第七十九章 大いなる赤き龍
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堵郷の董訢、育陽の鄧奉に挟まれた堅鐔は、宛の地で苦境に立たされていた。董訢の襲撃によって身に三つの傷を負った堅鐔だが、それ以上に食糧難が彼と彼の部下を責め苛むのであった。野草をむしって食する程に追い詰められた彼らに、遂に救援の軍が差し向けられた。
総大将を岑彭、属将として朱祜、賈復、耿弇、そして漢軍に新たに加わった劉嘉、王常という面々の遠征軍は董訢の軍を大いに破った。
「この調子なら、今日中に堵郷を回復するのも難しくねぇ」
斧をあしらった特徴的な兜をかぶった王常が朱祜に言う。前衛では賈復が暴れまわっており、董訢の兵を面白いように蹴散らしていた。王常は降ってくるのが遅かったと劉秀にいじられたが、投降してすぐに漢忠将軍という号をもらい、この遠征軍に加わっていた。
しかし、賈復の近くに数騎の馬影が近づくと状況は一変した。
「活きの良い奴がいるじゃねぇか、おい」
大剣を担ぎ、豹の外套をたなびかせた戦士がそこにいる。
「貴方が鄧奉か!董訢の救援に来るとは思ったが、思ったよりも動きが速い」
賈復は鄧奉の頭へ目掛けて凄まじい速さで戟を振るったが、辟邪の剣は返す一撃でこの戟の柄を粉砕した。
にやりと笑う鄧奉に臆せず肉薄した賈復は、手指虎を嵌めた拳を鄧奉の腹部に見舞った。
鋭い金属音が響く。鄧奉は辟邪の剣の横腹を盾のように使い、必殺の一撃を防いでいた。鄧奉は素早く剣の向きを変えると下から斜め上に向かって斬り上げた。
咄嗟に身を仰け反らせた賈復だったが、完全に避けることは出来なかった。切っ先のかすった胸から鮮血がほとばしり、賈復は呻き声を上げた。
斬り上げた大剣が再び振り下ろされんとしたとき、背後から鄧奉の背が強打された。
「そこまでだ、鄧奉!王常殿、賈復殿を頼む!」
鄧奉が振り向くと朱祜が鉄鞭を構えている。二人が睨み合っている間に、王常は負傷した賈復を回収した。
「そういう格好いい役は、もっと強い奴がやるもんだぜ、朱祜」
「今からでも遅くない。投降してくれ、鄧奉。俺達が敵味方に別れて戦うなんて馬鹿みたいだ。お前だって本当はそう思ってるはずだ」
鄧奉はぽりぽりと顎をかいた。
「馬鹿で結構。俺はあいつに頭を下げねぇ、絶対にだ。残念だったな」
鄧奉は辟邪の剣を一閃した。剣は胴を薙ぐ直前に向きを変え、剣の腹が朱祜の胴を撃ちつけた。鎧の下で肋骨が砕ける鈍い音を感じるのと同時に、朱祜はその意識を失った。
2
鄧奉の手により猛将賈復が重傷を負い、朱祜は攫われてしまった。遠征軍からもたらされた凶報に対し、洛陽の皇帝劉秀が下した決断は、自身による親征だった。
出発の前日、劉秀は馭者から献上品の名馬に乗るように強く勧められた。劉秀は各地から献上される名馬やら名剣の類いにあまり興味を抱かなかったので、今まで臣下へ下賜したり太鼓を引く馬にしてしまったりしていた。
「あれだけは百年に一度の馬でございます。項羽が乗った騅に匹敵する名馬、強敵と戦うには必要かと」
しかし、劉秀は乗り慣れた馬でないとかえって危ないとしてこの建言をやんわり退けた。馭者は悔しそうに辞去した。
夜、寝室に天禄の剣を持ち込むと劉秀はその刀身を眺めていた。
対になる剣を持つ程に、鄧奉と亡き長兄は仲が良かった。幼い頃は横暴な兄よりも、粗暴だが優しい(些か矛盾しているが)鄧奉の方に心を寄せていたものだ。決起してすぐには命を助けて守ってくれた事もあった。妻をずっと匿ってくれたのも、彼だ。
明日、自分はあの鄧奉を討つために旅立つ。あの、鄧奉を。
剣に映る自分を眺めていると、映る影が一つ増えた。
「起きていたんだね、麗華」
陰麗華が戸口に佇んでいた。
「こんな事になってしまって、きみには何と言ったらいいか……」
「そんな事は考えないで」
陰麗華は劉秀に歩み寄るとその手を握った。
「私を愛しているのなら、無事で帰ってきて下さい。私が望むのは、その事だけ」
劉秀は麗華の額に自分の額を当てた。
「ああ……約束するよ」
3
深夜、眠りについた劉秀は心中の動悸に目を覚ました。花窓から廊下を赤い光が通り抜けるのを見た劉秀は、天禄の剣を手に部屋を出た。
庭に赤い光が閃くと、自分の姿をした男が其処に現れた。男は冕冠を被り、酷薄な目をして、手には天禄の剣を握っていた。
「ずいぶん辛そうじゃあないか、また代わってやろうか」
「要らぬお節介だ。幻め」
男はせせら笑った。
「これまで随分助けてやったのに、お前は薄情だな。まるで俺みたいだ」
「そうさ、お前は私だ」
男は目を細める。
「もう一人の自分なんていない。弱い私も、残酷な私も、全てどうしようもなく私なんだ。だから、もういい」
劉秀は天禄の剣を振り下ろし、男を袈裟斬りにした。
二つに斬れた男の姿は抜け殻のように半透明になり、その切れ目から赤光が放たれるとそれは生き物のような形を創った。
その姿は長大な蛇のようになると、四本の手足が生えて煌々と庭先を照らした。
「修羅の道を行く者よ!内なる龍を乗りこなし、王道を拓いてみせよ!」
大いなる赤き龍は、夜空に向かって咆哮した。そして、劉秀に飛びかかるとその身体に溶け込んで消えていった。
翌朝、銅馬軍を率いて洛陽の城門を抜けると馭者が一頭の馬を連れて待っていた。
「お、御心変わりがあるやもしれぬと、僭越ながら連れて参りました」
傍らにいる馬は、艷やかな青黒い肌をした大騾馬だった。その肌は美しさと強さを兼ね備え、脚は青銅の管のように鍛えられていた。冷気を放つ暗い目は、並の馬にはない知性を湛えていた。
劉秀は自身の乗馬から降りると労を労うようにその顔を撫で、連れていけないことを納得させた。
鞍をこの名馬に載せ替える間、劉秀は馭者に話しかけた。
「剣もいつもの物と変えた。連れてきてくれて、助かったよ」
劉秀の腰にはいつもの使い慣れた飾り気のない剣ではなく、兄の形見となった天禄の剣が吊られていた。
「この馬の名は、何と言うんだい?」
「時龍、と申します」
良い名前だ、と言うと劉秀は時龍に跨った。初めて乗った馬とは思われぬような感触だ。まさに人馬一体だった。
銅馬軍の兵士達は、感嘆の声を上げた。その偉容は蚩尤との戦いに臨む黄帝を思わせた。
運命の戦いが近づいていた。




