第二章 赤眉の乱
1
蔡陽の街の市場はさすがに宛の街ほどではないにせよ、賑わっていた。
ただ、ここでも物価の高騰はここまで影響を及ぼしつつあるようだ。値切る客と断る店の応酬がそこかしこで起きていて大層喧しい。
そもそも王莽政権が発行した貨幣は種類が多い上に偽物が出回り、貨幣の信用がまるでない。
物を買うのにうんざりするような枚数の貨幣が必要となる、現代で言うインフレが起きて取引の煩雑さに拍車をかけている。
市の喧騒の中に戟を持ち戎装した一団が現れて、辺りを見回すと、あっちだと手で合図して再び市場から出て行く。
酒屋がたくさんの瓶を置いているがあまり客は寄り付いていないようだ。不意に瓶の一つがもぞもぞと動き出す。
「新の兵士たちは行ったようだな」
「へえ、そのようでさあ」
瓶の中から劉秀が顔を出す。
この酒屋は闘鶏で大負けしたところを劉秀が救ってやったことがあり、その恩義を今返してくれたところである。
こんなことになったのは、次のような事情によるものである。
劉秀が反乱計画を明かされてから程なくして、長兄が集めた侠客の一人が盗みを働いて逮捕されてしまった。
幸い反乱の計画をまだ知らされていない新入りということだったが、あろうことか盗みの首謀者が長兄であるかのように証言したので捜査の手は劉秀にまで及んだ。
これらの情報は次兄が知らせてくれたのだが、次兄は女のところを転々としてやり過ごすらしい。やっぱり遊んでもいたんだな、と思うがそれどころではない。逃亡生活の始まりだった。
酒屋に五銖銭、偽造の可能性の薄い漢代の貨幣、をいくらか渡して礼を告げると劉秀は走りだした。
いくつかの路地を超えたところで背後から、いたぞ!と声が上がる。
後ろを振り返らず周りの景色が混ざって見えるくらいに無我夢中で走る。
心の臓もはちきれそうだ。しかし徐々に馬蹄の音が近づいてきた。
ここまでか、劉秀は目をつぶった。
「隊長、あっちです!」
聞き覚えのある声が響き、馬蹄は明後日の方向に遠ざかっていった。
「見つけたぞ。お尋ね者」
路地を抜けて現れたのは、親友の朱祜だった。どこで手に入れたものか、新朝の兵士の格好をしている。
「迫真の演技だったよ。蜂蜜の時も、さっきぐらいに声を張ってくれたら売れたんじゃないか」
「あれは、売り口上の声の大きさでどうにかなるような売れ残り方じゃあなかっただろう」
朱祜は元はと言えば兄の友人なのだが、商売を共に行なったり、就職活動で一緒に落ちたりしている内にすっかり打ち解けた仲となった。失敗も今では笑い話だが、いつまでもそんな思い出話に花を咲かせている余裕はなかった。聞けば、兵士の服を用意してくれたのも、朱祜を助けにやらせたのも、劉秀の親戚である鄧晨だという。二人は朱祜の隠していた馬に乗り、鄧晨の屋敷がある新野県に向かった。
2
明け方近く、二人は鄧晨の屋敷についた。朱祜は鄧晨に竹簡を渡され、屋敷を後にした。
義兄である鄧晨は、劉伯升の客分から劉秀の危機を聞かされ、逃亡の幇助を買って出たということである。
何日間か逗留するうちに、鄧晨も反乱に密接に関わっているのではという疑いは日に日に強くなっていったが、中々確かめられないでいた。
姉の劉元は劉秀が来てくれたことを大層喜び、娘達の遊び相手になってくれるならいつまでもいてくれて構わない等と言ってくれた。姪っ子達に会うのは久しぶりだったが、子供の相手は嫌いではない。
「秀兄!また、ガラクタの演奏会やって!」
劉秀は捨てるためにまとめられていた金物ごみや割れた食器を庭に並べると、折れた箸を撥にして順に叩き始めた。
