第七十七章 崤底の戦い 其の二
赤眉は崤底の地に続々と集結している。馮異からもたらされた挑戦状に対する赤眉の回答は、これに応ずるというものであった。この決定には赤眉やその首領である樊崇が好戦的な性格であることも影響してはいるが、早くこのしつこい追跡者を叩き潰して洛陽を略奪しないことには食糧が尽きてしまうという事情があった。
馮異の軍は一足早く現着し、全部隊が配置を完了していた。
赤眉の前面に赤い襤褸を纏った男が馬に乗って現れた。その男、樊崇が大钯を高々と掲げると、集結を終えた赤眉が一斉に鬨の声を上げる。樊崇と馮異は同時に言った。
「放て!」
互いの矢が朝焼けの空を多い尽くすように降り注ぐ。流れ矢で倒れる者も両軍に数百人はいたが、それで動じるような弱兵はこの戦場にはいない。
前衛の槍兵が突撃を開始すると、互いの槍の穂先が激しくぶつかり合い、耳をつんざく金属音が鳴り響いた。
両軍は一歩も譲らない。諸葛稚は前衛の中心に位置し、金砕棒で次々と馮異軍の兵を叩き潰していく。
「抜けるぞ!ついてこい!」
猛攻する諸葛稚の姿を確認すると、馮異は指揮刀を振り上げて全軍に合図を出す。
「前衛開放せよ。骨朶兵、前へ!」
前衛ははたと動きを止めると、海が割れるかのように中心を開放した。
その奥から現れた中隊規模の一群は、通常の札甲よりも長い甲葉に覆われた堅固な鎧を身につけ、左手には手牌と呼ばれる長い盾、右手には骨朶と呼ばれる長い錘を装備していた。
諸葛稚が先頭の一人に金砕棒の一撃を振るう。骨朶兵は手牌を犠牲にしてこれを防ぐ事に成功した。
「こいつ、雑兵の癖に!」
周囲の骨朶兵はこの隙を逃さず骨朶で諸葛稚の馬に攻撃を加えた。前脚を折られた馬が悲鳴を上げて転倒する。泥に塗れた諸葛稚や取り巻きの赤眉兵に骨朶兵が襲いかかった。たちまち混戦となる。悲鳴と怒号が響き渡り、砂塵に包まれて諸葛稚の姿は見えなくなった。軍中きっての勇士の姿が消えたことで、赤眉の兵士達にようやく動揺が走った。
樊崇は舌打ちすると、大钯を振るって仲間を見渡した。樊崇は声の枯れんばかりに叫ぶ。
「俺達の家族を飢え死にさせたのは誰だ!俺達を見捨てたのは誰だ!お上だ!お上は俺達から奪ってばかりで、洪水に襲われた俺達を見捨てやがった!」
赤眉達は水をうったように静まり返った。
「こいつらは新しいお上だ!俺達から全てを奪った連中に、すげ変わろうっつう狡い奴らだ!そうは行くものか、俺達はもう奪われない!何故なら、俺達が奪う側になったからだ!こいつらを殺せ!そして、全てを奪ってやれ!」
樊崇!樊崇!樊崇!
赤眉兵の目に殺気が戻り、異様な熱気に包まれた。左右に分かれた馮異の兵に、赤眉は雪崩のように襲いかかった。
馮異はその様子を見て、咳払いをした。
「やはり、これだけでは足りないな。もちろんまだまだ用意はあるが」
勢いを増した赤眉の斜め後ろから蹄の音が響き渡る。
「大司徒の無念、この私がお晴らし申し上げる!」
騎兵を率いた張宗である。前衛の戦闘が始まった頃に迂回を始めた騎兵隊は、この時点で赤眉の背後を取ることに成功していた。
後衛を任された遅昭平は、素早く兵を反転させると鞭箭で矢を次々と投げつけて応戦する。
「いきなり狗爬式なんて、品のない男だねぇ。どう思う?徐宣」
傍らで戦っていた徐宣は顔を赤くして言う。
「ひ、品がないのはお前だッ!」
遅昭平はけらけらと笑った。徐宣は小知恵が回る狡い男だったが、女性には初心なところがあった。彼女はそれを知っていて、わざとからかう事がよくある。
配置としてはほぼ包囲されたにも関わらず、赤眉達は一歩も退かず戦い続けた。両軍が一歩も譲らぬまま、日没が近づいていた。
馮異の副官である廬生は馮異に進言する。
「そろそろ、頃合いかと存じます」
「そうだな。よし、枝葉作戦を発動せよ」
夕焼けに赤く染まる大地に両軍がひしめき合っている。馮異軍の背後からこの中を縫って、ある奇妙な兵達が現れた。赤眉はその兵を見ると、攻撃の手を止めた。
「お、味方の増援か?」
その兵、赤眉と同じ軍装を身に纏い、眉も赤く染めた兵は、無言で赤眉兵の腹を戈で突いた。周囲の赤眉は悲鳴を上げた。
次々と赤眉の兵は、この偽赤眉とも言うべき兵に討たれていく。夕焼けの中で敵味方の判別は困難であった。
「兜に木の枝を挿している奴は偽物だ!騙されるな!」
からくりを見抜いた逄安が叫ぶが、既に混乱は収拾が困難な段階に達していた。
――味方を判別する目印には、この木の枝を使いましょう。作戦名は枝葉作戦です――
偽赤眉の作戦を部下に伝えた時、滅多に作戦に口を出すことのない廬生が嬉しげに木の枝を持ってきた時のことを馮異は思い出していた。木の枝を使うからそういう作戦名にするのか、と問う馮異に廬生は言った。
ーーそれだけじゃあありません。俺達は皆、大樹将軍の、大樹の枝や葉の一つ一つでありたいんですーー
馮異は自分が優れた指導力を持つから兵に懐かれるのだとは全く考えない。取るに足らない自分に得難い部下が幸運にもついてくれて、勝利をもたらそうと懸命になってやってくれている。有り難いことだ。そんな風に馮異は考えていた。
草の者の情報から、馮異は延岑と李宝が赤眉を大破した時の作戦を掴んでいた。結束を乱すことがそれ程までに有効ならば、味方を信用できなくなる状況を現出させればいい、というのが作戦の出発点であった。
いま、その作戦思想は的中し、赤眉の統制は完全に乱れている。樊崇の卓越した指導力をもってしても、もはや立て直すことは不可能だった。
逄安は崩壊していく味方を見て、弱々しく言った。
「樊崇、もう、もう無理だ」
「畜生がぁ!西には逃げない!陛下を護りながら、東に駆け抜けるぞ!」
樊崇や主要な幹部は劉盆子を護りながら、包囲を突破し、東進していった。
馮異は捕虜を得ること男女八万人、赤眉の数を半減させることに成功した。馮異の大勝利に終わったこの戦いは、この地の名を取って崤底の戦いと呼ばれる。
「あとは裏方に徹する。捕虜を手荒に扱うなよ。陛下の民となる大事な者たちだ」
馮異は糧食を削ってまで捕虜に食料を与えて、安心させた。馮異に心服する兵達に不平を漏らすものは出なかったが、馮異は自ら食事の回数を減らす徹底ぶりだった。
後に新末後漢初の動乱、あるいは光武の争覇戦と呼ばれるこの戦乱の時代、その口火を切った赤眉に終焉の時が近づいていた。




