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第七十五章 長安を制する者は 其の三

 戦場を脱出した延岑えんしんは暗い森の中で野営をしていた。蜥蜴とかげを何匹か捕まえたので炙って食べる。蜥蜴は見た目よりもずっと脂が出るため、かなり良く焼かなければならない。鱗が黒くなるまで焼けば、皮が勝手に浮いて剥ぐ工程が必要なくなるし、脂が抜けきって食べ頃だ。そのとき、背後の樹から何かが飛び降りる気配を感じ、延岑は焼き蜥蜴の串を咄嗟に背後の気配に向けた。


「親分、刺さる刺さる」


「なんだ、小僧か。紛らわしいわ!」


背後に降りたのは屈狸クズリだった。彼は無言で竹簡を差し出した。それは李宝りほうからの書状だった。


――不覚にも敵に囲まれて、降伏せざるを得なかった。今すぐ逃げ出す事は難しいが、こんな物を渡せる程度に監視の目は雑だ。そこで、貴殿は赤眉を挑発して、その目を引きつけてくれ。その隙に私は陣中で工作を行なおう。内と外から混乱を引き起こせば、撃退することも不可能ではない。頼む。ーー


延岑は首をぐりぐり回すと言った。


「赤眉共、練度もさることながら士気の高さが厄介だ。やつらの結束にひびを入れるような工作をしろ、と李宝に伝えろ」


「今から蜻蛉返りですか。人使いが荒いなぁ」


背を向けて走りだした屈狸に、延岑は何本か焼き蜥蜴を投げつけた。屈狸は後ろ手に串を掴むと再び走り出し、闇に消えた。


 赤眉の左大司馬、逄安ほうあんは、手勢を率いて挑発行為を繰り返す延岑に怒り心頭だった。はじめは無視していたのだが、どこまでも執拗に反復し続けるために、遂に我慢の限界が来た。


「性懲りもなく仕掛けてきやがって!一気に捻り潰してやる」


逄安が陣を空にして出撃するのを確認すると、いそいそと李宝は動き出した。

延岑は逄安の軍と接触すると今度はひたすら逃亡に徹し、大軍で出撃した赤眉軍はこれに追いつくことが出来なかった。

疲労困憊した赤眉軍は自陣に向かって帰投を始めたが、すぐに兵達は異変に気がついた。


「旗が、変わっている!」


自陣に翻っているはずの“樊”の旗が全て白旗に変わっているのである。

全軍に動揺が走った。


「陽動に釣られている間に、大軍が来て本陣を乗っ取られてしまったんだ」


そんな大軍はどこにもない、旗を取り替えられただけだ、逄安は冷静に兵達を抑えようと試みたが、皆は中々聞く耳をもたない。逄安にとってはただの旗でも、明日をも知れぬ兵卒に取って、赤眉の旗は魂の拠り所であった。それが全て取り払われてしまったとき、彼らを繋ぎ止めていた箍は外れてしまったのである。

その後ろから散り散りに逃げたはずの延岑の軍が銅鑼を喧しく鳴らして襲いかかる。

悲鳴や怒号が響き、赤眉軍は数で優っているにも関わらず逃亡を始めた。罅を入れるに留まらず、赤眉の兵達の心は割れてしまった。


「しめた!奴ら谷に向かっている……退路を断って攻撃できればこちらが小勢でもいける!」


延岑はそのまま追撃を加えて、谷へ谷へと赤眉を追いやっていく。生い茂る木々の間から李宝の手勢も合流し、一手になって追い詰めて行く。谷はもう目の前だ。

直後、耳をつんざくような悲鳴と共に、地獄が現出した。

谷で退路を断って攻撃、どころの話ではない。赤眉軍は、そのまま谷底に落ちていったのである。

その様子は、集団で海中に身を投じる気の触れた鼠、あるいは羊飼いを見失った羊の群れが絶壁から落ちていく様に似ていた。

逄安率いる十万の赤眉の内、じつにその九割までもが断崖の底に消えてしまった。

延岑は奈落に落ちていった赤眉を上から見て、呆気に取られた。どれ程驚いていたかというと、さほど遠くない場所で同じく立ち尽くしている逄安の姿に気づかず、ついに取り逃がしてしまった程である。