それなりに楽器のような音がするやつもあれば、ポコポコとへっぽこな音がするものもある。幸いな事に、姪っ子達はそこも含めて楽しんでくれているようだ。童謡の曲は反応がいまいちだったが、都で流行っている鄭声を演奏すると拍手喝采だった。最近の女の子はませてるなぁと劉秀は苦笑いした。鄭声は恋愛を主題とした流行りの歌謡の総称である。王莽はこれを孔子も憎んだ淫らな曲であるとして禁止していた。だが、禁止法もザル法で誰も従うものはいなかった。
おやつの時間になると姪っ子達は退散していった。
もし、鄧晨も反乱に関わっているならば、彼女達も巻き込まれることになるのだろうか。劉秀は胸がざわつくのを感じていた。
姉の劉元が居間から顔を出して言う。
「秀、あなたはオヤツ食べないの?」
「今日はちょっと……ここ数日毎日お菓子を頂いているので、腿のあたりに肉がついてきた気がします。運動でもしていますよ」
「男は少しくらい太って、貫禄がある方がモテるのよ?」
その時、野太い声が割って入った。
「いやぁ、ぜい肉なんかいくらつけてもダメだぜ!男は筋肉だよ!なあ、劉秀」
振り向くと屋敷の中庭に鄧奉が立っている。鄧奉は鄧晨の甥で、劉伯升の親友だ。背には兄の伯升が佩いている剣と良く似た長剣があった。
スラリと剣を抜くと笑みを浮かべる。剣格には鹿のような角のある猛獣の彫金が輝いていた。
「運動がしたいなら、こいつで遊ぼうぜ」
片手で持っていたもう一本の剣をこちらへ放る。
こちらは五尺(百十糎)程度の一般的な剣だが、鄧奉が抜いた剣と比べると玩具のように見えてしまった。
それに――片手で持っているだと――鄧奉の七尺もの長剣は折れないようにだろうか、一般的な剣よりも太く幅広に作られているようだ。
凄まじい重さになっていることは想像に難くない。
柄は両手で持つことを前提に作られているようだが、自分が仮に両手で持っても自由自在に扱えるものか、わからなかった。
「こねえんなら、こっちからいくぜ!」
鄧奉は猿羅のごとく飛びかかってきた。とっさに身をきって避ける。
劉秀は自然に劉嘉に教わった構えを取っていた。
鄧奉は一度間合いをきると、巨体に似合わぬ素早さで突きを二回放ったが、それぞれ左右に重心を切り替えてなんとか躱す(かわ)す。
三撃目、四撃目も敢えて受けない。こんなもの受けたら、剣をへし折られてそのまま負けだ。
鄧奉は唾を吐き捨てると、長剣を上段に振りかぶる。大きく踏み込んで剣が振り下ろされた。
今だ。空振りした鄧奉の右半身にピタリとついて剣を首に突きつけようとした瞬間、劉秀の顎に衝撃が走った。
「どこで習ったんだか知らねえが、本当に大したもんだ。だが、惜しかったな」
薄れゆく意識の中で左拳を固く握ったままの鄧奉がこちらを見下ろしていた。
「鄧奉!アンタの馬鹿力で秀を殴るなんて、何考えてんのよ!」
鄧奉が姉にビンタされたのを見たあたりで、劉秀は気を失った。
3
その年、南陽を旱魃が襲ったが、劉秀の手がけた荘園は無事で、むしろ収穫の後にはかなりの余剰作物が出た。
これを売ればかなりの臨時収入が見込めそうだ、実家の使用人からそのような報告がもたらされた。
近頃は追手の気配すらない、劉秀は意を決して豊などの幾人かの家人と半ば強引についてきた鄧奉とともに宛に向かった。
宛では物価が恐ろしい程に高騰していた、ために商販は予想以上に上手くいった。人々の苦境につけこむような値付けはしなかったのだが、それだけでも客に有難がられて拝まれるほどであった。それとなく往来の会話に耳をすませば、物価高騰の理由は旱魃だけではなかった。
