第一章 荘園
1
「兄上、私が長安に行っている間に我が家には何が起こったのですか?」
口調こそ穏やかだが、表情や声音には非難がましい調子がこもっていた。尋ねているのは劉秀、答えるのは劉伯升である。
「家長であるこの俺が家産をどう使おうが、貴様には関係のないことだ」
まったく動じる様子はない。
白河酒楼での酒宴からは既に数年が経過していた。
この間に劉秀は首都長安で学問を修めたものの、就職活動に破れて実家に帰ってきた。新王朝では前王朝の宗室である劉姓は冷遇されており、あらゆる官庁で名前を告げるだけで門前払いを食うような有様であったのである。
そのことは確かに劉秀の心に影を落とした。しかし、仕送りが足りなくて兄の親友であった朱祜を巻き込み共に蜂蜜の清涼飲料を作って売りさばいたこと、実家に目が飛び出るほどの土地税が課せられて納言将軍の荘尤に直談判しに行ったこと、同じ宿舎で奇人として有名だった彊華という儒生と大喧嘩の後親友になったこと、秀才として名高い鄧禹という儒生が弟のように懐いて帰郷の折も城門まで見送りに来てくれたこと、そんな出来事を思い返しながら、
「官職につけなくとも長安で得たものは多い」
と半分は自分に言い聞かせるように、半分は本心からそう考えて劉秀は故郷である舂陵に戻ってきた。
それに、南陽には許嫁の陰麗華がいる。幼い頃から知っている女性ではあったが、長安での在学中にひょんな事から縁談がまとまった。しかし、許嫁になってからは距離的な問題から文のやり取りしか出来ていなかった。文を読み返しては可憐な姿が瞼の裏に映る。最後に会ったときよりも更に美しくなっているんだろうな、と根拠なく思う。元々血筋以外では太刀打ちできないくらいの名家・大富豪の娘であり、要するに逆玉なので、就職が上手く行かなかったことを伝えるのはかなり気がひける。しかし、それでも会いたい、という気持ちは日増しに募っていた。
そこで待っていたのが、実家の家産が三分の一になってしまったという衝撃的な現実であった。劉秀達の父は早くに他界し、その遺産も皇族の傍流にしてはかなり侘びしいものであった。亡き父に代わって育ててくれた叔父の劉良は決して金の事は口にしなかったが、その家計も豊かではないことは兄の伯升とてわかっているはずではなかったか。年を追うごとに悪化していく母の持病のこともある。薬代だって馬鹿にならないのに、自分達兄弟がなんとかしなければならないのに。何だって?遺産がほとんどなくなった?
「ふん、そんなに気になるなら教えてやる。くだらん財産など南陽中の侠客や博徒にばらまいてやったわ!俺を睨んでいる暇があるなら、貴様が稼げばいいだけのことよ」
開いた口の塞がらない劉秀を置いて伯升はさっさと屋敷から出て行ってしまった。
我に返った劉秀は、慌てて兄を探しに玄関を出た。その視界一面に、緑がかった粟畑が映った。所々荒れているものの、風に穂がそよぐ様が美しい。劉秀はしばし兄の事を忘れ、子供の頃から見慣れた風景に浸っていた。
「この畑以外の財産は伯升兄さんが人にやってしまったの。仲兄はフラフラ女の人と遊んでばっかりで家に寄り付かないし。秀兄、私たちこれからどうなるのかしら」
気がつくと、背後に妹の劉伯姫が立っていた。仲兄とは、次兄の劉仲のことである。気のいい兄ではあるが、ふわふわと捉えどころのない遊蕩児である。
「畑が残っていたのは幸いだ……大丈夫、何とかするから心配するな」
劉秀は俯く妹の肩に手を置いて、優しく言った。
「ともあれ、何事も勉強からだ。本家の劉孝孫殿を訪ねるから、しばらく留守を頼む」
陰麗華に会えるのはまだまだ先になりそうだ。
2
劉嘉、字は孝孫。反乱に関係したとの嫌疑により爵位を廃された舂陵侯の甥である。
幼いころに父を亡くし、本家を継ぐまで劉秀達の父に養育され、劉秀とは兄弟同然の間柄であった。劉秀は実家の畑、荘園の経営について、この劉嘉に師事させてもらうよう頼んだのである。
