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第二十三章  二人の王匡

 更始帝は黄堂に座して、中庭に置かれた生首を眺めている。左右には先日淮陽わいようの地を攻略して凱旋した朱鮪しゅい、この宛の宮殿に玉璽と首を届けた趙萌ちょうぼうが得意げに座っている。更始帝の寵姫ちょうきである韓夫人(かんふじん)は帝の肩にしなだれかかっていた。更始帝は両手で持っていた玉璽を膝下に置くと、物憂げに溜息を漏らした。


「これが王莽の首か。この男も、邪心を挟まずに少年を輔けて政統をただしたならば、霍光かっこうにさえなれただろうに」


朱鮪は、更始帝の言葉から教養を感じ取ったことが今までなかったので意外の感に打たれた。

漢の名臣と讃えられた霍光は、位人臣を極めて絶大な権力を振るいつつも、王莽のように帝位を窺うことはしなかった。実に上手い対比である。


「あら、王莽が邪心を起こしたから、陛下は皇帝になれたのでしょう?」


韓夫人が更始帝に囁きかけ、耳を甘く噛んだ。

更始帝は首を宛の市に晒すことを命じると、韓夫人の肩を抱いて連れ立って寝所に引っ込んでしまった。


ーー全くの愚物ではないようだが、しかし。ただ暗愚な方がこちらとしては扱いやすいのだがな。ーー


朱鮪は寝所に消える更始帝を見やって独りごちた。

朱鮪の後ろに控えていた岑彭しんほうが問いかける。


「王莽は、始皇帝が書物を焚き私の論を立て、また儒者を埋殺したように極端な悪行を行ったわけではありません。しかし、彼に感じる言いようのない嫌悪感は何なのでしょうか?」


朱鮪は振り返らずに言った。


むらさきあけを奪うをにくむ、というやつよ。始皇帝が儒者を殺したは確かに悪事だが、王莽は悪事を儒で飾り聖人のように振る舞った。偽善は悪よりも鼻につくのさ。聞きたいことはそれだけか?」


「何故私を属官に任命されたのですか?」


宛攻略の際、岑彭の命を助けたのは、朱鮪らに謀殺された劉伯升であった。

淮陽の戦いでは、岑彭は朱鮪の属官として縦横無尽の活躍を見せた。岑彭の配属を帝に請うたのは他でもない朱鮪である。朱鮪はようやく振り返って言った。


「察しはついているのだろう。お前が劉伯升りゅうはくしょうの仇討ちで私の命を狙う、と思ったから恩を売った。あとは、お前が使える男だと踏んだからだ。どうだ、これを聞いて今からでも仇討ちをするか?」


岑彭は朱鮪の目を見据えて言った。


「引き立ててくださった恩も、命の恩人のあだも、いつかまとめてお返しします」


 申屠建しんとけんはとくとくと杯に酒を注ぐと李松りしょうに勧めた。


王憲おうけんの首を漬けた酒です。ご賞味あれ」


李松が両掌を前に出して、私は下戸なのです、というと申屠建はつまらなそうに杯を置いた。

王莽の首や玉璽を先に手に入れたのは王憲という洛陽の豪族だった。しかし、王憲は宮殿の扉を堅く閉ざし天子の旗鼓を勝手に立て、受け渡す気配をまったく見せなかったので、申屠建に誅殺された。

更始帝の軍が扉を打ち破って宮殿に侵入したとき、王憲は宮女に狼藉をはたらいている最中であったので、勝負は呆気なくついた。


「此度の軍功を笠にきて、趙萌ちょうぼうが増長しているようです。よくない傾向ですね」


申屠建は李松のために注いだ酒を飲み干すと大きなげっぷをして言う。


「あれは、あのなんとかいう奴の一門の者が切れ者だっただけだろう」


宮殿に至るまでの細かい戦闘でも二人は遅れを取っていた。しかし、最大の痛恨事は、二人が怒りに任せて王憲を殺しに行っている間に、趙萌に仕える趙匡ちょうきょうという男が玉璽と王莽の首を発見してしまったことである。

李松からすれば実際に活躍したのが趙萌か趙匡かなどどうでもいい。

趙萌の手柄として更始帝が認識してしまったことが重要なのである。

しかし、首酒をぐいぐい飲む申屠建の様子が恐ろしかったので、李松は口に出しかけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。

申屠建は長安を占拠して以来、王憲以外にも反抗的な豪族を次々と血祭りにあげている。李松の聞くところ、申屠建はこの長安で詩経を学んだという。この血腥ちなまぐさ)い男を見て、学問は人格の形成には影響がないのかもしれない、と李松は思った。


「定国上公の王匡おうきょう殿は、洛陽で手こずっているようです」


結局、李松は強引に話を変えることにした。

申屠建はもう一杯酒を飲み干すと、投げるように杯を置いた。


「王匡の旦那も意地があるだろう。わかりやすい加勢はなしだ」


李松は予め用意していた竹簡を広げた。


「私も同感です。加勢する代わりにこれを送ろうかと思いまして」


 定国上公こと緑林の王匡は城攻めの経験が豊富であったので、洛陽の攻略もはじめから乗り気だった。

それだけに一進一退の攻防を繰り返すこの状況は甚だ不本意である。

後発の部隊に持たせた新兵器がもうすぐ届くが、それだけで果たして決着がつくだろうか?

