第八十二章 運命の子
1
馮異が趙匡と共に戦っていた頃、遠く幽州の地で起きた反乱、幽州牧の朱浮と漁陽太守の彭寵の不和から生じた戦いは新たな局面を迎えようとしていた。
薊城で彭寵の軍勢に包囲された朱浮は、援軍も撃破され、頼みの皇帝も来ず、絶対絶命の状況にあった。
薊を包囲する彭寵は、陣の中で奴隷に肩を揉ませながら茶を飲んでいた。
匈奴のほか、彭寵の勢いを見て琢郡太守の張豊も同盟を申し入れてきた。方術狂いの自称「無上大将軍」、本人の頭の出来は怪しいが、結構な大勢力である。
順調に進んでいる。朱浮の首を手に入れるまで、そう長くはかかるまい。
しかし、その時伝令が駆け込んできた。
「新たな敵軍が出現、我が方へ向かってきます」
彭寵は椅子から勢い良く立ち上がった。肩を揉んでいた奴隷の子密は彭寵の肩で顎を打って悶絶した。
彭寵は陣を飛び出すと、背後に現れた敵軍の旗を見た。
「あぁん?あの旗は上谷郡か。耿況め、あんな奴を助けに来るとは正気か」
朱浮の傲慢な態度は上谷太守の耿況にとっても不快であり、耿況は朱浮を毛嫌いしていた。しかし、長男が皇帝劉秀の側近くで仕えている耿況にとって、皇帝が派遣してきた州牧は例えそれが不快害虫のような男であっても救わねばならぬ対象である。
彭寵軍と耿況軍の戦闘に乗じて、朱浮は僅かな手勢や妻と共に城から脱出した。
彭寵は、耿況との戦闘が痛み分けに終わるとすぐさま朱浮の追撃を命じた。
鬱蒼と茂る森の中で、朱浮は妻と逃げ惑っていた。
追手の声が断続的に聞こえる。朱浮を見限った部下たちが恩賞目当てに寝返ったのだ。馬蹄の響きで見つかる事を恐れて、馬を降り牽いて歩いた。
「貴方、諦めては駄目よ。史書に名を留めるような男になるんだって、いつも言ってたじゃない」
朱浮は眼に涙をためて妻を見た。
「逃げ延びる策はまだきっとあるはずよ、一緒に考えましょう」
朱浮は妻に抱きつくと、顔を胸に埋めてすすり泣いた。
暫くして彼は震え始めた。
「思いついた……逃げ延びる策を」
その言葉に朱浮の妻は笑顔を見せた。
朱浮も顔を上げた。笑顔だった。しかし、妻はその笑顔の口元で歯がかちかちと鳴っているのを聴いた。
彭寵の部下が朱浮の馬を捕まえた時、馬には事切れた朱浮の妻が乗っていた。正確には、殺された朱浮の妻が馬の鞍に縛りつけられて、乗っているように見せかけられていた。
「畜生、朱浮め、こんな手を思いつくとはな。万一逃げおおせたとしても奴は処刑されると思っていたが、こうなっては」
傍らに控えていた子密が怪訝な顔をしているのを見て、彭寵は嘲るような口調で言った。
「ふん、お前の平べったい頭にもわかるように言ってやろうか。劉秀は足手まといになった姉や姪を見捨てて生き残ったことがある。同じ境遇になった朱浮を処断できまい」
「殺したのは朱浮自身なのに……」
「そんなことまでわざわざ報告する馬鹿がいるか。余計なことばかり考えるな。さっさと、この書状を青洲の張歩に届けてこい」
朱浮に逃げられた彭寵であったが、薊を手中に収め、燕王を自称した。二郡に周辺の県、合わせて十数城。自前の兵力が五万、加えて胡騎八千を擁する。同盟相手に張豊、青洲の張歩、盗賊軍の富平・獲策、そして匈奴。配下には子后蘭卿、李豪、彭純と匈奴から派遣された二人の王がいる。彭寵は彼の肥大した自尊心に相応しい大勢力を築き上げたと言える。
2
鄧奉の乱を鎮圧した劉秀は、ようやく彭寵の乱へ目を向けることが出来た。しかし、軍勢が盧奴の地まで達すると急に劉秀は撤退を命じた。
動揺する諸将を制したのは大司馬の呉漢だった。
「陛下は兵法を極めておられる。撤退にも深い意味があるのだ」
呉漢が目を怒らせてこう言うと、疑問を口にする者はいなくなった。
軍が元氏まで後退した時、劉秀は天幕の中で陰麗華と共にいた。
「呉漢さんには謝らないといけませんね。迷惑を……」
「今は気にするな。しっかり。私がついているからな」
陰麗華は出産の時を迎えつつあった。郭聖通との間に子はあったが、陰麗華の子は初めてである。
遠征にこっそり着いてきてしまった臨月の麗華を敵前に晒すわけにはいかない。撤退に戦略的理由はなかったが、呉漢は気を回してくれたのである。
劉秀は呉漢がそういう気配りを出来る人間だとは思っていなかったので、感謝しつつも驚いた。
陰麗華が遠征に隠れてついてきたのは、皇后郭聖通への配慮からだった。万が一死産にでもなった時、真っ先に疑われるのは郭聖通あるいはその一族による陰謀である。郭聖通は猛々しいところもあるが、自分を害するような人ではない。陰麗華は郭氏に災禍が及ぶことのないよう、敢えて困った妻を演じて見せたのである。
長い出産だったが、無事に男の子が産まれた。
「すごい……君に顔がそっくりだな」
「ホント、私にそっくりですね」
劉秀と陰麗華はこの母親似の男児を前に笑いあった。
劉陽と名付けられたこの赤子は、やがて後漢王朝の命運を左右することとなる、運命の子であった。




