願い出た。劉秀もはじめはこの行動を不可解に思ったが、やがてその真意を理解すると再度書状をしたためた。
ーー卿をはじめ、一族を上げて忠誠を尽くす耿氏を私が疑うことがあろうか。安心して征旅に臨まれよーー
息子である耿弇の深謀を知らされた父の耿況も、三男の耿国を人質として洛陽に送るとともに、さらなる援軍を四将に派遣するなど、疑いをかけられることのないように振る舞った。
一方、彭寵は弟である彭純に二王が率いる匈奴騎兵をつけ、琢郡へ侵攻した。
猛烈な砂埃をあげて接近する匈奴騎兵、その光景を嬉しげに眼差す男がいた。
「天よ、兄だけでなく私にも功を遂げる機会を下さって感謝します」
肩に鷹を載せたこの若者の名は耿舒、四将のもとに派遣された援軍の長であり、耿弇の弟でもある。
彭寵は漁陽太守の広大な居館、その中庭にある屋敷に篭って斎戒をしていた。
不審火や怪現象が相次いだために不安になり、内なる兵乱を予言する卜者に惑わされて、腹心の子后蘭卿までも城外に出してしまっていた。しかし、斎戒していても凶報は容赦なく届く。
「あり得ん、あり得ん、そんな聞いたこともない若僧に」
耿舒により匈奴の二王は討ち取られ、弟の彭純は捕縛された。また、別働隊を率いる李豪も祭遵によって撃破されていた。今や彭寵の王国は波に呑まれる砂の城のように崩れ落ちつつあった。
「諦めんぞ、俺はこんなところで終わる男ではないんだ、俺は、俺は」
取り乱す彭寵を見つめる男が部屋にいる。先程の凶報を届けた、奴隷の子密である。子密はその顔に薄い笑いを覗かせていた。子密のような奴隷は蒼頭と呼ばれる。官庁の中庭に設けられた太守や州牧の邸宅に出入りし、官庁と邸宅との連絡役をこなす秘書のような存在である。家族も近づけないようにしていた彭寵にとっても、食事や書状を持ってくる蒼頭だけは例外だった。
「貴様、奴隷の分際で主人を笑うか」
彭寵は壁にかけられた鞭を取ろうとした。しかし、子密は彭寵に蹴手繰りをかまして先に鞭を取り、主人の背を激しく打ち据えた。
「ひひひ、俺もなあ、こんなところで終わる男ではないんだ」
彭寵は子密を見上げた。その目に宿るどす黒い悪意を感じ取って、彼は射竦められたように固まってしまった。部屋に奴隷二人が入ってきたが、子密が目配せするとその二人は彭寵を押さえつけて手足を縛り上げた。三人はこの機会を狙って謀議を重ねてきたのだ。彭寵は、奴隷“ごとき”がそんな大それたことを考えるなどとは、思いもつかなかったのである。
洛陽の劉秀のもとに彭寵の首が届けられたのは、それから間もなくの事だった。
子密は彭寵を痛めつけて無理矢理“城外に子密を派遣する”という内容の書状を書かせると、すぐに殺害した。そして、首を贈答用の箱で偽装すると、書状を見せて城外に脱出したのである。
嬉々としてその手口を語る子密を不快に思った劉秀だったが、さりとて手柄は手柄なので罰するわけにもいかない。
結局、子密は“不義侯”という不名誉きわまる名で列侯されることとなった。
彭寵の一族は抵抗を続けたために滅ぼされることとなった。頑迷な性格、高すぎる矜持は一族揃ってのものだったと言えよう。
彭寵の破滅の端緒を開いた男、妻を殺して生き残った男、朱浮はどうなったか。
朱浮は、官僚の失策に厳しい姿勢を取る劉秀に対して強い口調で諫言するなど、乱世の終結後も能吏として活躍した。
その位は遂に三公の一つ、大司空にまで登った。
しかし、尖った性格にもより磨きがかかり、多くの者の恨みを買った。
明帝の御代になり、恨みを持つ同僚の告発で捕縛され、獄死したという。




