第五十三章 獣
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丘の上から大地を見下ろせば、蠢動する人々がまるで大きな一匹の獣のように見える。人々の眉には朱が引かれ、敵から奪った鎧の下に思い思いの赤い衣を着ている。濁った血の色をしたその獣は新たな獲物を求めて、号令を待っている。更始二年十二月、武関と陸渾関の二つの関所を破って関中に侵入した赤眉軍は、ここ弘農郡弘農県で合流した。
「三十万の軍勢、こう改めて見ると壮観ですなぁ」
元獄吏の徐宣が感慨深げに言ったが、もじゃもじゃ髪の奥にある樊崇の目はきょとんとしている。
「さんじゅうまん?」
徐宣は苦笑いをしながら答える。樊崇は乞食も同然の貧農出身で、読み書きが出来ないのはもちろん、三より大きい数は数えられないなどと噂されていた。
「とにかく、いっぱいって事ですよ。さあ、いよいよですね」
樊崇の目が光る。
「そうだ。長安を奪る」
樊崇は変わった。以前は何処に食糧があるのかといった事だけで兵を動かしていたのが、青犢やその他諸々の賊を吸収し始めた頃から、都の長安を陥落させるのだと言い始めた。あるいは、あの河賊の女に何か吹きこまれたのかもしれない。
徐宣は他の幹部達を見渡した。逄安、謝禄、楊音、みな目を輝かせて樊崇を見つめている。ここにいる幹部は、赤眉に身を投じるまでの境遇はそれぞれ異なるが、みな樊崇への信仰にも似た思慕を共有する者達である。割合に冷静なのは自分だけだと改めて徐宣は思う。一歩引いたような態度を取る幹部として以前は董憲がいたが、彼は東海郡に残されると梁王劉永に接近して、かつての仲間との交渉を絶った。
寒々しい突風が吹き抜けると、逄安の持つ赤眉の旗が激しく踊る。赤地に白抜きで“樊”の文字が大きく描かれたこの軍旗は、この集団の性質を端的に表していた。樊崇と赤眉は不可分にして一体の存在なのである。
2
赤眉の関中侵入の報せは劉秀の耳にも入っていた。
「主上にとっては弱り目に祟り目というところか。前回の報告より後に蜀郡に動きはあったか?」
戦略に関わる事柄は鄧禹が報告していた。
「遠征軍の撃退に沸いた蜀郡の人々は、公孫述を蜀王に奉戴した模様です」
更始帝の信任が厚い丞相李松は、一万の遠征軍をもって蜀郡の公孫述を攻めたが、大敗を喫した。李松は地理的に近い漢中郡に助力を求めたが、漢中王劉嘉は治安の悪化等と理由をつけてこれを断った。
更始政権はこの敗北と前後して赤眉に侵入されたわけで、最悪に最悪が重なったと言える。
更始政権の弱体化に合わせて自立の動きを見せているのは公孫述や劉嘉だけではなく、梁王劉永も己の息のかかった者に勝手に官位を授け、命令を下している。
「赤眉は洛陽を無視して長安に向け侵攻中。李軼や朱鮪は内心ほくそ笑んでいるでしょうね」
かの二人にとって直接倒すと具合が悪いが倒れてほしいのが更始帝である。もっともそれは劉秀にとっても同じではあるのだが……。
「よし。馮異を呼び戻して洛陽の朱鮪らを防がせる。鄧禹、君は長安を奪取せよ。わかっているとは思うが主上からではなく、赤眉からな」
鄧禹の目に悪戯めいた光が宿る。劉秀は赤眉によって更始帝が殺された後に、混乱に乗じて長安を掠めとれと命じているのであった。
劉秀自身は再度息を吹き返した盗賊の掃討に当たることとした。今度の盗賊連合軍の中心は、劉秀が謝躬を始末するために利用した尤来である。
謝躬を撃退したために盗賊の間で声望を得たらしく、えぐい策略には思わぬ副作用があったと言える。
各地に遠征軍を出発させるに当たり、兵站が問題となる。劉秀達が現在いる河内郡から遠征軍への補給線を維持・構成する優秀な人材は誰なのか。劉秀は鄧禹に尋ねた。
「明公にとっての蕭何は、寇恂をおいて他におりますまい」
寇恂は上谷郡で功曹を務めていた男で、辣腕をもって知られている。蕭何は高祖劉邦の覇業において兵站を担った人物であるが、鄧禹の見立て通り、寇恂はまるでその再来であるかのように目覚ましい働きをすることになる。
さて、天下には中原の鹿を追う獣がひしめき合っている。どの獣が最も大きく、鋭い爪を持っているのだろうか。劉秀は果たして最強の獣となれるのだろうか?




