第二十九章 洛陽にて
1
李松は腕組みをしながら宮中の長い回廊を歩いている。その表情は憂いで曇っている。
赤眉が再び叛いた。そもそも先頃あの赤眉が帰順したという事すら、例えば鎮撫に出された劉秀であるとか、各地を巡っている李軼などには伝わっていないのではないだろうか。
赤眉の頭目を名乗るあの蓬髪垢面の男、樊崇は、更始帝に拝謁してすぐに列侯に封じられたことを喜びはして見せたが、実際の封土がないことを知るや否や、夜逃げに近い逃亡劇を演じた。そして、逃亡の道中での凄まじい略奪行為は三輔の住民を震え上がらせた。
思えば食糧難から発生した流民の集団なのだから、先に食糧やそれを約束できる土地をくれてやるべきだったのだろう。私達は、対応を誤ったのだ。
「そう悪いことばかりでもないでしょう。去った者もいれば、来た者もおります」
李松が顔を上げるとそこには来歙が立っていた。来歙は更始政権の中では新参の部類だが、実直な人柄で手堅く仕事をこなすので周囲の信頼も厚く、李松とも親しくなった。
「顔に出ておりましたか、お恥ずかしい。確かに、梁王劉永様が帰参なされたことは、我々にとって喜ばしいことですな」
赤眉と入れ替わるようにやってきたのは、ここ洛陽からはるか東方、梁郡に根拠地を置く劉永である。劉永は梁孝王劉武の八世孫、血筋の話で言えば更始帝よりも遥かに名門の出身である。その劉永が平伏して帰順を表明したことで、赤眉の一件で著しく気を損じていた更始帝は気をよくし、梁の国を治める梁王の位を復活させて劉永にその位階を授けた。
劉永はかなり太っており、三重になった顎には不釣り合いに小さな目鼻立ちの顔が乗っていた。梁王に封じられるとすぐに、大きな身体を弾ませて、天子の車駕かと見まごうような豪奢な装飾の施された車に乗って帰っていった。
「しかし、劉永様はすぐに任国に帰ってしまわれました。その点、隗囂殿は洛陽に残って政権を支えてくれるそうで、心強い」
隗囂は天水の大豪であり、王莽を滅ぼす際には長安攻略で大いに活躍した人物であるが、一度根拠地に戻り今まで更始帝に拝謁せずにいた。軍師が更始帝に帰順することに反対していたため、これほど遅くなったのだという。この度帰順するにあたってその軍師は書き置きを残して隗囂のもとを去った。軍師の名は方望、来歙も知る高名な学者であった。
隗囂は公式の場では叔父や兄を立てて自身は控え目に振るまい、美文をもって各地の豪族に帰順することの利を説いている。
そのへりくだった態度は、天下を動かした大豪というよりもむしろ儒者のようであったので、多くの人が彼を好意的に見ている。
李松と来歙が政権のあれこれを話していると、一人の若者が恭しく頭を下げて通り過ぎていった。
来歙が李松にあの者は何者ですかと尋ねると、
「劉協殿です。赤眉にさらわれていた宗室の一人で、陛下に助けだされたと恩義に感じて小姓のような仕事に精を出しています。実際は助けだされたというより、赤眉に置いて行かれただけなんですが」
人には心の拠り所が必要なんでしょう、と来歙が言うと、李松は返した。
「それが自身の幸福に繋がるような、そんな拠り所であればいいのですが」
2
「朱祜、あなたは劉秀とともに河北に向かったとばかり思っていました。護軍の仕事もあんなに熱心にやっていたのに、いったい何故洛陽に残っているのですか」
劉嘉に話しかけられた朱祜はなんだか悪戯を見つかった小児のような慌てぶりだった。
結局二人は店に入り、劉嘉の頼んだ冷やし蜂蜜を飲みながら腰を据えて話すことにした。
「…甘い。もう少しサラッとしてくれていたら良かったのですが」
「劉嘉…私は、劉秀が兄の仇を討つ気がないのが、どうしても許せないんだ」
劉嘉はしばらく蜂蜜の入った杯をくるくる掌の上で回していた。
「あなたは伯升の親友だった。けれども、あなたは劉秀の親友でもある」
劉嘉は蜂蜜を少し飲んだ。
「あなたは、これを劉秀とともに商ったことがあるそうですね」
朱祜はその時のことを懐かしげに語り出した。宅配業の真似事をして上手く行き、稼いだお金を全て蜂蜜に突っ込んだが大失敗、抱えた大量の在庫を捨てるにしのびなく、二人で消費しようとしたらブクブク太ってしまった。その次は駆け足が二人の流行となった。
「私が荘尤将軍のところの面接ではねられたとき、あいつは自分が受かったのにそれを蹴ってしまった。自分だけ就職するのもなんだか気が乗らない、なんて言って」
劉嘉は微笑んで話を聞いていた。
そして言った--あなたはやはり劉秀のもとへ行くべきだ--と。
「私は伯升を見捨てたことを今も後悔している。もし、劉秀が河北で命を落としても、同道しなかったことを後悔しないと言えますか?」
朱祜の手をそっと握るその手は白く細かった。
「丁度、あくの強い部下二人を劉秀のところにやるつもりだったのです。あなたが連れて行ってくれると嬉しい」
3
「私は何か不味いことを言ってしまったのだろうか。どう思う、陳俊殿」
「言ったと思うよぉ、ハハハッ」
陳俊と呼ばれた男は、卓上で短刀を弄んでいる。
その短刀は、背に鋸状の刃が並んだ禍々しい見た目のものであった。これは狼牙刀と呼ばれる形である。
笑われたのは容貌魁夷の大男、それでいて目には知性の光が宿っていた。
陳俊はこの賈復という男が、劉嘉に天下取りを勧めるようなことを言って敬遠されたその瞬間を見ていた。賈復は若くして尚書を学んだが、学問の師に「君は儒者ではなく、将軍の相がある」と言われ、盗賊退治等を経て更始帝の軍に合流したという。主君を焚きつけたということは野心家としての一面もあるのだろうか。武術の腕が立ち、めっぽう強いという話でならば以前から有名ではあった。偶々遭遇した捕物の現場で、賈復は拳に手指虎を嵌めて盗人を殴りつけ、一瞬で五人の賊を倒した、と陳俊は部下から聞いている。手指虎とは五本の指輪を連結したような武器だが、彼の物は右手用には「親義別序信」の五倫、左手用には「仁義礼智信」の五常が刻まれているという。殴られた賊の顔面には五倫五常がくっきりと浮かびあがっていた、というのは流石に尾鰭の類だろう。
「しかし、だ。行大司馬の劉秀殿は、昆陽の戦いで百万の軍勢を破った当世一の英雄だよな。疎んじられた結果、そんな人のところに推薦状を書いてもらえたのだから、かえってよかったんじゃないか?」
「私はそんな風に軽々しく物事を考えられん!」
賈復はそう言い放ったあと、あ、と声を漏らした。
「いや、失敬。陳俊殿が軽薄だと言っているわけではない。気分を害されたなら謝罪する」
陳俊は苦笑いしながら、気になさんな、と言った。