「よく来てくれました。あなたの母上を訪ねた折に塞いでいるご様子だったので、気になってはいたのですが、そんな事になっていたとは。……とにかく今日はゆっくり休んで。明日から私が荘園経営についての手ほどきをしましょう」
劉嘉は細身の身体で文叔を抱擁するとそう言った。
身体つきだけでなく面貌も細面で、眼は黒目が大きく睫毛が長い。まるで女性のような劉孝孫から突然抱きすくめられた劉秀は、思わず顔を赤くしてしまった。
腐っても宗室、舂陵侯家は広大な土地で粟を生産する大豪族であった。粟は当時の主食である。
粟の売買による収入を現代の相場に換算することは難しいが、億単位の収入を得ている大規模農園の経営者、というところである。
翌日から、劉嘉は自身の荘園に劉秀を誘い、主に管理面について講義した。
黄金色に色づき始めた一面の粟畑を前に劉嘉は振り向いて微笑む。時折、畑が生きているかのように揺れる。手入れのため小作人が畑に入っているからだ。
講義を受けながらも、劉秀は折を見て自ら畑に入り、農作業を手伝いながら小作人達に対して土や粟についての教えを乞うた。はじめは恐縮していた小作人達も、泥に塗れる劉秀の姿を見て心を開き、自身の経験に基づく知識を伝授してくれた。
ある日、農地に植えられた粟の間隔を見て、劉秀は呟いた。
「都の周りに作られた国有の王田では、陛下の命で、収穫を増やすために一つの畑に密集して植えられていたが……」
小作人は目を丸くして言った。
「そげなことしたら、ぜんぶ枯れてまうど!あ、いや、旦那様、大きな声出しちまって、失礼しました」
「いや、大事な事を教えてくれた。枯れてしまう理由はわかるかい?」
小作人は頭をぽりぽりとかく。
「おら達は親父から、親父はじっさまからそう教わったで、理由は考えたことなかったっす」
その日、遅くまで書庫に籠もった劉秀は、古い農学の書を見つけ、作物を過密に植えると根が肥やしや水を食いあって枯れる、との記述を見つけた。さらに続く一文にはこうあった。
「そして、“粟枯れて、蝗涌く”……」
近年の蝗害には人災の側面もあるのではないか……そんな事を考えながら、文机に突っ伏し、朝になっていた。
畑に入るようになって劉秀が気づいたことは、劉嘉が小作人達に愛されている事である。前の雇い主よりいかに優しいか、目をかけてくれるか、そういった話を劉秀は幾度も聞かされた。
富裕な生活を営む者には、強者である自らに驕って弱者に対して酷薄になる者と、強者であることにむしろ負い目を感じて弱者を労る者の二種類がいる。劉嘉は後者であった。
「奴僕を使えばもっと儲かるのかもしれないが、私はそのやり方が気に入りません。第一、将来の展望を持てない者を真面目に働かせるには厳しく監督するしかなく、少しでも目を離すとすぐに畑は荒れていきます。劉聖公の荘園がそうですが、案の定というべきか、畑が立ち枯れの病にやられてこの間泣きついてきましたよ。小利を貪りて大利を失うとはこのことですね」
劉玄、字は聖公。南陽郡蔡陽県の豪族で劉秀達よりも漢王朝宗室の本流に近い名門の次期当主であるが、劉秀にはまだ面識はなかった。
「私も長く話したのはこの間がはじめてですが、あの人は酒癖が…この話はここまでにしましょう。とにかく私は奴僕を用いません。本当は田畑だって自らの手で開墾したいくらいなのです」
いくらなんでもそれはどうか、とは劉秀は考えなかった。
彼自身も、泥に塗れて小作人と一緒に畑を手入れしたことで、こうやって土と生きるのも悪くないと思うようになっていた。農作業への参加は、自身の荘園に実際的な知見を持ち帰るという目的から始めたことだったが、劉秀は農作業自体が好きになりつつあったのだ。
ただ、例えば劉嘉が一軍の将であったならば同じことをしてしまうのだろうか、と想像する。
新王朝が劉氏に兵権を渡すわけがないので意味のない想像ではあったが。
