第五十二章 幽鬼と語る男
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馮異は冀州に北上して逃走を続ける盗賊団、鉄脛軍を追っていた。
追いつかれそうになったら陣を組んで迎撃し、旗色が悪くなったら逃亡、というかなり筋の悪い逃走劇を繰り広げている鉄脛軍は、馮異の見立てではあと一・二回の戦闘で降伏する。
しかし、そろそろ追いつくというところで馮異の軍が遭遇したのは、もの言わぬ屍であった。
荒涼とした大地に寒風が吹き荒び、鉄脛軍の人士がある者は袈裟斬りにされ、ある者は射殺されて無惨に転がっている。
「将軍、これを」
部下の廬生が手に取って差し出したのは、死体に突き刺さっていた矢だ。廬生の目には確信を持てないまでも危険を直感した者の焦りが映っている。
「この鏃は……青銅か。ちと、厄介なことになったな」
馮異は落ち着いた表情で、死体から槍を集めさせると、林縁の地面に突き刺して槍の列を二列設けた。一列目と二列目を互い違いにさせる。
林縁に兵を伏せさせ終わったところで、北から土煙を上げて騎馬兵達が現れた。その騎馬兵達はみな獣皮を身に纏い、日焼けした肌は血のように赤い。頭には獣毛で縁取った兜を被り、鎧は銅鎧のみをつけている。腰には箙、飲料を入れた獣の胃袋、そして湾曲した刀を下げている。左手には獣骨を貼り合わせて鍛えた弓を固く握っている。禍々しい角笛の音が鳴り響く。
匈奴ーー高祖の時代から漢王朝に度々苦杯を舐めさせた凶猛な北方騎馬民族が、ついに動き出した。
2
射犬で盗賊連合軍を蹴散らしたからには、河内郡は一斉に靡くものと期待していた劉秀だったが、郡都の懐県には更始帝に義理立てする太守の韓歆が立て篭もって防御の構えを見せた。
劉秀軍が懐の城を囲むと程なくして、肌脱ぎして自らを後ろ手に縛った二人の男が城門から現れた。
左には頑固そうな顔をした痩せぎすの中年の男、そして右にいるのは蟹のような面をした堅牢な身体つきの三十くらいの男である。
「君は見たことがあるぞ。岑彭、だったか?朱鮪の副官がなぜここにいる」
「いかにも、朱鮪殿を追って洛陽に向かう途中で盗賊が地を覆い、やむなくこの城で韓歆殿の補佐をしておりました」
韓歆はこの降伏がいかにも不本意だという表情を浮かべている。岑彭は横目で韓歆をちらと見ると続けた。
「私は大司徒劉縯殿に命を助けられた身。弟君である貴方にここで会えましたのも天運によるものと存じます。どうか、軍旅に加えて、兄君の御恩返しをさせて頂けないでしょうか」
劉秀は目をいからせて言う。
「お前には散々苦汁を飲まされた!…………それは、君が優秀な将軍だということだ。ははは、どきりとしたか?歓迎するよ」
劉秀は舌を出しておどけて見せると岑彭の縄を解かせた。韓歆は憮然とした表情でそれを見ている。岑彭はガバと地に伏して劉秀に請うた。
「召し抱えついでに、どうか、この韓歆殿も助けては頂けないだろうか。剛直で知られた南陽の名士、必ず役に立ちます」
劉秀の傍らに控えていた呉漢が、ずいと進みでていった。
「剛直だと?固く守るのかと思いきや、囲まれたらあっさり降ったな。こんな半端者は、殺して見せしめにでもした方が役に立つ」
岑彭と呉漢は睨み合った。
「韓歆殿は民が巻き込まれることを考えて、節義を曲げて降ることに同意なさった。無駄な血を流したほうが値打ちが上がるなどということがありますか」
二人の間に手を叩きながら割って入ったのは、鄧禹である。
「ハイハイ、二人とも落ち着いて。明公、この韓歆には幕僚の才があります!私の軍師として迎えたいと思いますが、よろしいか」