劉秀達の住む南陽郡と境を接する江夏郡では、郡境にある緑林山を根拠地に盗賊が暴れまわっていた。
ここまでは仔細はわからないながらも劉秀も知るところであったが、ここからが問題である。
遂に官軍は二万もの大軍を率いて賊の討伐に乗り出したのだが、雲杜という県で大敗し、数千人の死者を出して退却したのである。
一方、官軍の輜重を奪って勢いづいた賊は南下し、竟陵、安陸を制圧して、略奪品を餌に五万もの大軍に膨れ上がったという。
賊の首領の名は王匡。弟の王鳳を右腕として、腕に覚えのあるならず者達が将となっている。
まるで反乱軍ではないか。
今のところ新朝打倒だとか、そういった大義めいたことは掲げていないようだが、力は人を変質させる。
とにかく急速な治安の悪化が社会不安を増大させていることは確かで、こういう理由により物価は高騰しているのだった。
劉秀への捜査の手が緩まったのも同じ理由だろう。値付けが妥当なものとはいえ、民衆の不幸で懐を潤すのは心苦しいが、作物は明日にも売り切ってしまえそうだった。
朱祜と一緒に蜂蜜を売った経験も活きた。あの時は二人で大量の在庫を抱えて途方に暮れたものだが。
そんなことを考えながら市場を見ていると一人の男が目に入った。
昨日も、市場の物陰からこちらを見ていた、あの男。
こちらの視線に気がついたのか、ゆらりと動き出すと市場から路地に向かっていく。
劉秀は彼を追った。
「もし、私に何か御用なのでしたら、お聞かせ願いたい」
「今日は様子見のつもりでしたが、見つかってしまったのなら仕方ない」
息せき切って追いついた劉秀の手を肩からゆっくりと離すと、男はそう言った。
色が白く血管が見えそうだ。唇は薄く、垂れ目。笑っているようにも見えるが元からそういう顔のつくりなのかもしれない。
この辺りでもよくは見ない見事な仕立ての服を着ているが、色合いがけばけばしい。
腰には刺繍を施した革製の飾帯を巻いている。
こんな格好で物陰から見ていて、見つからないなどと本気でおもっていたのだろうか?
「私の名は李軼。宛の李氏といえばお分かりになりますか?」
李氏といえば、長安・洛陽・宛の三大都市に居を構える富豪の中でも、更に頭一つ抜きん出た大富豪である。
その業は金貸しであって、ここ数代で巨万の富を得たという。
「我が従兄の李次元があなたに会いたがっています。今宵、屋敷に来ていただけますか。」
李次元とは、李家の跡取りと目される李通という男の事だろう。敏腕の金融業者として、劉秀も名を聞いたことが会った。
李軼は垂れ目をぴくりと動かして、言った。
「あとですね。見ていて気になったんですが、あの粟、もっと高く売れたでしょうに。勿体ない」
4
「俺ぁ反対だぜ」
宿に戻って昼間の出来事を話すと、鄧奉が渋面を作ってそう言った。
「なぜでしょうか?」
鄧奉が言うには
――李通には医師を営んでいる弟がいた。ある日、劉秀の兄である劉伯升が、喧嘩で負傷した客分をその医師の元に運んだ。医師は相手がやくざ者と見るや、官憲に通報されたくなかったら、などと脅して治療費を法外な値段に釣り上げ――
聴いている内に劉秀も渋面になってしまった。
「もういいです。腹を立てた兄は、おおかたその医師に怪我をさせてしまったのでしょう?」
「おいおい、伯升がそんな中途半端なことするかよ。
匕首で喉元をグサリよ!あれは痛快だったなあ。その後、俺と伯升は追っかけてくる藪医者の手下どもをちぎっては投げ、投げてはちぎり、ん、どうした?」
開いた口が塞がらない。
鄧奉もその場にいたのなら止めてくれと思ったが、この男は闘いを煽りこそすれ、仲裁の役には立たなそうだった。