奴婢、あるいは奴僕、奴隷といった存在について考えると、劉秀は暗い気持ちになった。良民と異なり、彼らは賎民として人間扱いされない。奴は男の奴隷であり、農作業や重労働で酷使されて事故で死んだり、自死するものも多い。婢は女の奴隷であり、家内で使われる事が多いので命は安全だが、買い主の性の捌け口にされるなど、別の地獄が存在した。官営の工場や牧場で働かされる奴婢は犯罪者や捕虜がその供給源だが、荘園で使われる奴婢は田畑や財を失った農民の成れの果てであった。劉秀は、都の市場で、売り買いされる奴婢を見たことがある。奴隷商人が奴婢の口を開かせて虫歯のない事を示す様が、脳裏にこびりついて離れなかった。歯の悪い者は他の病気にかかりやすいから、買い主に歯を見せる。理屈はわかるのだが、あれは牛馬の扱いだった。
「彼らとともに作業をして、気づいたことがまだあります」
「おや、なんですか?」
劉秀は掌を劉嘉に見せた。農作業で出来た真新しいマメが痛々しい。
「若い小作人の掌には、私の掌と違うところにマメが出来ていますよね。何か、私にはまだ教わるべきことがあるのではないでしょうか」
劉嘉は微笑を浮かべた。
「追々、説明しようとは思っていましたが、こんなに早く感づくとは。わかりました。明日の朝、納屋の前に来てください」
3
明くる朝、劉秀は舂陵侯家の屋敷についたはじめ頃に一度だけ前を通った“納屋”の前に呼び出された。はじめに見た時にも何を納めているのか尋ねたが、返事は濁された。
劉嘉は無言で扉を開けた。納屋と言うには余りに大きいその建物の中には戟、剣、盾、長弓、短弓などが架に立てられてズラリと並んでいる。想像よりも遥かに大量の武器を間の当たりにして劉秀は思わず息を飲んだ。
「驚いたような顔をしていますが、規模に驚いているだけで、中身は予想通りだったのではないですか?」
劉秀はそう言われて、静かに頷いた。
劉秀は小作人達が影で練兵されている事に、かなり前から気がついていた。大きい荘園では自衛のために裏でそういう事もしているらしい、というのも知識としては知っていたが、私兵を養うのは法に反する行為であり、切り出しづらい話題だったのだ。
「やはり、あなたは兄弟の内では一番の知恵者ですね」
劉秀は立ち並ぶ剣の一つを手にとって仔細に眺めていた。長安で見た新朝軍兵士の得物よりもずっと切れ味が良さそうだ。カツカツと音を立てて背後から孝孫が近づいてくる。
「しかし、武芸はどうでしょうか?」
風を切るような音に反応して振り向きざまに頭上に剣を掲げると鋭い金属音がした。劉秀の剣は劉嘉の剣をはっしと受け止めていた。
「気づかなくても寸前で止めるつもりでしたが、これは期待できそうです」
嬉しげに二撃、三撃と続けて打ち込んできたので喋りかけることも出来ずに防御に徹するしかない。
素早い剣捌きだが表情からは劉嘉の手加減の程が伺える。十撃目を受け流した劉秀は思い切って攻撃に転じた。劉秀の撃ち込みをいなした劉嘉は間合いを切ると静かに構えを変えた。
その表情からは笑みが消えている。剣を持った右腕を中段に構え、左手を背に回して右半身のみをこちらに向ける。
膝をやや曲げて重心を低く取っている。
「…放馬過来。」
そんなことを言われても先程までと違い一分の隙もないので如何ともし難い。
二回打ちかかったがあっさりと避けられる。自棄を起こして大上段から切りかかったものの劉嘉は半身を少し逸らしただけで剣先を躱してしまった。
前のめりになった背中を劉嘉の剣の柄がコツンと叩く。
「今日はここまでです。明日から撃剣(剣術)の修練も行います」
この人がこれほどの剣客だとは。劉秀は床にへたり込むと感嘆のあまり笑い出した。
4
夕食の折に劉嘉に剣を教えたのはどこの私剣(剣士)なのか、さぞかし名のある武人であろうと尋ねてみると意外な答えが返ってきた。