「よし、汝の良きようにせよ」
劉秀は鄧禹に笑いかけるとその場を去った。岑彭と呉漢はまだ睨み合っている。鄧禹は二人をきょろきょろと見やると言った。
「岑彭殿にはさっそく仕事があります。それも、呉漢殿と協力して行なってもらいます。宿命の好敵手みたいな顔をしてるとこ悪いけど、そういう訳なので仲良くお願いしまーす」
3
謝躬は顔も戎装も何もかも泥まみれで、その泥に枯れ葉が張り付いて木の精かなにかのようになってしまっている。あちこちに擦り傷があるが、極度の興奮状態にあって、痛みにも気づかない。
「は、は、は、話しが違う!」
射犬で盗賊連合軍が敗れると、尤来の賊は目論見通り山岳地帯へ逃走を開始した。しかし、劉秀から聞かされていた通りになったのはそこまでだった。尤来軍はまさに窮鼠猫を噛むといったところで、凄まじい底力を発揮して、謝躬の軍を散々に討ち滅ぼした。何分山のことでもあり、土地勘があることも大きかった。
残り少なに討ち枯らされた謝躬が鄴に戻ると、城兵が待ち構えていた。
「酷い目にあった。おい、水を持ってきてくれ」
城兵達がわっと跳びかかって謝躬を組み伏せる。事態の飲み込めない謝躬は喚きながらもがいている。
謝躬の前に岑彭が進み出た。彼は呉漢と共同で謝躬の留守中に鄴を陥落させる任務を与えられていた。
「あんたは岑彭!知った顔じゃないか、助けてくれ!」
岑彭は宮中で謝躬と言葉を交わしたこともあった。その顔には迷いが生じた。
「私は劉秀殿が良くしてくれるものだから、主上への態度を曖昧にしておけば、このまま河北に残してもらえるものと勘違いしてしまったんだよ。なぁ、私が何をしたと言うんだ。後生だから命だけは見逃してくれ」
岑彭は謝躬が大々的に略奪を行なって私腹を肥やしていたことを聞かされていたが、泣きじゃくる謝躬を見ると左右に控えた処刑人に合図を送ることが出来なくなった。
岑彭は背後の気配にふいに気がついた。振り返ると呉漢が三白眼に怒りを湛えて立っている。その手には戟が握られている。手入れが行き届き、鈍く輝いている。
「これは既に死んでいる。なにゆえ幽鬼と語らうのか」
呉漢は戟を振りかぶると横薙ぎに一閃した。芝居の小道具か何かのように謝躬の首が飛び、一瞬遅れて勢いよく血潮が噴き出して岑彭の顔を染めた。
「城を落とす手際は見事だった。処刑を躊躇したことは報告しない」
カツカツと靴音を立てて呉漢は遠ざかっていった。岑彭は思う。あれが正しいのだとしても、自分はそうなれないし、なりたくもない。
4
主簿の陳副が各地からもたらされる捷報を読み上げる。呉漢からの報告は謝躬を首尾よく討ったことを述べ、最後に岑彭の手際の良さについて添えてあった。龐萌からの書状は、謝躬が討たれた以上は慈悲にすがって降伏したい、馬武が降伏の使者として既にこちらに向かっているとの内容だった。
「よし、どれも順調だな。あ、馮異の鉄脛軍掃討はどうなっている?彼のことだから心配はないが、聞いておこう」
陳副は書状の内容を二度見して、え、と声をあげたが、差し出した。一度目を通しているはずなのに見落としでもあったのだろうか?
「すいません。あまりにもあっさり書いているので、すぐ報告すべきところを見落としておりました」
劉秀が目を通すと、鉄脛軍は匈奴に殺されてしまったこと、匈奴と戦って王の一人を捕らえたこと、その身柄と引き換えに匈奴を撤退させたこと、が簡潔すぎるほど簡潔に報告されていた。
「このあっさりとした報告にむしろ凄みをかんじるな」
河内郡を抑えれば洛陽は目と鼻の先である。李軼、朱鮪、因縁の二人との対決が近づいていた。




