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第四十一章 形勢

 劉秀は指揮車から柏人城を眺めて溜め息をついた。

柏人城の攻略はまったくもって進まない。敵将の李育は、城内の号令を厳しく律し、士卒をなづけ、四方の固めをいささかも怠ることなく、見事に籠城し続けている。城壁を登ろうとすれば岩や丸太が雨霰あめあられと降り注ぎ、堀を埋め立てようとすれば埋め立ての間に更に内側に二重堀が出来上がっている。街の規模に不釣り合いなほどに堅固に作られた城壁は、城壁そのものへの攻撃が無意味であることを物語っていた。十余日も過ぎると攻め手の兵士達の戦意は目に見えて低下してきた。


「敢えて、捨ておいてはどうでしょうか?」


進言したのは耿純である。城攻めに固執して徒に時を費やすよりも、もっと進んで更に重要な拠点、すなわち鉅鹿きょろく郡の郡都を押さえるべきだとの意見であった。鉅鹿は邯鄲の北に位置し、邯鄲を攻める上では最も重要な拠点である。項羽こううが秦の章邯しょうかんを降した地としても知られる。

劉秀は昆陽の戦いを思い出していた。敵将の王邑おうゆう王尋おうじんが小城である昆陽の攻略に拘らなければ、新朝は百万の軍勢をあれほど無様に失うことはなかったはずだ。

劉秀は耿純の進言を聞き入れ、早々に軍をまとめると柏人城を諦めて、鉅鹿へ向けて出発した。劉秀率いる漢軍は柏人と鉅鹿の中間に位置する廣阿こうあ県に歩を進め、あっという間に落としてしまった。廣阿県の守備兵は、漢軍が柏人にかかりきりだと思っていたので虚を突かれたのである。

 鉅鹿攻めを前に劉秀は人馬を休めることにした。ある日、朝早く劉秀は廣阿の城樓じょうろうに登って城外の景色を眺めていた。どこまでも続く地平線、青空が無限につづく。太陽は光輝いて、天地を照らしている。劉秀はしばらく太陽を見つめていたが、何も読み取れるものはなかった。目が痛い。

いつの間にか隣にいる鄧禹に気づく。劉秀は鄧禹をからかうように言った。


「天下は広いなぁ、先生。先生は“あなたが思慮を巡らせるならば、天下は遠からずその手に入りましょう”なんて言ってたけれど、苦労に苦労を重ねてようやく一城手に入れたところだよ。先は長いんじゃないか?」


鄧禹は笑って返す。


「今、四海は擾乱し、天下の民が明主の到来を望むことは赤子が慈母を慕うかのようです。今、この天下で英雄と称せられる者を見ると劉玄りゅうげん王郎おうろうですが、劉玄は無知の庸愚ようぐ、内徳を失って政を修めません。王郎は穿窬せんゆの奸賊、虚言で民草を惑わし、苦しめています。そしてこの二人の他にすぐに思いつく者がいません。古の勝者は、勢の強弱や国の大小によらず、徳の厚薄や民が喜ぶか喜ばないかによって決まりました。名も無き民のために天下を獲るのでしょう?弱音を吐いている場合ではありません。流れが来るのはもうすぐですよ」


劉秀も笑って、また適当な事を、と鄧禹の髪をくしゃくしゃにした。その時一陣の風が吹いた。風を捕らえたとびが、鳴きながら城の上空を舞った。


 邯鄲城には動揺が走っていた。


「大司馬李育が敗れるとは……。仮に鉅鹿が落とされるような事になったら、如何にもまずい」


丞相の劉林りゅうりんは焦燥感を隠せない。李育は大豪だからというだけで大司馬に任じられたわけではない。劉子輿陣営における最強の将軍が既に敗退したのである。また、鉅鹿は邯鄲の目と鼻の先にあり、劉子輿陣営にとって何としても死守しなければならない拠点であった。


「そもそも奴が大司馬というのは荷が重かったのさ。俺ならもっと上手くやってみせる」


嗄れた声で劉林に話しかけるのは倪宏げいこう、彼もまた趙国の大豪である。李育に対抗心を持っている男だが、劉林の見立てでは、彼の将才は李育には及ばない。


「劉秀を討ち果たした暁には、汝を王として封じること、ここに約束しよう」


冕冠を被った劉子輿が玉座から立ち上がり、言った。劉林は内心--余計な事を--と思ったが、遮ることまではしなかった。

倪宏は恭しく軍の指揮を承ると退出していった。


「陛下、ここは力を出し惜しみしている時ではありません。倪宏の副将として劉奉りゅうほうをつけ、精兵を全て投入します。また、並行して奴らの本拠地に切り崩しを仕掛けましょう」


軍事の第二位と第三位を鉅鹿に向かわせ、その兵力はおよそ十万、劉子輿軍の最精鋭である。また、精鋭をぶつけると同時に、劉秀の現在の本拠地である信都に離反を働きかける。この二本立ての作戦が劉林の策であった。しかし、劉子輿は聞こえているのかいないのか、水晶を見つめてブツブツと独り言を言っている。


「….…おかしい。確かに天子の気はこの河北に満ちているのに、形勢が傾くなど」


劉林は劉子輿、いや王郎の声を聞いて不安になった。占い師の王郎が成帝の落胤と言い出して事を謀ろうと持ちかけたとき、上手いペテンを思いついたものだと感心した。王郎は自分と同じ嘘偽りで世間を欺いていく同じ穴のむじなだと、彼は思っていた。劉林は疑問を思わず口にした。


「ま、まさか……本気で言っているのか?」


劉子輿は目を血走らせて言う。


「どういう意味だ。そのような口の聞き方を二度とするな。丞相であっても、不敬が過ぎれば誅するぞ!」


劉林は狼狽する。


「お、お許しを!必ずや、劉秀を倒してみせましょう」


そう言って退出する劉林は、びっしょりと脇に汗をかいていた。

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