気がつくと李宝と屈狸が後ろに立っていた。李宝は身震いして言う。


「これ程上手くいってしまうと、運を使い果たしたんじゃないかと空恐ろしくなる」


延岑は笑い出した。


「まさか。この延岑、悪運だけは売るほど持っている」


この杜陵の戦いで、勇将延岑の名は関中に響き渡ることとなった。


 鄧禹とううの思惑通りに事は進んでいる。洛陽の劉秀からは劉嘉への対応について、


ーー私の親しんだ劉嘉殿は穏やかな人だ。少なくとも、独立して私に戦いを挑むような野心的な人ではない。大方、長安の遊蕩児に惑わされて、この様な次第となっているのだろう。なるたけ争わず、帰順させるように。――


という書状が届いていた。劉秀の方針と鄧禹の協調路線は幸いにも合致している。

劉嘉がこちらの誘いに乗って谷口で赤眉と戦闘をはじめたのは良い流れだ。杜陵においても延岑達が戦闘を開始している。

鄧禹は当初の計画通りに長安へと進行を開始した。


「左手と右手、どっちが偉い?諸葛しょかつ


「そりゃあ、右手の方がよく使うから、右手のが偉いんと違いますか」


「その通り!つまり右大司馬であるこの謝禄しゃろくサマは、左大司馬の逄安ほうあんよりも偉いのだ」


諸葛稚しょかつちは目を輝かせる謝禄に対して、仕方なく頷いた。

鄧禹率いる漢軍が近づいてきているのを察知した樊崇はんすうは、謝禄に迎撃を命じた。


「大方、二手に大軍が向かってるから長安はカラだと勘違いしてるんだろうが……廖湛りょうたんの兵隊はここに来て増えた連中だ。長安には俺達がいるわけよ」


午後になって、鄧禹の軍は長安に到達した。わざと侵入を許した謝禄は、薄暮に差し掛かると攻撃を仕掛けた。諸葛稚は金砕棒を片手に先陣を切る。


「暗い時は待ち構えてる方が強いなんて事は、俺でもわかるぜ」


鄧禹の兵は、想像よりも遥かに多い敵に対して恐慌状態に陥ってしまった。

夜間の市街戦、混乱する味方による友軍相撃が深刻な被害をもたらし、鄧禹の軍は瓦解していった。

結局、多くの被害を出した鄧禹は雲陽への撤退を余儀なくされた。


 ぼろぼろになった逄安がわずか数千騎と共に長安に帰ってきたのは、鄧禹の撤退と丁度入れ替わりのような形であった。

逄安は朝堂にたどり着くと、いきなり土下座をして号泣した。


「俺が軽はずみに動いたせいで、昔からの仲間達を大勢死なせちまった。樊崇、俺を斬ってくれ」


謝禄が剣に手をかけたが、樊崇がひと睨みすると慌ててその手を離した。

樊崇は逄安を抱き起こすと、周囲を睥睨して言った。


「起きてしまったことは仕方のないことだ。今後、この事をぐちぐち言う奴は、俺が相手になる」


樊崇の言葉に異論を唱える者は、赤眉にはいない。

徐宣じょせんの提案で、この場は今後の方針が話し合われる会議の場となった。


「墓まで荒らして、今度こそ本当に何もないわけさ、この長安には。防衛したところで、何の旨味もない」


腕組みをして聞いていた樊崇が、口を開く。


「東に行く。銅馬帝を殺して、洛陽を陥す」


おお、という驚きの声が上がる。


「長安はやった。洛陽も、宛も、やってやる」


残薔薇髪の奥で光る目には、憎悪の炎が燃え盛っていた。



 雲陽に逃げ帰った鄧禹は、約束通り食糧にありついて人心地ついた劉嘉と来歙に迎えられた。


「元はといえば、私は王莽を倒して平和な世の中を取り戻すため、今の陛下と陛下の兄上と共に立ち上がりました。平和な世の中が実現されるならば、その主役は自分でなくとも構いません。この来歙と一緒に帰順させて頂きたい」