「まあ、そういうわけで李通はお前を誘い出して仇討する気に決まってるぜ。いや、むしろ相手がその気なら、逆に乗り込んでやっちまうか!」
そういうと鄧奉は辟邪の剣を背に負った。
この大剣は兄の持っている大剣と対になる物で、名はないが、鄧奉は剣格に彫られた怪物の名でこの剣を呼ぶ。
翼の生えた牡鹿のような獣の口からはしかし長い牙が生えていて猛悪な表情だ。
辟邪と対になる神獣は天禄といってこちらは翼の生えた一角の牛の如き獣とされる。
つまりは兄の伯升が持っているのが天禄の剣ということになる。
長兄はある日この一対の剣を携えて現れるとその一振りを鄧奉に託したが――我らの反乱が成功すれば、由来など後からついてくる――そう言って出処を語らなかったという。
「だいたい、金貸しなんてのは信用ならねえ連中だからな。まず、右から左に物流すだけのくせして儲ける商人が信用ならん。ましてや、物すら扱わねえ金貸しなんざ、まやかしみたいな仕事だぜ」
鄧奉はそう言うが劉秀の考えは違った。
国の基は農業であるのは間違いないが、これら農業が産んだ作物も、流通しなければ都市部の生活は成り立たない。物を流す商人の仕事も必要なものだ。金貸し業も過剰な利子を取らず信義に基づく取引をするならば、人の窮地を救ったり、大きな事業を成す助けとなるだろう。
商いに自ら手を染めた劉秀には、商業は虚業ではないという実感があった。
「商人の是非はひとまず置きましょう。しかし、李氏は利に聡い一族であると聞きます。その李氏が復讐のためだけに、直接の仇でもない私を呼び出すでしょうか」
「そういや、あのやぶ医者は申屠臣とかいって李氏を名乗ってなかったんだよなあ。あとから聞いた話じゃあ素行が悪すぎて勘当されて、李氏を名乗れなかったとかいうぜ。ま、李氏だって知ってても伯升はやっちまっただろうけど、そんな奴の仇討ちするかっていうと確かに微妙かもな。でも、やっぱり罠ってこともありうるしなー」
なにか他に目的があるはずだ、劉秀は鄧奉を押しとどめて李家に向かった。
俺を置いて行くなら何か備えをしていけ、という鄧奉の意見を尊重して懐には匕首を忍ばせた。
5
「ようこそ、狭い屋敷で申し訳ない。私が李次元です。父に代わり李家の商いの一切を取り仕切っています。故にこれから述べる私の話は李家の総意と考えていただきたい」
李次元こと李通はそのように切り出した。
一つ一つ意匠の違う花窓、壁に飾られた花鳥風月の鮮やかな絵画、皿が滑り落ちそうなほど磨き上げられた黒檀の机、そしてもちろん広大な屋敷と手入れの行き届いた美しい庭などが、李通の挨拶を若干嫌味なものに感じさせたが、本人にその意図はないらしく、またそんな人物にも見えなかった。
家業を任されてから長いのか、気苦労が顔に刻まれて皺となっており、実年齢よりも老けて見えていると感じられる。
鷲鼻で、二重の目には知性が宿っていた。質朴だが仕立ての良い衣は彼の性格をよく表している。
傍らには、対象的にどぎつい服装の李軼が控えていた。
李通はこちらに進み出て握手を交わすと、劉秀の懐に視線を落とした。
「差し当たって、まずはその物騒なものを机に置いていただきたい」
バレていたか、劉秀は観念して匕首を机に置いた。
黒い机に白鞘の匕首が置かれると浮かび上がっているように見える。
劉秀が懐に手をやったとき、李軼が飾帯に咄嗟に手をかけたように見えたのが少し気になった。
しかし、ただの飾帯にしか見えない。劉秀は李通に視線を戻した。
「もしものためです。不肖の兄があなたの弟君を弑したことを私は知っています。仇討は正当な行いですが、さりとて黙って首を差し出すわけには参りません」
