第四十八章 蕭王
1
王郎との戦いで怪我を負った朱祜を劉秀は見舞った。まだ頭の傷を布で覆っているが、顔色は良いようだ。
「大事ないか、朱祜」
朱祜は寝台から身を起こすと微笑んだ。
「傷は塞がりつつあるようです。しかし、ここでジッとしているのは暇で暇で。何か良い知らせはありませんか?」
劉秀は、朱祜が自分に対して敬語で接するようになったことに気づいた。一抹の寂しさを感じるが、そこには触れずに用意してきた土産話に移る。
「西平王に封じられた李通が、私の妹を娶ったそうだ」
劉秀の妹、劉伯姫は以前から李通と恋仲にあった。お互いの気持ちを知っているので、劉秀には喜ばしい。しかし、朱祜は何か思案している様子だった。
「確かに喜ばしいことですが、李通はなぜ長安を離れた機を捉えて結婚をしたのでしょうか。これは長安の政治が乱れていることの証左です。長安がいよいよ危うくなった時、大司馬の親族であれば新たな政権に加えてもらえる、そういう計算が働いているのではないですか」
劉秀は答えない。朱祜は寝台から降りて、劉秀に正対した。
「長安の政、乱る。公には日角の相あり。此れ天命なり」
長安の政治が乱れている今、帝王の人相である劉秀が更始帝に取ってかわるべきだ、と言うのが朱祜の主張である。
「また、危ないことを。病室から獄に移さねばならん」
「では、これ以上は言いますまい。ただ、よくよくお考えを」
2
劉秀は邯鄲の宮殿の庭に臨んで、朱祜の提案について思案を巡らせていた。内に秘めたる野心を解き放つ時、その時期を間違えると待っているのは破滅である。庭園を挟んで向かいに耿弇の姿が見えた。その時、慌ただしく兵士が走ってきて劉秀の前で片膝をついた。
「都より、帝の使者が参られました!」
劉秀は使者を急ぎ、迎え入れた。使者である侍御史の黄党は謹んで書状を読み上げる。
「此度の戦勝、誠にご苦労。河北を得たるは行大司馬の功績である。ここにその功績を賞し、汝、劉文叔を蕭王に封じる。謹んで拝命するとともに、諸将と共に三軍を収め、速やかに都へ帰還せよ」
蕭は取るに足らない小さな町ではあるが、高祖劉邦の出身地である沛郡に属する。領土は狭いが名誉ある土地だと言えた。しかし、軍を返すということは劉秀に取って手足をもがれるに等しい。
劉秀は、返答を一日待ってほしいと使者に伝えて、宿舎に案内させた。
自室に戻った劉秀のもとに耿弇が訪れた。耿弇はかしこまってひざまずくと言った。
「蕭王陛下、私を今一度、幽州に返して頂きたい。新たに募兵をして参ります」
「まだ、王位を正式に受けた訳ではないぞ。王郎を倒したばかりだと言うのに、兵がそれほど要るというのか」
「王郎は倒れましたが、革命はむしろこれからが本番です。使者が兵権を返すように言ってきたとのことですが、絶対に従ってはいけません。天下に跋扈する賊は赤眉をはじめ数十万にも膨れ上がっており、劉玄にはどうする事も出来ず、滅ぶのも時間の問題です。幽州十郡の兵士を集め、陛下自身の兵として、天下のために用いるべきです」
「お前まで、何故そんな事を!処罰せねばならん!」
劉秀が怒鳴りつけても、耿弇はまったく動じる様子がない。
「陛下が私を息子のように可愛がってくださるので、本心を打ち明けたまでです。何が罪にあたるのか、私にはわかりません」
「ふぅ……さっきのは戯れに言ったまでの事だ。続きを聞こう」
耿弇は微笑むと、続きを語った。
「いま何とか天下が保たれているのは、王莽の圧政の後、民衆が劉氏の世を懐かしんだためであって、劉玄の力ではありません。陛下は挙兵の首謀者であり、昆陽では百万の兵を破り、河北では王郎を打倒し、天下の民は心を寄せています。天下人になるべきは陛下です。天下は至って重い物。陛下は自ら取るべきで、他人に渡してはなりません」
「しかし、お前の言うことは人倫に外れている」
耿弇は頭を振る。
「こういった重大時に倫理を考慮する必要は、ありません」
劉秀は耿弇の頭の上に手をおくと、莞爾として笑った。
3
翌朝、劉秀は使者の黄党を呼ぶと詔に対する返答をした。
「蕭王の位、有り難く頂戴します。しかし、河北には未だ盗賊が蔓延っており、これを放置すれば天下の憂いとなりましょう。将軍というものは任地においては帝王の命令よりも自己の判断を優先すべきだと言われております。私は将軍として群賊の討伐を優先し、しかる後に兵権をお返しする、そうお伝えください」
黄党が反論しようとすると、いつの間にか左右には厳しく戎装した兵士の列が出来ていた。
黄党が腰を抜かさんばかりの慌てぶりで逃げ帰ると、劉秀は鄧禹に笑いかけた。
「私も平然と嘘をつくようになってしまったものだ」
「少なくとも、河北に盗賊が蔓延っているというのは噓にはなりませんよ。これをご覧ください」
鄧禹は机に鞣した革の巻物を広げた。革に描かれた地図には、群盗の名前と勢力範囲が描かれている。
「銅馬軍、青犢軍、鉄脛軍などなど。キリがないのであとは図を見ていただくとして、この中で最強の勢力は銅馬軍です。その数なんと十万を超え、今まで負けなしという強力な盗賊団、いや盗賊軍です」
耿弇の提案は的を射ていたということか。
いよいよ天下取りに動き出した劉秀だったが、今は地図に踊る新たな敵の名を眺めながら、口笛を吹いた。




