第四十五章 王郎
1
劉子輿、すなわち王郎は邯鄲城の玉座の間にあって、水晶を見つめていた。広い部屋に廷臣の姿は一人もない。南䜌で勝利した漢軍は、なんと鉅鹿をも捨て置いて怒濤の勢いで邯鄲へ進軍してきた。王郎は自ら兵を率いて迎え撃ったが、敗れて大将軍の張参など残り少なくなった将兵の大半を失った。丞相の劉林は、この戦いの最中に逃走した。
「河北に天子の気が満ちたとき、母上の話は本当だったのだと、私は思った。私は真の天子ではないのですか、母上」
血走った目で王郎は呟く。講和の交渉に向かった諫議大夫の杜威はまだ戻ってこない。王郎の意識は過去の中にあった。
王郎は娼婦の息子として生まれた。母は荒んだ生活の中で息子に手をあげることが度々あったが、決まってその後に幼い王郎を抱きしめてこう言うのだ。
「あなたの父上は本当はとても尊い方なのよ。それなのにこんな事になってしまって……いつか必ず見出されるわ。それまで母と頑張るのですよ」
はじめは素朴に母の言う事を信じていたが、長ずるにつれ妄言だと思うようになった。母は臨終のとき、またうわ言のようにこの事を言い、その証拠だと言って古ぼけた竹簡を託して死んだ。王郎はその竹簡を読まなかったが、捨てることが出来なかった。
その後、王郎は占い師として非凡な才能を発揮するようになった。劉林などの裏社会の住人が通うようになり、王郎の暮らしぶりはよくなった。
ある日、河北に天子の気が満ちていく様子が水晶にありありと映しだされた。
王郎は気持ちをざわつかせて、ついに母の竹簡を開いた。
そこには、ある男が宮中の歌姫であった頃の母に甘く愛を囁く言葉、そして二人の間に宿った子を母の生まれの卑しさから認知出来ない悲しみが記されていた。書き手は成帝、世継ぎを得ないまま亡くなったはずの漢王朝第十代の皇帝その人であったのだ。
2
「本当に成帝のご落胤なのですぞ。大司馬にとっても、推戴することこそが上策でしょう」
口角から唾を散らす杜威は、王郎から預けられた件の竹簡を広げて劉秀に差し出した。
「成帝が再びお生まれになったとしても、この乱世を平定できるとは思えない。そのご落胤の、しかも偽者なんかに何をできると言うんだ?」
劉秀の言葉は特に怒気をはらむでもなく、平静だった。
「わかった!降伏する!願わくば劉子輿様に万戸侯の地位を保証頂きたい」
一万戸でも今の劉秀が持つ領地の数十倍の面積である。劉秀は竹簡を無造作に掴むとバラバラにした。
「ただ、その身の安全しか保証できない」
杜威はバラバラになった竹簡を掻き集めて劉秀を睨みつけた。
「邯鄲は田舎だが、君臣力を尽くせばあと一月は持ち堪える。我らが命のみを求めて降伏するとお思いか!」
憤然と立ち去る杜威が見えなくなるのを待って、鄧禹が劉秀に報告する。
「後顧の憂いもなくなりました。信都を更始帝の部将である趙匡が奪回した、とのことです」
「まだまだ優秀な将軍もいるのだな。その名を覚えておこう。李忠を送り込んで後始末をさせてくれ」
鄧禹は劉秀を見つめている。
「はい。杜威に言ったこと……いつかは言わねばならぬことでしたが、思い切られましたね。それに、あの竹簡には何が書かれていたのですか?」
「さあな、本物っぽいから読まなかったよ」
普通逆でしょう、と鄧禹が笑うと劉秀も笑い出した。
3
凡そ二週間後、遂に邯鄲城は陥落した。
叢を掻き分けて逃げる王郎の前に、古ぼけた剣を持った男が立ちはだかった。
「そこを退け、無礼者。我は大漢帝国皇帝、劉子輿であるぞッ」
王覇は父から譲り受けた剣を構えた。
「それなら、俺の狙っていた首だ。あんたのせいで何度も心臓の止まるような思いをさせられたぜ……くらえ」
王覇の剣は、王郎の右肩から左脇腹に抜けた。夥しい血が飛び散り、草木を紅く染めた。
その死体から玉璽を奪った王覇だが、片手に固く握られた下手糞につなぎ直された竹簡には目もくれなかった。
王郎は、水晶に天子の気が満ちた時に劉秀が河北へ派遣されてきたことを、その最期まで気づかなかった。
「こんなものが押収されました。ご確認を」
邯鄲に入城してしばらくすると、鄧禹は竹簡の束を劉秀に差し出した。また文か、という劉秀に鄧禹は説明する。
「王郎が優勢であったころ、内通をしていた者が幾人かいるようです。これはその証拠になるかもしれません」
劉秀は微笑んでこれを受け取ると城の中庭に向かった。諸将がその行方を目で追っている。中庭では戦で出た瓦礫を薪として火が焚かれていた。劉秀は竹簡をそのまままとめて火中に投じた。
「これで、不安で眠れなかった連中も尽くしてくれるようになるさ」
何食わぬ風の劉秀を、諸将は感嘆の表情で見つめていた。
邯鄲の地は、劉子輿あるいは王郎の死とともに都市の命運を使い果たしたかのようにこの後衰退し、二度と歴史の表舞台に立つことはなかった。
近年、この地で行われた地下鉄工事の過程で大規模な遺構が発見された。その遺構は、かつてこの地に君臨した群雄の名を取って、王郎城と呼ばれる。