「これはこれは。こちらこそ願ってもないことです。陛下も必ずや劉嘉殿はわかってくださると仰せでしたが、まさにその通りでしたな」


しかし、鄧禹の目にはどこか焦りの色が浮かんでいた。

その後、程なくして赤眉が長安を放棄する様子を見せているという報せが入った。


「我々が帰順して、赤眉もいなくなって、ついに大司徒の手に長安が戻ってくることになりましたな」


「陛下のいる洛陽に、赤眉をこのまま向かわせるわけには行かない。貴殿らの兵は私が一括で運用する。先に貴殿らは宜陽ぎように向かわれよ」


その言葉に頑なさを感じた来歙も、そして劉嘉も敢えて反論することをしなかった。しかし、遅れて合流した李宝は違った。


「二度三度と赤眉に敗れた御仁が、我らの兵を無駄遣いされる気か。赤眉が長安を放棄したのは劉嘉様や我々のおかげであるというのに、あまりに態度が大きいのではないか」


「……なんだと?」


「そもそも私は帰順に反対です。自前の兵力も持たないこの方に、何をへりくだる必要がありますか。陛下、漢中王よ。陛下は洛陽の銅馬帝よりも皇統に近いのです。この長安を乗っ取って、建世帝と銅馬帝に対抗して天下を三分するべきです」


「私はそんな大それた男ではない。もう諦めてくれ!」


劉嘉は悲痛な声で李宝を制した。

ふと李宝が鄧禹を見ると、その目には妖しい光が宿っていた。


「陛下の仰っていた長安の遊蕩児は、お前だな?」


言うが早いか、鄧禹は腰にさした細身の二刀を抜き放つと、李宝の首と心臓を貫いてしまった。


 劉嘉と来歙の軍を接収した鄧禹は、平原で赤眉軍に追いついた。

樊崇は自ら一部の兵を率いると、反転して鄧禹を迎え撃った。

頭目の樊崇が久しぶりに戦場に出ること、そして自ら殿をつとめることを知った赤眉の兵達は異様な熱気に包まれた。樊崇は赤眉達を見渡して、大声で叫ぶ。


「てめぇら勘違いすんなよ。俺達は長安を追われているんじゃねえ。洛陽をいただきにいくんだ。だから、敵は焦って追いかけてきたんだ。わかったか!」


赤眉の兵達は一斉に「応」と叫んで返す。


「でも追っかけてきても無駄だ。この樊崇が、そしてお前たちがいるからだッ!」


上半身裸で大钯だいはを振って叫ぶ樊崇は、赤眉の歓声に包まれて鄧禹の軍に立ちはだかった。

鎧を着ていない。持っている獲物も農具に過ぎない。

だが、鄧禹の軍勢はこの痩せっぽちの男に、戦う前から圧倒されていた。

小高い丘の上では、屈狸がこの様子を眺めていた。


「いよいよ始まりましたぜ。あれ、親分は見ないんですか?」


「ふん、勝敗のわかりきった戦いなどつまらんわ。李宝も間抜けな奴よ。あんな小僧にバカ真面目に会いに行くから、死ぬのだ」


屈狸が眺めていると、鄧禹の軍の一部が突然味方に襲いかかり、いきなり混沌とした戦場になった。

李宝の弟が、兄の仇を討とうと反旗を翻したのである。

その混乱に乗じて赤眉が雪崩のように襲いかかっていく。

振り向くと延岑がいなくなっていたので、屈狸も最後まで見る事なく、その場を後にした。


 洛陽には長安の奪回と、鄧禹の敗報が同時に届いた。


「鄧禹……任務を果たしたのに、何故そこまでムキになって赤眉に戦いを挑むのか」


劉秀が鄧禹に命じたのは、更始帝と赤眉の争いの隙をついて長安を掠め取ることである。

結果としては長安は手に入ったのだから、大人しく長安を守るか、欲を言えば洛陽からの軍と挟み撃ちに出来れば、というところである。鄧禹一人で戦い続けて疲弊していく現状は、完全に想定外だった。

劉秀は赤眉を討つため、鄧禹に代わる真打ちを呼び出した。


「赤眉は大司徒の手にも余る大敵だ。君以外の者には任せられない」


大樹将軍の馮異ふういは、恭しく拝命した。

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