李通はある程度この返答を予想していたようだ。
「誤解があったようですね。あれは不幸な事件でしたが、仇の弟を殺したところで死人が喜ぶとも思いません。本日お招きしたのはそんな用件ではありません」
「そうそう、李氏はそんな些細なことに気を取られる一族ではありません。大事を建てるものは小怨を恨まず、です。ねえ、次元殿?」
李通は少し顔をしかめ、李軼に返答しなかった。
「劉文叔殿、あなたにこの図讖をお見せしたい」
李通が広げた竹簡はかなり古びていて、少なくとも昨日今日作られたものではなさそうだ。
「長沙国の霊峰、太和仙山において、崩れていた廟を修繕しようとした際に地元の者が発見した、とされています」
劉秀は李通が指差す部分に目を転じると読み上げる。
「劉氏復た興り、李氏は輔とならん。まさか…」
「ええ、我が父李守はその李氏が我々一族のことと考えているのです」
李通の父、李守は王莽の下で宗卿師という重職についており、長安に所在している。
容貌が絶異で、身長も九尺(約二米)あり、そういった面からも名を知られた人物だった。
「父はこの文中の李氏が我が一族であるという確信を持っていますが、劉氏がどの家かわからない。そこで私にその見極めを託したのです」
にわかには信じがたい話だった。貨殖の家として一族は何不自由ない生活を送れているのに、予言を信じてそんな大博打を打つというのか。
「現在、義兵を起こそうとしている劉氏はあなたの一族、つまり舂陵候の流れをくむ南陽の劉氏だけです。我々も、共にことを謀らせていただきたい」
劉秀は内心で激しく動揺したが、つとめて平静を装った。
相手が挙兵の計画を知っている以上、密告の危険性から李氏の提案は飲む以外の選択肢がない。
計画に引き入れる以上、主導権を渡してはならない。
「わかりました。共に暴君を討ち、天下にあるべき姿を取り戻しましょう。挙兵の日取りは兄の決定を聞いた後、追って伝えます。挙兵にあたって、長安におられるあなたの父上の身が心配ですが、何か方策を講じられているのですか?」
李通は劉秀がここですぐに返答したこと、李氏がこの計画に加担する上での問題点を正確に見抜いたことに内心舌を巻いた。
「父の元へは一族の者を遣り、事前に脱出させる手筈となっています」
劉秀はいかにもほっとしたという顔をした。
一方、李通はその劉秀の表情を見て、これは演技ではないと感じていた。
発覚を恐れているだけでなく、人命に関しては真剣に心配している。兄の劉伯升は平素に殺人をするような人物なので、いざという時に切り捨てられないか懸念していたが、この弟がいれば止めに入ってくれるだろう。李通は会ったばかりのこの青年に対して、無自覚に好感を持ちつつあった。
その後は近頃勢力を増した徐州の賊の話などをして、両者は和やかに握手を交わして別れた。
玄関先で劉秀を見送った李通の背後に李軼が立っていた。
「ことは成りました。後は兵を起こすだけですね」
「だけ、とは言うがそこが肝心だろう。事前の発覚だけは何としても避けなくてはな。しかし…不可解だ」
「なにがです?」
「私にも上手く説明はできん。得られた結果は望んだものだが、さて」
李通はこの屋敷に劉秀を招いたが、そのとき彼の頭には劉秀を通して得られる劉伯升との関係のことしかなかった。
だが、今は違っていた。反乱の首謀者は劉伯升であるにも関わらず、李通は劉秀に運命を託したかのような妙な心持ちになっていたのである。
6
櫓の上から彼方を見つめる男がいる。
男の目には近づきつつある十万の大軍が見えていた。
