第二十四章 朱祜
1
「その、お代を頂きたく…」
王莽の死から一ヶ月後、南陽の宛よりもはるか北、洛陽の酒店で小さな事件が起きつつあった。
恐る恐る声をかけた店主に対し、顔を赤くした兵士が酒臭い息を吐きかけて言う。頭には頭巾を被り、服は煤けてボロボロのだらしない姿であった。
「俺達はお前らを王莽の悪政から開放してやったんだ。その俺達から金を取ろうっていうのか?」
店の奥ではもう一人の兵士がよろけたふりをして女給に抱きついており、悲鳴が上がる。
「天下の漢兵様が可愛がってやろうってんだ。つれないこと言うなよぉ」
こちらの兵士は派手好きなのか、女物の服の袖を斬って着ている。
「貴様ら、何をしているか!」
やや高い声が響いて入ってきたのは、整った戎装に身を包んだ、整った髭の男である。
「護軍都尉の朱祜である。貴様らが夜な夜な近隣の酒楼で悪さを働いているという調べはついている。司隷校尉劉秀様の命により、貴様らを逮捕する!」
朱祜が右手を挙げるとワラワラと兵士達が雪崩れ込んで来て、あっと言う間に二人を縛り上げてしまった。
朱祜の率いる兵士達の姿は、縛られた二人とは対照的だった。同じ規格の鎧、兜のあご紐はきつく結ばれ、服の丈は身長とぴったり合って、靴はよく磨かれ、もみあげの長さまでぴっちりと揃っている。
絵から抜け出てきたような兵士達の姿に店主も店子も呆気に取られてしまった。
「店主よ。すまないが、捕縛の際に皿を何枚か割ってしまったようだ。私にはどの程度の額か判断がつかないので、これに書いてくれないか」
早口で竹簡を差し出す朱祜に対して、店主はポロポロと涙を流して、言った。
「そんなことはいいんです…わたしゃ洛陽生まれの洛陽育ちで…漢の偉容をこの目で再び見れたのが嬉しくって」
朱祜は、感謝の心は私でなく劉秀様へ、と告げると店を出て行った。
更始帝劉玄は現在仮に都としている宛から洛陽に遷都したいと考えており、劉秀を司隷校尉に任じて首都圏である司隷部の治安回復と宮城の修理をさせることにした。
盗賊上がりの緑林や下江出身の将軍が占拠した地域では治安が悪化する一方であったので、この人事に対して朱鮪以外の者は反対しなかった。
2
不良漢兵を捕らえた朱祜を洛陽宮で出迎えたのは馮異だった。
「護軍都尉自ら巡察されるとはお疲れ様です」
そういう貴方も自ら報告をまとめるために来られたのではないですか、と朱祜が問うと馮異は微笑んだ。
微笑む馮異を見て、朱祜は彼が同行するに至った経緯を思い出していた。
劉秀一行は南陽から洛陽に向かう途中、父城に立ち寄った。
一度降伏したはずの父城の城門が固く閉じられているのを見て一行は訝しんだが、望楼に立った馮異は劉秀の姿を見つけると直ちに開門し肉や酒を振る舞って歓待した。
宴席でなぜ我らが来るまで再び城を閉じていたのか、と訊いた劉秀に対し、馮異は答えた。
「私は劉将軍個人に降ったのであって、更始帝にくだったわけではありません。他の更始帝の将が来たら追い返すつもりでいました」
劉秀は馮異が自分に仁義を示してくれたことに感激し、彼を主簿に任じた。
降ったばかりの将に文書を握る役職を任せるというのは、よほどの信頼を得たということだろう。
馮異はしかし、その信頼を鼻にかける様子が全くない。朱祜は出会ったばかりの彼を既に好ましく思っていた。
3
新たな同行者がいる一方で、南陽で別れた者もいる。
司隷校尉の仕事も罠かもしれない、そんな話も出る中で、劉秀は新妻の陰麗華を南陽に置いて行くことにした。
「信じています……また、無事に戻ってくるって」
陰麗華は劉秀の胸元に手を当てた。そこには麗華からもらった蛍石の御守が入っていた。
劉秀は麗華の手に自分の手を重ねた。
「必ず、戻る」
麗華の背後には照れくさそうな顔をして、鄧奉が佇んでいた。
「鄧奉、貴方にしか頼めない仕事だ。我が妻を守ってほしい」
南陽、特に育陽は鄧氏の治めるところとなっており、仮に更始帝の軍が差し向けられたとしても根強い抵抗が可能であった。鄧奉は可愛い姪のこととあって快諾してくれたが、もしも姪を泣かせるようなことがあったら許さない、と劉秀の肩をバンバン叩いた。劉秀は帰り道時折肩を押さえて痛そうに下唇を噛んでいた。
朱祜は朱祜で、鄧奉から別れ際に劉秀のことを頼む、と言われていた。その表情はいつになく真剣だった。
「いつか一緒に伯升の仇を討とう。きっとだぜ」
朱祜は仕事を終え、深夜に官舎にたどり着くと鎧を脱いで寝台に腰掛けた。
目を瞑ると、あの日、遠ざかる景色の中で鄧奉がいつまでも手を振っている姿が蘇った。
――そんな日が本当に来るのだろうか、鄧奉よ。――
朱祜を中心とした取り締まりは連日続き、洛陽の治安は徐々に回復していった。規律正しい部隊の様子はいつしか更始帝の軍が残した悪印象を拭い去り、洛陽の人々は密かに劉秀に心を寄せるようになった。
劉秀には伯升の仇を討つ気配はない。しかしながら、この人々の反応から見ても、更始帝に替わり、皇帝になるべきは劉秀なのではないか、と朱祜は思う。少なくとも、その目を狙う余地はある。
馬上の劉秀は死んでいった者達に思いを馳せていた。志半ばで倒れた長兄、家族を守って散った次兄、自分に未来を託して死んだ姉、可哀想な姪たち、そして豊や名もない兵士達。
――どうした?そんな情けない面では、天下は狙えんぞ――
いつの間にか右前方を燃え立つような紅い馬が走っている。振り返った馬上の人物は確かに自分の、劉秀の顔をしていた。
後世において、兄の遺志を継ぎ、漢王朝中興をなしとげたと讃えられる劉秀。その覇道はまだ始まったばかりであった。




