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第六章 小長安の戦い

 李通りつうが難を逃れて反乱軍の下へたどり着いたその頃、宛にある前隊大夫ぜんすいたいふ甄阜しんふの居館では軍議がとり行われていた。


「言い訳は聞き飽きた。要するにお前は賊軍に怯えて城を捨てた、そういうことだ」


 同じ表情を続けているうちに顔の造り自体がその表情に準じたものになってしまう人がいる。甄阜のしかつらがまさにそれで、劇に用いる顰みの仮面かと見間違うばかりの見事な顰め面であった。

 詰られているのは棘陽きょくようの守備責任者であった県長の岑彭しんほうである。

彼は、反乱軍に同調して陰氏と鄧氏が挙兵したのを認めると、下手に抵抗して兵を無駄にするよりは宛の本隊と合流して戦うほうがよいと判断し、棘陽を離れて宛に向かったのである。しかし、その判断は上司二人の怒りを買うところとなったのである。


怯懦きょうだの兵は斬る。閣下の統率方針を、よもや忘れたわけではないだろうな、岑県長」


 冷然と言い放つのは、甄阜の片腕である屬正しょくせい梁丘賜りょうきゅうしであった。

こちらは甄阜よりは表情に変化があるものの、顔に鼻がなく代わりにあるのは大きな傷跡で、まるで棺から蘇った幽鬼のようですこぶる不気味だ。

彼の鼻は賊の討伐時に傷を受け、腐れ落ちてしまった。

故に賊軍を憎むこと甄阜に勝るとも劣らない。


「お疑いならば、なおのこと次の戦で私をお使い

ください。この金瓜錘きんかすいで賊軍を叩き潰し、疑惑をたちどころに晴らして見せましょう」


 金属の巨大な玉のついた長柄の武器、金瓜錘を左手で握った岑彭は右手でどんと胸を叩いた。

その表情には自信が溢れている。

この四角い顔で固太りの男は、棘陽を脅かす賊をこれまで何度も撃退してきた勇猛の士であった。

 甄阜は棘陽を捨てた岑彭に怒りを感じているものの――こいつとこいつの兵は忌々しいことに使える――とも思ったので、怒りを発散させつつ岑彭を使うことにした。


「梁屬正、お前はこやつの妻子を捕まえて今すぐ獄につなげ。…岑よ。妻子を殺されたくなかったら、次の戦では身命を賭して国に尽くすことだな」


「そのようなことをされずとも、私は戦うと言っていますのに…いや、心得ました。このしん君然くんぜん、お国のために命をかけて戦いましょう」


 岑彭が退出すると甄阜は窓から長雨に晒されている宛の街を眺めた。

ここは儂の街だ。誰にも渡さん。甄阜が無意識に力を込めると窓の木枠が軋む音が部屋全体に響いた。

 降り続く雨に濡れた地面からは白い霧が立ち上り、街全体を包みつつあった。


 宛を発した新軍と蕀陽を発した反乱軍。

二つの街の中間地点にあたる小長安という小集落の近郊で両軍の決戦の火蓋は切って落とされるはずだった。

 反乱軍は先陣を新市・平林の兵が務め、中軍に南陽の豪族軍、後方には妻子や輜重しちょう(兵糧、武器の荷車)を引き連れていた。家族を連れているのは、家に置いていったら捕縛されて人質にされるか処刑されてしまうからである。もちろん劉秀の姉や妹、姪たちも例外ではない。

 明け方から発していた霧は、数刻ごとにその濃さを増し、いまや数歩先も見えぬほどになっている。


「…不味い。盗賊どもはこのあたりの地理に明るくない。この霧は我らの不利にしか働かないだろう」

 劉伯升は中軍から前方を見やると、守りを固めるように指示を出した。

劉秀は側面からの攻撃を警戒し、朱祜とともに左翼に向かった。

しかし、待てども待てども前方から会敵したと思しき兆候が感じられない。

おかしい。毛穴が開き、肌が粟立った。このまま進んではいけない気がする。

考えろ、考えろ劉文叔。

劉秀は馬上で熟考し、ついに最も恐ろしい可能性に行き当たった。劉秀は叫んだ。


「大変だ!敵は後ろから襲うために、霧の中で我々をやり過ごしたんだ!敵は背後にいる!姉上達が危ない!」


 劉秀と朱祜は数騎を引き連れて馬を翻すと後方に向かった。

霧の中で後方から微かに聞こえた悲鳴は、最悪の予想が的中してしまったことを物語っていた。


「逃したか!男の方は死んだだろうが、女を仕留め損なったのは口惜しい」


 蘇った腐乱死体のような顔をした梁丘賜りょうきゅうしが馬上で弓を振り回して唸っている。

馬を並べた岑彭は、女を殺すことに意味はあるのか、と思ったがそこには意見の相違があった。

 会戦に先立ち、前隊大夫の甄阜しんふは麾下の軍勢に対して演説を行った。


うじは人を刺さないが、長じて人を刺す蚊となる。賊が蚊ならば、賊の子は蛆であって、放っておくと増えるばかりだ。故に、戦場で賊の妻子を見つけたならばすぐに殺せ。従わないものは、恐れを抱いたと見なし、斬る」