赤い襤褸をまとい、頭はひどい蓬髪、ざんばら髪で顔も殆ど見えず、髪の隙間から眼光だけが鋭く輝いている。その姿はさながら血溜まりの中から生まれた悪鬼のようであった。男は右手には何やら肉を持ち、背には大钯を負っていた。大钯は藁を集める三叉の農具に過ぎないが、その恐ろしげな姿と相まって、地獄の獄卒が持つ責具のように見えた。
男は右手で掴んだ骨付きの肉を歯で毟り取る。一頻り咀嚼し終えると、こう呟いた。
「それにしても物凄え数だな。……こんなに沢山、“獲物”の方からやってくるなんてよ。ツイてるねえ、俺達は!」
男の名は樊崇、字は細君。
琅邪郡で発生した大飢饉は食料を求めて彷徨う流民を大量に生み出した。
その流民を賊としてまとめ上げたのが、この樊崇である。
数年前の呂母の乱の残党を吸収し、泰山の山岳部に拠点を置いて、勢力を拡大し続けていた。
大軍を見つめるその目には常人ならざる闘志が漲っていた。
「大将、会戦の前にこれを」
樊崇と共に挙兵した古参の幹部である逢安が壺を両手で抱えている。
樊崇が壺を覗き込むと、中には真紅の塗料が湛えられていた。
逢安の隣に佇む獄吏出身の徐宣が言葉を継いだ。
この男は一味の中では知恵者で通っていた。
「我々の甲冑はみな官軍より奪いとった物。一度乱戦になったら最後、敵味方の見分けがつきません。これを眉に塗って目印としましょう」
赤は広くここ青州で信仰される城陽景王の祠の色だ。
縁起がいい、そう思ったのか樊崇は笑顔を見せてその眉に塗料を塗った。
「さんざん俺らを食い物にしてきた連中だ。今度はあちらさんが食い物になってもらう番だぜ。董憲を呼べ!戦の始まりだ!」
樊崇は櫓の上から先程までしゃぶっていた骨を放った。
櫓の下にたちまち痩せこけて下腹だけの出た孤児たちが群がる。
そして、その骨、この街の尉の左腕の骨に僅かに残る肉を求めて餓鬼たちは殴り合いをはじめるのだった。
このときより、琅邪に発したこの賊は赤眉と呼ばれるようになった。
7
泰山の賊の勢力拡大を恐れ新朝が向かわせた討伐軍、十万。その数に恐れをなしたのか、潮の如く退いていった赤眉を前に新軍の若き将帥、大師王匡は追撃を主張した。
王匡は新朝の金枝玉葉、すなわち皇帝王莽の血縁である。
盗賊である緑林の王匡とは同姓同名の別人であることを、読者諸兄姉に対して予めことわっておく。
「これは絶好の機会です。廉将軍もそのように臆病風に吹かれているとご先祖の名が泣きますぞ」
王匡に強く迫られるも、廉丹は、首を横に振った。
更始将軍廉丹は、戦国七雄の一国であった趙の名将である廉頗の子孫である。
しかし廉丹は家柄だけの男ではなく、反乱の鎮圧を通して多くの実戦を経験してきた。
経験によって研ぎ澄まされた嗅覚が危険を告げている。
「確証はありません。しかし、もし敵が反転してきた場合には双方大きな被害が出るでしょう。それに我が軍は連戦に次ぐ連戦、兵士の疲労も考慮すべきです」
廉丹の返答に王匡は溜息をついた。王匡は竹簡を開いて廉丹につきつける。
皇帝の王莽が二人に送ってきた竹簡には、
――十万もの兵を預けたのに何をてこずっているのか。賊の大将は読み書き計算のまったく出来ない無学の徒であるという。そんな路傍の木石にも等しい連中に振り回されて恥ずかしいとは思わないのか――
そのような内容が激しい語調で記されていた。
廉丹は険しい顔でそれを見つめるも、やがて諦めたように竹簡を閉じた。
「仕方ありません。やるのであれば素早く。明日決戦いたしましょう」
その夜、自身の天幕に戻った廉丹を部下の一人、馮衍が訪ねてきた。
