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第三十七章 郭聖通

 「注目、注目!花婿はなむこちくの腕前を披露されるそうだ」


上座の豪奢な椅子から腰を浮かせて赤ら顔で手を叩いているのは、真定王しんていおう劉楊りゅうようである。十万の兵力を擁する劉楊が劉秀と同盟を結ぶにあたり提示した条件は、姪である郭聖通かくせいつうと劉秀との結婚であった。

劉秀は庭園の壇に登るとーー郭氏の屋敷にある広大な庭園がいわば披露宴の会場であったーー筑の五本の弦に静かにばちを添え、ゆっくりと撃ち始めた。緩やかな優しい響きは薄く雪の積もった庭園の情景と相俟って、酒の入った招待客の耳を蕩かしていく。賈復もこの妙技にやられてしまっている一人だった。


「見事な腕前ですな。どこで習われたものか……ううむ、素晴らしい!」


「独学ですよ。けっこう俗っぽい理由で一時期凝っていたんだが…」


朱祜しゅこ賈復かふくがその“俗な理由”をそれ以上問いたださないので、思い出すだけで口には出さなかった。

劉秀は朱祜と共に長安に留学していた頃、一人の女性に夢中になった。

酒楼、というべきだろうか。怪しげな煮込み料理を出す裏路地の不思議な店に、その女性はいた。店は薄暗く、変なお香の匂いがして、不思議な髪型をした仙人の小さな像がいくつも飾ってあった。女主人と思われるその女性は癖っ毛でかなり髪を短く切っていた。異国のものと思われる装身具を身につけ、気怠そうな目が印象的な女性だった。美人といえば美人なのだが、好みの分かれる顔立ちだと客の間では囁かれていた。劉秀も朱祜もその店の出す“泥のような見た目だがとにかく美味い煮込み料理”の評判に惹かれて訪れたのだが、料理に夢中になった朱祜とは対照的に、劉秀はこの不思議な女性に片想いするようになった。

はじめは可哀想なくらい相手にされていなかった劉秀だが、ある日突然、筑を購入して朱祜に言った。


きょさんは、筑の演奏を聴くのが好きなんだって。僕は筑を極めることにしたよ」


朱祜はそもそもその時はじめてあの女性が許という姓なのを初めて知った程度の興味の無さだったのだが、劉秀は本当に夢中になっていたと見え、指の皮が向けて撥ダコが出来るまで練習していた。学業そっちのけで、である。

劉秀は筑の腕前を確かなものにすると、許のもとへ出かけ、その晩は寮へ戻らなかった。

翌朝、劉秀は昨日と同じ服で戻ってきた。あの時の彼は“いいこと”があったはずなのに、なんだか心細そうな顔をしていた。


--蜂蜜が残ってるけど、飲むかい?--


演奏は佳境に来ているようだ。劉秀は撥を上に放り、回転して落ちてきたところを器用に掴んだ。再び演奏を始めると一転して激しい調子で掻き鳴らす。戦を表現しているのだろうか。


恋の終わりは突然やってきた。

王莽おうもうが外来の怪しげな宗教を禁ずるお触れを出し、触れに従って荘尤そうゆう将軍が邪宗を取り締まった。すると、許の店は突然閉店、許も行方をくらました。浮屠ふとなる西域の仙人を奉じていたため、処罰を恐れて消えたのだという噂だった。


 演奏を終えた劉秀は万雷の拍手の中を照れくさそうにしながら歩き、花嫁の隣に戻ってきた。

亜麻色の髪と蠱惑的な瞳、くびれた細い腰に大きな胸と尻、そのどこを見ても世の男を惹きつけずにはいられない。郭聖通は傾城けいせいの美女と巷間に謳われていた。


「素晴らしかったですわ。私の夫となる方が高漸離こうぜんりの生まれ変わりだったなんて知らなかったわ」


「あはは、不吉な喩えはおやめください。高漸離のように目を潰されてはかないません。あなたの美しい姿を見えなくなってしまう」


お上手ね、と返す郭聖通は微笑んだ。しばらく他愛もない話で談笑していたが、劉秀が花嫁の父親、郭昌かくしょうについて称えると郭聖通の表情は険しくなった。


「お父様が義人ですって。あの人が私財を散じて助けたのは親戚よ。今日も来てる人。一族でお金をぐるぐる回して、誰それは誰それを助けたと宣伝して、名声は無限に上がっていく。インチキですわ、インチキ」


「一族の富や名声に後ろ暗いことがあるなら、これから良いことのために使っていけばいい。二人でね」


劉秀は劉楊のほうに視線を移した。劉楊は首筋に青黒い病変の瘤があり、酒の入った今は赤紫に変色している。郭聖通は叔父を見てため息をついた。


「今はああして上機嫌でいらっしゃるけど、叔父上には気をつけて。自分が誰かの風下に立つのが我慢ならない人なの。あなたに利用されたと思ったら、怒り狂って何をするかわからない」


「女性というものは嫁ぎ先よりも父方の一族を重んじるものと思っていました。なぜ、忠告してくれたのですか?」


「私、あの人達嫌いですの」


郭聖通は扇で真定王の一族を指すと、開いてパタパタと扇ぎ始めた。


「名門のお嬢様と結婚したことで、先にもらっていた奥さんはお妾さんになってしまうのね。お気の毒様。奥さんの一族は大丈夫なのかしら」


「知っていたのか」


劉秀の声は若干の怒気をはらんでいた。


「怖い顔。奥さんのこと愛しているのね。私を愛さなくても良いけれど、子供は作ってもらうわよ」


劉秀は腑に落ちない、という顔をした。


「一族が嫌いと言いながら家を繋ぐ義務感があるのですか?」


「あなたが皇帝の座を狙えるくらいの英雄だって、従兄弟の耿純こうじゅんから聞いてるわ。私、皇太后になって、天下を思うがままにするのが夢だったの。だから、あなたとの子供が欲しい」


呆気に取られる劉秀の鼻を郭聖通は扇でつつく。


「だから叔父上なんかに寝首を搔かれないようにね。夫が皇帝となられるのを、妻は心から期待しています。……ねえ、さっきの怖い顔もう一度して。すごく…格好良かった」

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