第七十六章 崤底の戦い 其の一
1
劉秀は洛陽の西に位置する宜陽、南西に位置する新安にそれぞれ兵を配置して赤眉迎撃の準備を実施した。
敵は大雑把に捉えれば西から東に向けて進んでいるわけだが、中間目標としてこの二つの町のいずれかを先に占領し、体制を整えてから最終的な目標である洛陽にやってくる、というのが劉秀の見立てであった。
故にこのどちらに敵がやってきても対応できる態勢を整えたのだ。
宜陽と新安に兵が到着する頃、司隷部に進入した馮異は赤眉との戦闘を開始していた。
「こいつら……何でこんなに細かく押したり引いたり出来るんだ」
右翼を担う謝禄は、馮異軍の巧みな進退によって次第に翻弄され始めた。
馮異はその足並みの乱れを見逃さない。
「次の後退で右翼は必ず取り残される。間隙に向けて矢を射かけて牽制し、分断して畳み掛ける」
馮異が退くと右翼のみが突出して追走してきた。
謝禄は自分の背後に矢が降り注ぎ始めたのを振り返って、蒼白となった。いま的にかけられようとしているのは自分だ。
その時、矢の雨を掻い潜って駆けてきた者がいる。赤い襤褸を身に纏い、残薔薇髪を振り乱すその姿は、地獄の扉を破って這い出してきた亡者のようだ。
「謝禄、てめぇ!簡単に釣られてるんじゃねぇ!」
「は、樊崇、面目ねぇ」
樊崇は馮異軍の前衛を睨むと、大钯でその一角を指し示した。
「あの辺が薄い。ぶち割って逃げるぞ」
謝禄には周囲の兵との違いがわからない。戸惑う謝禄を尻目に樊崇は馬に鞭をいれて走りだした。救援に来た樊崇の姿に意気上がる兵達はその勢いに乗って突進していった。
「馮異様、前衛を突破されました」
「ほお、果断な将がいるようだな。後ろに回って、そのまま左翼に合流しようとするはずだ。攻撃を集中し
……」
兵達のどよめきが本陣まで伝わってきて、馮異は思わず口をつぐんだ。
「赤眉の大将がいたぞ!討ち取れぇ!」
前衛を抜いた樊崇と謝禄は二手に別れた。僅かな兵だけを率いて馮異軍を挑発しながら走る樊崇に兵士達は功を焦って殺到している。
結局謝禄の兵は何割かを減じながらも左翼の逄安のもとまでたどり着いて、赤眉は更に東進していった。
そして、壁となって死んでいく忠誠心に厚い兵に阻まれて、樊崇も討ち損じてしまった。
「大将自らが囮になるとは、計り知れぬ連中だ」
馮異は確実に赤眉の兵を削り取り、男女五千を捕虜とした。損害は軽微である。しかし、東進を許した以上、目的は達成されていない。
馮異は長丁場を覚悟していた。
2
敗軍をまとめて引き返してきた鄧禹が馮異と鉢合わせた。鄧禹も部下も、どこか煤けたようにうらぶれた印象だった。しかし、鄧禹は馮異の姿に目を輝かせて駆け寄ってきた。
「天佑だ!兵を合わせ、すぐに赤眉に総攻撃を加えましょう」
馮異は熱に浮かされたような鄧禹を見て、なだめるように返す。
「私も赤眉と戦い捕虜を得ましたが、まだまだ敵は健在です。恩と信で少しずつ降伏を誘うことは出来ても、正面からの戦いで大破することは困難と存じます。新安のほど近く、黽池に陛下が兵を進めておられますから、そこまで誘導して挟撃しましょう。これが万全の計と考えます」
「却下だ」
鄧禹の声は壊れた楽器のように割れていた。
「このまま、功無く赤眉を陛下の前に差し出すなどということは出来ない。ここで倒す」
「閣下の兵は見るからに疲れています。そして、閣下も。利のある戦いとは思えません」
「これは、大司徒としての命令である」
征西大将軍の馮異より、大司徒の鄧禹は格上である。これを言い出されると馮異には抗う術がない。
鄧禹は強引に兵を吸収すると赤眉を追い始めた。
追いついてきた鄧禹と馮異の軍を見ても、樊崇は冷静だった。
「ちらほら死人みたいな奴が混じってるぞ。逄安、これにつけこむ策はないか」
逄安は樊崇が汚名返上の機会を与えてくれたことに気がつき、身震いした。