「我が剣の師はあなたの御父上ですよ。あなたの御父上は、曲成候が創始したという宮廷剣術を修められていました。しかし、伯升が剣術の修行を早々に投げ出したことに気落ちされて、実子への相伝を諦め、私に剣術を叩き込んだのです」
幼いころ父である劉欽の姿が見えない時は劉嘉の姿も見えなかった気もするがその辺りの記憶は曖昧だ。
亡くなった父の意外な一面を知ったことで劉秀は少なからず動揺したが、劉嘉にはまだ訊きたいことがあった。
「まさか、反乱のために兵を養っているわけではありませんよね」
「実はそのまさか、ではありませんよ。ははは、睨まないでください。盗賊対策以外の意味はありません」
南陽はまだ開墾されていない手付かずの原野もあり、小作人の口を探して流民たちが出入りする特殊な土地柄であった。すぐ辞めていなくなる小作人が実は盗賊の一味であり、畜生働きの夜盗に屋敷の者が皆殺しにされて財貨が奪われる、といった凶悪事件も多発していた。
新王朝の官憲は微罪の民草を捕まえるのに忙しく、盗賊対策ではまったく頼りにはならなかった。
劉秀は違法行為とはわかりつつも、小作人の練兵は荘園経営に必要な事であると理解した。小作人達に盗賊から身を守る術を教えるためには、自らがまず武芸を修める必要があった。劉秀は劉嘉に師事し、武芸も学ぶことになった。
稽古は、屋敷の広い一室が道場に類するつくりになっておりそこを使って行う。
剣術の基礎が身についてくると、戟(日本の槍や薙刀に似る長柄の武器)、弓の稽古もはじまった。
弓は道場から中庭に向けて射る。稽古は毎日というわけではなかった。
道場は三日に一度は小作人の子供たちに学問を教える場として使われていたのである。
もちろん啓蒙的な意味合いもあったが、簡単な読み書きのできる小作人は取次などの面で便利だというのも一面ではあったのだろう。
また、納屋に隠されていた武器が密造品であることも程なく知るところとなった。
鉄の専売制により職を失った鍛冶屋を邸内に養っているということである。
劉秀は、朝は農場に出て、昼は撃剣を習い、夕は農書をはじめ様々な書物を読み漁る生活を送った。
まれに教壇に立って長安で学んだ儒学を子供たちに教えもした。毎日疲れ果て夜は泥のように眠った。
その年の収穫が終わったころ、撃剣の手合わせでも初めて一本を取り、劉秀は劉嘉に別れを告げた。
5
実家に帰ってからの劉秀の働きは目覚ましいものがあった。
荒れた農地を小作人をあれこれと指揮してあっという間に直してしまった。長兄の伯升が何故か練兵だけはすでに進めていた形跡があり、農地の復旧に集中出来たのも大きかった。
ある日、小作人の中に昼食もそこそこに再び働く壮年の者がいるのを見て、劉秀は声をかけた。
「休むのも仕事の内だ。身体を壊されては私はともかく、お前の家族も困るだろう」
小作人の男はぼりぼりと頭を掻くと、申し訳なさそうに言った。
「あいにくおらには家族がいねぇだよ。……女房は借金のカタに連れてかれて、それっきりさあ」
「まさか、兄達がそんな事を許すわけは……」
男は慌てて手をばたばたさせる。
「もちろん、若旦那様はそんな事なさらねぇだよ。何年も前の、南陽にくる前の話でさあ」
劉秀は木陰にその男を誘い、一緒に座った。男はぽつりぽつりと身の上話をはじめた。
男は元は小さな土地を耕す自作農だった。近所の豪族から農具や牛を借金で借りて、妻と二人で何とか生計を立てていた。
そこに旱魃が起こり、一帯の農地が全滅した。
借金を返せなくなった男の元に、豪族の家に出入りしているゴロツキがやってきた。
ゴロツキ達は男を殴りつけ、妻を豚か何かのように縛り上げて連れて行った。
奴隷として売るためだった。
男は絶望したが、それでも土地を離れずに百姓を続けようとした。
次の年も旱魃だった。
隣の家の百姓が、家族だけでなく本人もゴロツキ達に連れていかれたのを見て、男は逃げ出した。
流れ流れてたどり着いたのが南陽だった。