今日も衝車しょうしゃ雲梯うんていを使って攻めているが城壁の内に入れそうもない。

穴を掘って下から、などという作戦も試したが、溶けた硫黄を流し込まれて早々に断念した。

敵の守将は奇しくも同じ名前の王匡という男で、王莽の親戚だと言う。

長引く戦闘で城内には厭戦の空気が流れているとも聞こえてきたが、表面上は徹底抗戦の構えを崩していない。

蹄の音が鳴り響き、伝令兵が慌ただしく宛の李松からの竹簡を差し出した。


「これは…最後のひと押しに役立つかもしれんな」


王匡はにやりと笑う。


 緑林の王匡が宛からの便りを受け取った次の日、新朝の太師たいし王匡は城内の騒ぎに叩き起こされた。


「王莽が死んだのなら、ここで固く守っていても良いことはひとつもない!早く荷物をまとめて逃げろ!」


そんな声が飛び交っている。

王匡は城内の廊下を走る兵士を一人捕まえて事情を問いただした。

王莽の死、誰が降り、誰が殺されたか等の詳細な情報の記された竹簡や布が、城外から矢に括られて投げ込まれたのだと言う。

王匡は竹簡の一つに目を通すと、目眩がした。ここに書いてあることはおそらく真実だ。


――司命の孔仁こうじんは「人からろくを受けた者は、その人のために死ぬ」と言って自刎じふんした。――


王匡は孔仁と親しかった。孔仁の実直な人となりを良く知る王匡にとって、この最期は実に彼らしく、この死に方以外は想像できないと感じられた。


「もう、限界だ。今からでも遅くはない。ここで降らずば、我らはおろか屠城とじょうされてしまうぞ!」


共に城を守っていた国将の哀章あいしょうが言う。

しかし、王匡は頑として首を縦に振らない。

王匡は哀章のことを内心で軽蔑していた。次々と符命を偽作して、率先して王莽に(おもね)って今の地位を得たくせに、この後に及んで助かる気でいるのか、と。

楼台に立つと再び寄せ手が城壁を取り囲んでいる。その軍勢の後方には見たこともないほど巨大な弩が車に載せられて不気味に鎮座している。

これは墨家ぼっかの書に見える連弩車、後の時代には床子弩しょうしどとして知られる物であった。大型の弩を二軸四輪の車に載せたもので、矢の長さが人の身の丈ほどもあり、専用の巻取り機を使って十人もの兵士で弦をひく、大掛かりな兵器であった。

城壁の外には緑林の王匡がおり、馬上から呼びかけたてきた。


「今や普天の下、卒土の濱、漢に帰伏せぬところはない。貴様らはなんぞ逆賊のために城を守って、王のいくさを妨げるか!」


太師の王匡は、無言で緑林の王匡に向けて弓を引き絞り、矢を放った。

哀章はその行動に唖然としたが、降伏の目がなくなったと判断し、王匡に続いて城外に矢を放った。

緑林の王匡は頰をかすめた矢を見ると、顔を真っ赤にして、床子弩の射手に鬼頭刀を振り上げて合図した。

放たれた巨大な矢は、その羽の後ろに鎖が括りつけてある。

轟音と共に矢は城壁のかなり上の部分に突き刺さった。


――今だ!登れ!――


太師王匡が鎖をよじ登ってくる漢兵を射殺す間にも、床子弩から放たれた二本目、三本目の矢が城壁に突き刺さり、漢兵が蟻のように群がってくるのであった。

日の落ちる頃、漢兵が太子王匡と国将哀章を捕らえたとき、哀章は既に虫の息であったので緑林の王匡はこれに止めを刺した。哀章の首級を桶に入れさせると、緑林の王匡は後ろ手に縛られた新の王匡の目前に歩いてきた。


「さて、同じ名前の奴を殺すことになるとはな。反乱に身を投じた時、俺は盗賊だったが、あんたは皇帝の一族だった。それが今や賊があんたで、俺は国の元勲とはね。面白いじゃないか?」


緑林の王匡は、新の王匡の顎を持ち上げると囁きかけるように言った。新の王匡は突如笑い出した。


「ああ、面白いね。その運命の逆転を目の当たりにしながら、このあとは運命の車輪が自分にとって良い目のところで止まったままだと信じられるお前がな」


呆気に取られた緑林の王匡を見据えると新の王匡は言った。


「お前の行く末を占ってやろう。この私の姿が、お前の未来の姿だ。お前もいつか捕らえられて、無様に斬り殺される。その日になって、今日のことを思い出すがいい。もがき苦しんで死ね」


こいつを今すぐ殺せ、と血走った目で周囲の兵に言いつける緑林の王匡を見て、新の王匡は静かに目を閉じた。


――廉丹、すまぬ。――


彼の脳裏に最後に過ったのは、自分を逃がすために死んだ廉丹将軍のことだった。

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