第三十二章 控えおろう!
1
「真贋定かならぬ劉子輿のもとに集まる連中など、所詮は烏合の衆に過ぎない。我が上谷や漁陽の突騎にかかれば、枯れたるを砕き、朽ちたるを折くが如し。なぜ進んで族滅の禍に身を投じる。お前らが何と言おうと、劉秀様に会いに行くからな!」
剣に手をかけ顔を真っ赤にして怒鳴る耿弇を、二人の属官、孫倉と衛苞はせせら笑った。
「冀州をはじめ、遼東より西の諸州はみな劉子輿様に服したそうですよ。後から帰参しても席はありませんぞ。若様こそ、後悔なさいませんように」
耿弇の父、太守の耿況は更始帝からの使者である劉秀が河北に至ると聞き、息子を派遣してこれに引き合わせようとした。しかし、鉅鹿郡の宗子県に至ったとき、劉子輿即位の報が届いたのである。
結局、耿弇は心変わりした属官二人と別れ、劉秀のもとを目指してわずかな勢で進むこととなった。
愛犬の皺が吼えながら耿弇を先導するように進んでいく。
「そうだな、シボ。気を落としてはいられない。先をいそごう!」
2
盧奴の街に滞在していた劉秀達は対策を協議していた。耿純と傅俊(傅俊)から届いた知らせを主簿の馮異が改めると、恐ろしい情勢が書いてあった。この情勢により、二人はしばらく合流できないという。
「真定国・河間国・信都国・清河郡・中山国・巨鹿郡・常山郡・趙国・広平国。これらの首長は劉子輿の即位を受け入れたとのことです」
馮異の報告に劉秀は大袈裟に手を上げていった。
「お手上げというやつだな。だいたい、中山国が与したということは、この盧奴だって敵地じゃないか?」
気まずい沈黙が部屋を包み込んだ。もう安全な場所など河北にはないのだ。
「いっそのこと、長安に戻るか!」
劉秀が明るい声で提案すると、背後の戸をいきなり開ける者があった。一人の若武者が入ってきて、息を切らして叫ぶ。
「お待ちください!北へ、北へ行くべきです!」
犬が一緒に入ってきて吠え立てた。賈復がすわ曲者か、と拳に手指虎をはめて身構える。陳俊もいつのまにか狼牙刀を構えていた。
「明公、この者の話を聞くべきです」
鄧禹が若者を凝視して言う。劉秀は手で合図をして、二人の部将の武器を下げさせた。
「私は上谷太守の息子、耿弇と申します。父の命で閣下にお力添えをするために参りました。南下をしても敵地をくぐるに変わりなく、長安に戻っても敗北したとされて処罰を受けるやも知れません。ここは北上し、我が上谷と漁陽の突騎を味方につけて劉子輿を叩くことこそが最良の一手です」
熱をこめて話す耿弇に対し、朱祜が問う。
「上谷や漁陽が味方をしてくれる、という保証はあるのか?君が出発してから劉子輿は即位したのだから、君の父上も劉子輿についたかも知れんぞ」
耿弇は食い下がる。
「父は私が必ず説得して見せます。道理を弁えた人ですから、きっとわかってくれます。漁陽太守の彭寵殿は閣下と同郷の人ですし、なにより利に敏い方です。窮地にある閣下をお救いすることが後々の巨利につながると説けば、転ぶはずです。……私にお任せくだされば、必ずや突騎を引き連れて邯鄲を落として見せましょう!」
劉秀は静かに頷くと、言った。
「君はまだ若いのに大した志を抱いているんだな!よし、決めた。北へ行こう」
諸将はざわめいたが、劉秀は落ち着いている。劉秀は耿弇の肩をポンポンと叩きながら諸将にいった。
「なぁに、活きのいい案内人もついてることだし。心配ないさ」
3
劉秀一行は盧奴から薊県まで北上し、そこで募兵をする事にした。手勢を増やせば危険を避けられるとともに、説得したい2郡に対してもはったりが効く。
しかし、自信満々で兵を募りに出かけていった王覇が悄気げて戻ってくるまでに半日もかからなかった。
「誰も募集に応じなかったばかりか、街中の者から指をさして笑われました」
がっくりと肩を落とす王覇を見て、馮異は疑問を唱えた。
「しかし、おかしいですな。このあたりでも仕事を欲している者は沢山いるはず。誰も応じない等ということが…」
耿弇の愛犬シボがけたたましく吠える。
陳俊が窓に駆け寄り、暫くするとにやにや笑って言った。
「皆さん既に内定を頂いてらっしゃるようで」
宿の周囲には黒衣の集団が十重二十重、すっかり包囲されてしまっていた。
劉秀も窓の外を覗くと、夥しい数の敵を見て首を横に振った。
「これを斬り伏せて進むのは骨が折れる…いや、楚の重瞳でもなければ無理だ」
朱祜はそれを聞くと、劉秀の武人としての力量を項羽に比して考え、案外いけるのではと思った。しかし、劉秀自身が落ち延びたとしても、属官が皆殺しでは再起は難しい。
その時、銚期が進み出て、胸をどんと叩いて見せた。
「ここはそれがしにお任せあれ!皆さん、耳を塞がれますように」
劉子輿の兵はジリジリと包囲を狭めつつあった。
兵の一人が宿の扉に手をかけようとした時、逆に扉が内側から開け放たれた。
銚期は飛び出すと大きく身体を反らして、力の限り叫んだ。
「蹕!」
あまりの声の大きさに先頭にいた兵は崩れ落ち、周囲の兵も武器を取り落として耳を押さえ、悶えている。
劉秀一行はこの機を逃さず、馬に飛び乗って駈け出した。
しばらくしてから我に返った敵兵達が地獄の亡者のように一行に追い縋ってきたが、賈復が鉄拳を見舞い、陳俊が狼牙刀を閃かせ、朱祜が鉄鞭を振るって退けた。耿弇も三尖両刃刀を振るい、敵を薙ぎ倒す。劉秀も剣を振るい自ら十数人を斬り伏せて、遂に何とか街の外まで駆け抜けることができた。
しかし、城外に出て追手の姿がなくなってから辺りを見回すと、耿弇の姿がない。
「耿弇殿も獲物を振るってバッサバッサと敵を倒していましたが、悪目立ちしてしまったようで最後に見た時は囲まれてしまっていました」
朱祜がそう言うと、諸将から心配する声が挙がった。
しかし、鄧禹は確信に満ちた声で劉秀に建言する。
「耿弇殿はこんな所で死ぬようなありふれた人物ではございません。いつかは合流できます。ただ、彼の案内なくこのまま北に進むのは難しいと思います」
馮異が後を継ぐように続ける。
「南でも、信都を守る任光殿など、助力を期待できる者はいます。ここは一旦南に向かいましょう」
任光はかつては王常の腹心であり、昆陽の城門を共に駆け抜けた十三騎の一人でもあった。
劉秀は北上に未練があったのか悔しそうな顔をしたが、諾と短く答えると南へと針路を向けた。