「お前の辛い気持ちがわかる、なんて無責任な事は言えない。しかし、なんと、むごい話だろうか。私が力になれる事はないか」
何年も前に売られた奴隷に、会うことなんて奇跡に近い。ましてや奴隷は高価な物だ。買い戻すのはさらに難しいだろう。そんな事は劉秀にもわかっていたが、わかっていてもこの不幸な男に寄り添ってやりたかった。
「若様に聞いてもらっただけでも、なんだか気持ちが軽くなっただよ。ありがてえ話だあ」
「お前、名前はなんというのだ」
男は目を白黒させた。
「豊、と言うだ。しっかし……」
「ん?何か不思議なことがあったか」
豊は笑顔を見せた。
「若様のようなご身分の立派な人から、名前を聞かれたのは初めてさね」
その出来事の後も、劉秀は朝な夕なと農地に分け入ってはその改善に力を尽くし、遂に収穫の時を迎えた。
その結果は大成功と言ってよかった。
劉秀の手がけた農地は収穫が倍になったとまで言われた。小作人の中には、劉秀さまは炎帝神農氏の生まれ変わりだ、などと言ってありがたがる者もいた。
農耕の神などに例えられては流石に面映ゆいものがあったが、感謝されること自体は素直に嬉しかった。次兄は一度様子を見に来て、
「うんうん。お前みたいな優秀な弟がいて俺は本当に嬉しいよ。荘園はお前に任せておけば安泰だな。頼んだよ、炎帝様」
などと言い、すぐまたどこかへ消えてしまった。悪気が本当になさそうなのでなんとも言えない。
長兄と違い、この次兄には反発を覚えるような張り合いというものが欠けている。
次兄が荘園に現れた日から幾日かの後、長兄は馬に乗って現れた。
劉秀は自ら畑に入って土を手にとって土の粒の大きさから土地の状態を確かめていた。劉秀が振り向くと伯升は、
「お前は、まるで仲のようだな!」
と大声で言った。遊び人の次兄の仲のことを言っているのではあるまい。
長兄は言葉が足りない訳ではなく、わざと自分を試すような物言いをするときがある。劉秀にはそれがなんとも気に障る。
「私が仲なら、兄上はさしずめ高祖ですか。白蛇にはもう会えましたか?」
中国の歴史上に劉仲の名を探すと、高祖劉邦の兄である代王劉仲の名がまず挙がる。
無頼漢だった劉邦と違い、真面目に農業に励んで両親に愛されたが、楚漢戦争では全く活躍しなかった。
そればかりか、北方の異民族である匈奴の侵攻に際し戦わずして逃亡した臆病者として名を史書に留めている。
馬鹿にするな、劉秀は険しい目つきで兄を見上げた。
「その顔が貴様の本性であることを期待する」
そう言った伯升の顔は口角がわずかに上がっていた。笑っているのか?激高して罵声を浴びせてくるという反応を予想していたのだが。伯升は馬を翻す。
その腰にはどこで手に入れたものか、七尺(約百七十糎)はあろうかという長剣を提げている。西域のものだろうか、剣格に見慣れぬ神獣が彫ってあった。
白蛇など例えに出してしまったのは、兄があのような長剣を佩いていたからだろう。
しかし、兄の感じが悪いのは今に始まった事ではないが、今日の言動にはそれだけでなく引っかかる点がある、と劉秀は思った。自分の気が強かったところで、兄に益するところなどあるだろうか?今までの些細な事々が兄の態度と結びつき、劉秀の中で大きな疑念に変わっていった。
伯升が訪れて数日後、来歙と劉嘉が現れた。来歙は劉秀らの父親の姉の子であり、劉秀の歳上の従兄である。曲がったことが大嫌いで、官憲の横暴に苦しんでいる人を助けたりしている内に、家に多数の侠客を抱えるようになってしまった。だが、本人は至って真面目で、やくざめいた印象は全くない。劉秀はこの従兄を尊敬していたので、久々の再会は嬉しいものだった。来歙と劉嘉は手入れの行き届いた荘園の様子に感心している。
「最近は農地も落ち着いてきたので、小作人の錬兵にも力を注いでいます。賊が襲ってきても女子供を逃がす余裕を稼ぐ程度には戦えますよ」
