第五章 陰麗華
1
湖陽のつぎは棘陽、はじめの軍議でもそのように定められていた反乱軍の進軍経路であるが、地図を見るとひとつ大きな拠点、すなわち新野を飛ばしていることがわかる。
新野は劉氏の縁戚である鄧氏との勢力範囲である。
故に反乱軍がここに至ったならば鄧晨が挙兵し、これに加わる算段になっていたため、はじめから攻略の対象から外れていたのだ。
新野に至ると、既に新野を制圧し、千余りの兵を率いた鄧晨が反乱軍を出迎えた。
鄧晨からはさらに反乱軍を勢いづかせる吉報がもたらされた。
鄧晨の挙兵に従って、鄧氏の縁戚である陰氏も挙兵したのである。
陰氏は名族である上に大富豪であって、金銭面の大きな援助を期待できた。
逆に言えば陰氏は金を出すだけで反乱軍に恩を売るという選択肢もありえたのだが、若き当主の陰識は戎装して駆けつけた。よほど強固な信念に基いて行動しているようだ。
また、驚くべきことに新野の兵変を見た棘陽の街は自ら降伏を願い出た。
上手く行きすぎていると行ってもいい展開だった。
二人の参加と棘陽の降伏を祝して酒宴が催された。
劉秀が酒を注ぎにいくと鄧晨はすでにかなり飲まされている様子だった。
「このままいったら伯升が皇帝に、なんてことは十分にあるんだろうけどな。予言のこともあるしな、私はお前の線もあるんじゃないかって思っているんだよ」
「ははは、お戯れを。この反乱が成功したとしても、私があの兄を押しのけて即位などありえません」
「あいつは人の恨みを買う性格だからな。即位してすぐに暗殺されたりとかいかにもありそう…む、すまない。今のは忘れてくれ。少々飲み過ぎたようだ」
「もしそうなったら兄の子、私の甥が即位するだけです。水を持ってきましょうか」
「そうしてくれ。あまり酒臭いと娘達に逃げられてしまうからな」
鄧晨は妻と三人の娘を連れて挙兵している。
戦場に来ても良き夫、良き父としての顔を覗かせてしまうのは、彼の本質がそこにあるからだろう。
水を汲みに来た劉秀は瓶に映る水面に自分の顔を見た。仮に自分が皇帝になるならば、
――兄は志半ばで死なねばならない。それも皇帝になる前に――
何を考えているんだ、私は。
劉秀は盃を水面につけると、自分の顔をかき消した。
2
「…文叔、文叔。あら、そんなになるまで飲むなんて珍しいわね」
怖い想像をしてしまったあと、劉秀は勧められるままにどんどん酒を飲み、酩酊して厠に向かった。
その袖を引いたのは姉の劉元であった。
「麗華ちゃんがあなたに話があるんですって。何かしらね、何かしらね、気になるなぁー、お姉さん。盗み聞きしてもいい?盗み見てもいい?あ、でも、あんなことやこんなことは結婚してからよ!そこはちゃんと守らないと!」
劉秀は一気に酔いが醒め、興奮する姉を落ち着かせると、陰麗華の持つ離れに向かった。
陰麗華は離れの入り口に佇んでいた。
夜空に浮かぶ月光に照らされたその姿はさながら仙女のようであった。
肌が透き通るほどに白く、小さい唇は桃色――桃でも麗華のは西王母のもつ蟠桃だろう――で、躰は柳のように細い。
長安から帰ってきてから、目まぐるしい運命の変転によって結局今日まで会えずにいたのだ。最後にあったのが婚約した時なのだから、二年も経っていた。
「「あの」」
お互いに同時に話し始めようとしたために声が被ってしまった。
これ程間が開いてしまうと、お互いに接し方がわからなくなってしまう。
二人は暫しくすくすと笑ったが、やがて陰麗華が切実な面持ちで言葉を紡ぎ始めた。
「あなたがもし兄を誤解していたら、悲しいから…お呼びしました」
陰麗華の予想した通り、劉秀は麗華の兄である陰識を誤解していた。
陰識が挙兵したと聞いて、自分と陰麗華の婚約はそのための布石だったのだと劉秀は解釈した。
伯升の成功を見越して、妹を伯升の弟に嫁がせることで革命後の首脳陣に血縁関係を求める、そんなところだろうと予想していたのである。
「私の婚約と反乱とは直接の関係はありません」
「それではなぜ…」
母の遺言が兄を動かした、陰麗華はそう語る。