「あいつら俺らと同じく腹ぺこだ。飯には勝てない、と思う。俺の策は……」
鄧禹の部将である鄧弘が先鋒を率いて激しく攻め立てると、赤眉は退却をはじめた。
赤眉は退却しながら輜重を落としていく。その中に台車に積まれた豆があった。
食糧に飢えていた兵達は一斉にその豆の台車に群がって行った。
しかし、兵達が豆の袋をつまみ上げると、その下はただ土塊が積まれているだけだった。表面のみが豆で偽装されていたのである。罠だと鄧弘が気づいた時にはもう遅い。引き返してきた赤眉は既に包囲を形成していた。
馮異や鄧禹が救援の軍を差し向けた時、既に現場は殺戮の巷となっていた。鄧弘だけでも救えたのは不幸中の幸いと言えた。二人は撤退を余儀なくされた。
「閣下、やはり挟撃へ持っていくべきです。態勢を立て直してから誘導しましょう」
「相手も疲れている。間髪入れず、再度攻撃を加えれば勝てる。攻撃を再興する」
疲れた兵で疲れた兵を叩いても、何の優位性もなかった。今度は鄧禹自身が待ち伏せに遭い、徐宣率いる部隊に包囲されてしまった。
「ははは、鄧禹は謀士と聞いていたが、謀に嵌まる方の士だったのかな?」
徐宣とともにきた遅昭平は、上着をはだけさせると、その内側に隠し持っていた鞭箭と呼ばれる投げ矢を取り出した。これは矢筈のついた矢と、輪のついた銅の棒からなる武器である。
「坊や、お姐さんが世の中の厳しさを教えてあげよう」
輪に矢筈を引っ掛けて振り抜くと矢は風を切って勢い良く飛んだ。鄧禹の真横にいた兵は喉を貫かれて落馬した。それを合図に赤眉は鄧禹達に襲いかかる。
鄧禹は腰から二刀を引き抜くと、跳びかかってきた赤眉を十字に切り裂いて、獣のように吠えた。
張宗も戟を振るって次々と敵を打ち倒していく。
「押し通る!」
「させるか!数で揉み潰せ!皆殺しにしろッ!」
乱戦の最中に鄧禹の兵達は次々と屠られていく。しかし、鬼畜のごとき形相の鄧禹は海を渡る預言者のように敵の波を掻き分けて進んでいった。
鄧禹が包囲を駆け抜けたとき、周囲には張宗を含め、たったの二十五騎しかいなかった。
馮異はこの二十五騎を庇うように取り囲み、戦場を脱出した。
川の水に浸した布で顔をふいた鄧禹は、馮異に謝罪をした。
「卿の言う通りだった。私はこれから陛下のもとへ出頭し、大司徒と梁侯の印綬をお返しするつもりだ。卿の正しい意見をねじ伏せたことを謝罪する。すまなかった……本当に……すまない」
憑物の落ちたような顔付きの鄧禹を見て、馮異は安堵した。
「なぜ、これほどまでに功を焦られたのですか」
鄧禹の目から涙が静かにその頰を伝った。
「私の施した謀は、公に出来るものではない。たとえ、時代が降っても。私はそれだけでは満足できなかった。表向きの、日向の成果が欲しかった。……陛下の第一の功臣として、竹帛に名を留めたかった」
「閣下は多くの得難い人物を推挙されました。それは、他の誰にも成し得ない功業だと思いますよ。」
馮異は、鄧禹の言う謀がここ最近に起きた反乱と何か関係があるのだろうかと想像をしたが、それ以上追求しなかった。
翌朝、鄧禹は出立した。別れ際に張宗を馮異に託したために、その数は二十四騎になっていた。
馮異の副官である廬生は、鄧禹を見送った馮異がおもむろに書状をしたため始めたのを見て、問うた。
「赤眉の将に寝返りを促すのですか?」
廬生の頭には李軼との駆け引きが浮かんでいた。
「いや、挑戦状さ」
馮異は静かに笑った。
「鄧禹殿の意見にも汲むべきところはあった。策まで使いこなすようになった赤眉、彼らはこれからもっと強くなっていく。ここで力を削いでおく必要がある。方針を転換し、この崤底で一度戦う」
廬生は馮異の顔を見て、この頭の中に立案されている作戦を考えた。やはり自分には想像がつかないが、この人の立てる作戦の何がしかの足しになれるのならば、それでいい。この大きな樹の枝や葉の一つでいられるならば、それは光栄なことだ。