 実際に軍法を犯した兵を壇上で斬首すると、兵たちは恐怖と興奮の入り混じった異様な熱気に包まれた。

新軍が霧の中でも統率を乱さなかった事には、この熱気が多分に作用していた。

 演説を聞いた時、岑彭は――賊が仮に蛆や蚊だとして、蛆がわくドブを作り出してしまったのは現政権ではないだろうか――と思ったが、その疑念を口にすることは躊躇われた。

 動機がどうあれ、無抵抗のものを一方的に殺戮するのは性にあわないが、梁丘賜と一緒にいるとそれを強要されそうだ。


「そろそろ後方の異変に気づいた敵の将兵が救援に来る頃です。超越し、迎え撃ってきます」


 岑彭は梁丘賜の返事を待たずに馬に鞭を打つと駆け出した。


 馬を奔らす劉秀の前方から風を斬る鋭い音が聞こえた。

劉秀は咄嗟に身をかがめると頭上を何かがかすめていった。


「勘がいいな、青年。我が名は岑君然、突然で悪いが家族のために死んでいただく」


 空振りした金瓜錘きんかすいを馬上で構え直し、新軍の武将がこちらを伺っている。

朱祜が目配せすると、劉秀は馬を鞭打って左斜めに走りだした。

 岑彭が慌てて金瓜錘を振りかぶると、朱祜は岑彭に兜を投げつけて注意を引きつけた。


「我が名は朱仲先!ここは私が御相手してしんぜよう」


 朱祜が鉄鞭を構える。

劉秀は振り返らず馬を走らせた。

背後で金属が激しくぶつかりあう音が聞こえた。


 劉家の三兄弟の次男、劉仲は馬上に妹の伯姫を抱えて中軍を目指していた。

突如背後から襲われた新軍に彼の率いる輜重隊はことごとく殺され、混乱のさなか妹一人を助けだすので精一杯だった。

 伯姫は震えながら馬の背にしがみついている。

 自分の妹ながら、かわいいと思う。

こんな世の中じゃなけりゃもっとはやく貰い手があったかもしれないな。

 ずっと身体が熱い。

この霧の中をずっと駆けてきたが、行けども行けども霧ばかり、友軍らしき姿はなかった。

背中が熱い、熱い、熱い。

 そのときかすかに誰かの声が聞こえた。

確かに聞こえた。

秀だ。弟が来たのだ。

俺にはわかる。これで妹は助かる。

劉仲は心の底から安堵した。


「なあ、伯姫。いいひと、見つけろよ」


「…兄さん?」


 伯姫が振り向くと劉仲は微笑んだままゆっくりと馬から落ちていった。

伯姫が馬上から見た劉仲のその背中には矢が何本も深々と突き刺さっていた。

 伯姫は絶叫した。

馬はその声に驚いたのか、急に速度を速めて進んでいった。

 劉仲の躯は霧に飲み込まれ、すぐに見えなくなった。


「伯姫、さっきの悲鳴は伯姫か!どこだ!兄が来たぞ!」


 劉秀が見つけた伯姫は馬から振り落とされてはいたものの、目立った外傷はなかった。


「秀兄、仲兄が、仲兄が…」


劉秀は、泣きじゃくる伯姫を無言で優しく抱きかかえて共に馬に乗り、走りだした。



 霧の中を駆けて行くと、劉秀の目にうずくまる幾人かの人影が見えた。

そこには身を寄せ合う三人の姪と、娘達を抱きしめる姉の劉元りゅうげんの姿があった。


「姉上、ご無事でしたか!お乗りください。すぐにここを離れましょう」


 劉元の表情は優しげで、その瞳にはどこか悲しみの色が浮かんでいた。


「あなたでも気が動転することがあるのね。馬一頭に六人は乗れないわ」


 劉秀はその意味するところを理解したが、口にすることが難しかった。

口中が乾いている。

舌が張り付いているような気がした。


「まさか、兄さん、姉さん達を置いていくなんて言わないよね。兄さん?」


伯姫が耳元で尋ねるが、それは劉秀自身の問でもあった。


「文叔!」


劉元が立ち上がりこちらを見据えている。


「行きなさい。私達を救うことは出来ないわ。二人共死んではダメよ」


 劉秀はしばらく瞑目して、言った。


「伯姫を逃したら、必ずや戻ります」


 言うや否や、劉秀は馬の腹を蹴って駆けだした。霧の中に二人を乗せた馬が遠ざかっていく。

劉元はその姿を見送ると、ふと溜息をつき、三人の娘を抱き寄せた。

その後の劉元達の運命について、後漢書鄧晨伝には簡潔な記述がある。

會追兵至,元及三女皆遇害。

(追手の兵が至り、劉元と三人の娘はみな殺された。)

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