陰識達の母は陰識が幼いうちに夫をなくしたが、知恵を絞って家業を切り盛りし、陰識が家業を任せるにたる人物に成長したと見るや、病に倒れてあっさりとこの世を去った。
その母の遺言に書かれていた内容はこのようなものだった。
病に倒れる直前、高名な人相見が私の顔を見るや――あなたには貴相がある。それは貴いものを育んでいる相だ。――といった。こっそりと私は貴方達二人の顔を人相見に見させた。
うちの息子が将来に大事をなすのかと聞くと、そうではない、息子さんもあなたも娘の放つ輝きによって光るのだ。と言う。
――あなたの娘が選ぶ者を娘の夫となされよ。その者は、必ずや一族に栄光をもたらすであろう。――
人相見は偽りの無いことの証として謝礼を受け取らなかった。良いものを見させてもらったので金はいらないと言っていた。
こういう浮ついた話を信じる私ではなかったが、死を迎える段になると不思議と信じてしまう。
家業を任せた、もう口出しをしないと言ったのにこんなことを頼むのは心苦しいが、どうか、麗華の選ぶ人を夫にしてほしい。
もし観相が外れていても、好きな人と結ばれるなら、娘はそれはそれで幸せと言えるのだから。
陰識は母の遺言を麗華に見せなかった。
母の死後、陰識は泣き暮らす麗華のもとに妹の気晴らしをしてほしいとして、有為な若者を何人も連れてきた。
評判の美人への見舞いをことわるものはいなかった。
呼ばれた中には劉秀もいた。
一月以上もそれを続け、遂にある日、連れてきた中に心惹かれる者はいたか、どうしても教えてほしい、と陰識は麗華に問うた。
「…決め手は何だったのですか。教えていただきたい」
「花です」
麗華のもとを訪れた若者達には花を摘んでくる者が多かった。しかし、劉秀だけは――この近くの池に睡蓮が咲いています。一緒に観に行きましょう。――といった。
麗華は睡蓮を前にして、なぜ花を摘んで届けるのではなく観に行こうと言ったのか尋ねると――花は摘むと死んでしまうから。それが心苦しいのです。――と答えた。
「小さい時、遊んでくれた時からずっと想っていたんです。そしてあのとき、ふわふわした気持ちに鮮やかに色がついたようでした。なんてこの人は優しいんだろうって。なんて素敵な人なんだろうって」
劉秀はただただ顔を赤くするばかりだった。
麗華は劉秀の手をそっと開くと、その手に玉を握らせた。それは淡く輝く蛍石の玉だった。
「御守です。玉は母から受け継いだ物だけど、周りの編みこみは自分でやりました。次の戦いは厳しいものになると兄は言っていました。必ず、無事に帰ってきてください」
この婚姻は家同士の都合によるのではない。自分は麗華本人に夫として望まれていたのだ、というその事実に劉秀の胸は熱くなった。生涯をかけて彼女を守りたい、そう思った。
劉秀はその手を優しく握って言った。
「必ず戻ります。いつかあなたを迎えに行くために」
3
「兄さん、この人が外に倒れていて!うわごとみたいに兄さんのことを呼んでいるの!」
劉秀の妹、劉伯姫が肩を貸して運びこんだのはボロボロの衣服を身にまとった李次元こと李通であった。
李軼が血相を変えて必死に呼びかけるとようやく李通の意識が戻った。
「父上をはじめ、一族六十四名が捕まって処刑された。逃げ延びたのは私だけだ」
地の底から響くような声で李通は言った。
正確に言えば兄弟の一人、李松も別々に逃げたが、生死はわからないということだった。
宛の新軍を指揮する前隊大夫の甄阜は残虐な男で、処刑された李一族の死体は市場で見せしめに焚かれたという。
李軼はその話を聞くと顔色が真っ青になった、極限まで怒ると人は逆に青くなるものらしい。
劉秀はその様子を見て、李軼がかつて李通に対して弟が殺されたことを気にするなという趣旨の発言をしていたのを思い出した。
あれは演技だったのだろうか。何か背筋にひやりとするものを感じた。
李通は落ち着いたら戦いに参加させてほしいと言った。
伯升は思うところがあったのか、自分の兵を李通に分けて、彼を将として遇した。
甄阜との対決は近づいている。劉秀は御守をしまった胸に手を当てた。