馮衍は漢の左将軍馮奉世の曾孫で、よく似た境遇から廉丹はこの若い部下に目をかけてきた。
「閣下。その昔、張良は先祖が韓の国に相として取り立てられた恩義を忘れず、国が滅んだ後も秦に立ち向かい、仇を報じようとしました。我々はどうでしょうか。先祖代々、漢朝に恩義を受けながら、帝位が簒奪されても何もせず、あまつさえその簒奪者に仕えて禄を食んでいる。私はこの身を恥ずかしく思います」
切々と訴える馮衍に、廉丹はしばらくの間俯いていたが、くぐもった声でこういった。
「ご先祖様を取り立てたのは漢朝の皇帝だが、私をここまでの地位に引き上げてくださったのは王莽様だ。今のは聞かなかったことにしてやる。疾く戻り、明日に備えて休め」
8
大師王匡、更始将軍廉丹は十万の兵で明朝から追撃を開始した。
賊軍は反転をする素振りもなくひたすら逃げていく。このままでは梁郡まで到達してしまう。
「明公、これはさすがにおかしい。進軍を停止するべきです!」
「このまま賊を逃したら、それこそ厳罰は免れぬ。廉将軍が行かぬなら、私一人で参ります」
廉丹の制止を振り切った王匡の軍が梁郡への道を進むと、道の両側が林に囲まれていた。
王匡が周囲を取り囲む視線に気づいて辺りを見回すと、林が一斉に揺れ動いた。
矢と石が左右から雨霰と浴びせられ、王匡の軍はたちまち死屍累々(ししるいるい)の地獄絵図となった。
混乱のさなか、王匡は死んだ兵を盾にして辛うじて命を繋いでいた。
王匡の耳に矢が風を切る音と敵の怒号以外に、不思議な音が響いていた。ひとりでにガチガチと歯が鳴っているのだと気づいたとき、王匡の頭の中は恐怖の色で塗りつぶされてしまった。盾にした死体から自分の衣に血が染み込んできて、自分が死体と近くなっていくように感じる。廉丹の忠告を無下にしたばかりに、自分もすぐにこのようになるのだ。
やがて矢と石が底をついたのか射撃が止むと、林の中から赤い頭巾を被った小柄な男が馬に乗って現れた。背後にも何騎かの騎兵を連れている。頭巾の男は得意満面という顔だ。
「賢いお貴族様が、こうも容易く策にはまってくれるとはね。嬉しいけど、拍子抜けしちゃうな」
朱色に塗った槍を掲げて男が吠える。
「我が名は董憲!大師王匡、おとなしくその首を渡せ!」
赤眉の将董憲はしかし、官軍の死体の山に馬が阻まれて上手く進めないようだった。
そもそも、馬の扱いに慣れていないように見える。
その時、後方から廉丹と数騎の騎兵が駆けてきた。
「明公、ご無事でしたか!ここは私めに任せ、お逃げください!」
「ならぬ!私もここで賊と刺し違えてみせる!」
廉丹は泣きわめく王匡の頬を平手で打つと、襟首を掴んで静かにこういった。
「小僧はとっとと行け。儂は残る」
廉丹が王匡を背後に突き飛ばすと、馮衍がその身体を抱きとめた。
「そいつを頼んだぞ、馮衍」
馮衍は無言で頷くと王匡を抱えたまま馬に跨がった。
王匡が馬上でもがきながら「廉丹!」と叫んだが、馮衍は構わず馬に鞭を打った。
董憲が叫ぶ。
「絶対に逃がすな!追え!」
赤眉の騎兵が死体の山を飛び越えると、着地を狙って廉丹が馬の脚を戟で打った。
馬が悲鳴をあげて倒れこむ。
落馬した赤眉はよろよろと柳葉刀を抜いて立ち上がり、切っ先を廉丹に向けた。林の中から赤い眉をした兵達が蟻塚から出てくる蟻のように次々と湧いて出て廉丹を取り囲んだ。
地皇三年(西暦22年)四月、新軍は赤眉に大敗を喫した。
十万の官軍は散り散りになり、更始将軍廉丹は敗死、大師王匡は逃走した。
既に翳りを見せ始めていた新王朝の威信はこの大事件により完全に失墜することとなった。
中国史上最大級の農民反乱、赤眉の乱の幕開けであった。