第二十八章 耿純
現政権の重鎮が来るらしい、との噂が鉅鹿郡にもたらされたのは劉秀一行が鄧禹と合流した頃と同時期であった。
鉅鹿の人である耿純は、先の済南太守の息子であり、溢れる才気をもって周囲に知られる若者であった。
彼は、件の“重鎮”が賄賂や酒肴を次々と受け取ったり、意に沿わぬ応対をした者を気まぐれに罰したりしていると聞いてげんなりしていたが、結局この人物に会うことにした。
鉅鹿で最も高級な宿に泊まっているこの人物に出会った時、耿純は相手が想像よりも若く、悪評から想像していたむくつけき風貌の中年ではないことに、やや驚いた。
「私が漢の五威中郎将、李軼である」
糸のような細い目、白い顔、凝った刺繍の施された赤い衣を着て、頬杖をつき気怠そうにしている。
耿純が恭しく自己紹介をすると、李軼は顔を顰めた。
「おい、貴様の親父は既に済南太守に戻してやったはずだぞ。この上、息子のお前まで欲をかくつもりか。用意したのは金か女か知らんが、つまらぬものを出したら手打ちにしてやるからな」
耿純は、父上はこんな奴に金を積んで太守の座を守ったのか、と暗澹たる気持ちになったが、平静を装って続けた。
耿純は言うーー私が献上いたしますのは、言葉にございますーーと。
「李将軍は、龍虎のごとき雄姿をもって、風雲の機に乗じて立ち上がられ、瞬く間に兄弟揃って富貴の座に登られました。しかし、徳信未だ士民に聞こえず、功勞未だ百姓に施さず、俄に高位大禄を得たことは深く智者の忌むところです」
李軼は細い目を光らせ、帯に手をかけた。刺すような殺気を感じた耿純だが、動揺を僅かにも見せず続ける。
「兢兢として慎重に振る舞っている者でも、不幸にも地位を失うことはあります。ましてや、目前の得たる所を自ら足れりとして、後事を慮ることのない今の閣下のご様子では、どうして功を遂げることができましょう」
李軼は喉を鳴らすと、帯から手を放した。
「ふん…度胸は買ってやる」
耿純は危機を脱したことを悟った。やすやすと無礼打ちされる自分ではないが、先ほどの殺気からこの暴慢な中郎将がかなりの手練であることがわかった。刃傷沙汰にならずにすんだのは幸運である。
李軼は酒をあおると、少しむせてから言った。
「そうだ…朱鮪から頼まれていた仕事を振る相手がいなくてな。お前のような鼻っ柱の強い奴は適任かもしれん」
耿純は李軼により、騎都尉に任じられると“河北の鎮撫”を命じられ、出立した。
朱鮪は同じ権限を持つ者を派遣することで劉秀の任務を混乱させ、粛清の口実を作為せんと試みたのであるが、果たしてその策は意図から大きく外れることとなるのである。