「それは謙遜というものです。小作人達のあなたへの懐きぶりを見れば、彼らが身命を捨てて戦うであろうことは想像に固くありません」
劉秀の言葉に劉嘉が返す。来歙は先程からずっと黙っている。その態度に若干の戸惑いを感じた劉秀だったが、結局、この二人以外に相談に適する人はいないと判断した。劉秀は木陰に二人を誘うと、ここ数日以来の懸念を口にすることにした。
「家族の事をお二人に尋ねるのはおかしなことかもしれませんが、他に頼れる方もおりません。私はここ最近の兄の言行に不穏なものを感じています。兄は何か良からぬ事を企んでいるのではないでしょうか。何かご存知でしたら、教えて頂きたいのです」
劉秀は兄の浪費、荘園の経営が適当な割に練兵だけは進めていたこと、言い返すと嬉しそうにしていたこと等を挙げ、来歙と劉嘉の顔を見た。
来歙は厳粛な表情で言った。
「良からぬ事、というのは捉え方による」
「何を……どういう意味ですか」
「間違っているのは世間か俺か、という話さ」
劉嘉は目に見えて狼狽えてはじめた。
「来歙!彼を計画に引き入れるなんて聞いていませんよ!」
来歙は劉嘉にやや厳しい口調で言った。
「いずれは彼も巻き込まれるんだ。子供扱いで隠しておいて、引くに引けなくなったときに明かすというのか!」
劉嘉は来歙の気迫に圧され、口ごもった。
「来歙殿。話が見えません」
「王道が開かれ、正しい政治が行われているならば、俺や伯升のような者の出る幕はなかろうよ」
来歙は拳を握りしめ、熱っぽく語る。
「しかし、今の世はそうではない。天命が失われ、世に無道が蔓延るとき、力有る者には果たすべき役目がある。違うか?」
いつになく激しい口調の来歙に劉秀は圧倒される。来歙は咳払いするとこう言った。
「そうだろう?伯升」
扉を開けて長兄が入ってきた。次兄もそれに続く。
「我々、南陽の豪族は近く義によりて反王莽の兵を起こす。この劉伯升が一切の指揮を執る!」
自信に満ち溢れた表情で長兄が宣言すると、次兄がわざとらしいくらいの拍手を贈った。
「正気ですか!宗家や来家の私兵を合わせても大規模な反乱を起こすにはまだ足りない。盗賊から荘園を守るためにも兵を残さねばなりません。とても上手く行くとは思えない」
そんなことは貴様に言われずともわかっている、と劉伯升は言う。
「荘園の防備については最低限を除き、いらぬ。なぜなら盗賊どもが我が反乱軍の主力だからな」
「襲ってくるはずの盗賊どもを手懐けてしまえば、その辺の心配はなくなるんだぜ。親父の遺産をばら撒いたのはそのためさ。でも、兄貴はすぐ喧嘩しちまうからな。俺も交渉役としてあちこち派遣されてたってわけよ。」
まさか遊んでるとか思ってた?心外だなあ、次兄はわざとらしく溜息をついた。
「叔父上はどう仰っているのです。まさか了解を得ずに事を図っているのではありますまいな?」
全員の表情がそのまさかであるらしいことをありありと物語っている。劉秀は目の前が真っ暗になっていく心地がした。
「あくまで反対だというなら、くだらぬ荘園と一緒に置いていくがな。どうせ俺が反乱を起こしたならば、ここに残った一族は捕縛されて首を落とされるだけのこと」
「…母上の病は篤くなっています。母上も連れて行くのですか」
「母上にはご同意を得た。ここに残るくらいなら俺のなすことを見届けてから逝く、そう仰っている」
劉秀は半ば放心状態だった。話が短兵急に過ぎる。
ようやく荘園が立ち直ったというのに、なぜまたこんな事に……。思い描いた今後の事が崩れていく音が聴こえるようで、頭の芯がじんじんと痛む。
「来歙殿はああ言ったが、決起はまだだ」
自分たちが陳勝・呉広の轍を踏まないためには、一番乗りは避けたい。
新朝の威信を揺るがすような大事件が起きるまで待ち、それに乗じて挙兵する。兄の説明はそんなところだった。
「それまでに良く考えておくのだな」
しかし、運命はよく考える暇を劉秀に与えないのだった。