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第二十一章 鄧曄と于匡

 鄧曄とうよう于匡うきょうは析県の人である。

町の鼻つまみ者としてつまらぬ一生を終えるに違いなかった遊蕩児、このような人間に光が当たることが乱世の数少ない美点と言えるかもしれない。

更始帝の即位直後、この2人は食い詰め者達を煽って百余の手勢を集めると王莽の打倒を叫んで行進し、析県の宰の邸宅を取り囲んだ。


「既に劉氏の皇帝が即位したんだ!王莽はもう終わりだ!天命というものを知らないのか」


二階の窓から燭台を手にした県宰は答える。


「私も漢への鞍替えの時節を窺っていたところよ。身の安全と相応しい扱いを約束してくれるなら、手勢をまとめて降ろう。幸いここは武関に近い。ともに手柄を立てて美味い汁を吸おうじゃないか」


県宰の手勢を加えて数千の勢、武関を守る朱萌しゅぼうという都尉は関を取り囲む軍勢を見るや否や関を開いて軍勢を迎え入れてしまった。


「王莽を殺したら、こんなつまらない関所でなくて、都会に務められるように取り計らってくださいな」


万事がこの調子で2人を阻むものはいない。遂に湖県を抜いて都の長安に王手をかけてしまった。



「このままではつまらぬ連中に、王莽の首を先に獲られてしまいます!


指を咥えて見ていられるおつもりか!」

肩を怒らせて御史大夫の申屠建しんとけんが進言する。

ここは宛城に仮に設けられた御前である。御簾の後ろにいる更始帝は、皆からはもちろん見えないのだが、その声は眠そうで昨日の深酒を容易に想像させる。


「そうなのか、大司馬?」


大司馬の朱鮪しゅいは答える。


「報告に誤りはありません。定国上公の王匡おうきょう様を総司令官に立て、五千の兵を授けて洛陽を攻め、同時に司直の李松りしょうとこの申屠建を武関に派遣するのがよろしいかと」


すらすらと答える大司馬朱鮪に面食らった更始帝は、好きに差配せよ、と面倒臭そうに言った。


「お加減が優れないようですね、陛下。ここに楽浪郡で広く飲まれる頭痛と胃痛に効く薬茶をもってまいりましたよ」


進み出たのは趙萌ちょうぼうという男である。

美人の妹を更始帝に輿入れさせて近頃発言力を増すようになった。

妹と同じく眉目秀麗だが、口に張り付いた愛想笑いが顔全体にある種の卑しさを描いてしまっている。

媚び諂うばかりが能の男、阿諛追従あゆついしょうの徒というのがこの仮ごしらえの宮廷での一致した見方である。

朱鮪はつきあっていられぬという風で、いそいそと退出してしまった。


 高く築かれた壇の頂上、豪奢な衣に身を包んだ老翁が胸をどんどんと叩いて金切り声を挙げている。


「天よ。貴方は臣莽に正位を授け、万人の主としてくださいました。なのに、何故速く群盗衆賊を殲滅してくれないのですか。このように四海の太平を致し給わず、臣莽にかかる艱難を受けさせるのは何故なのですか。もし臣が不徳を憎んでおられないならば、雷霆らいていをもってたちどころに逆賊を討ち払ってくだされ!」


新の帝たる王莽はこうべを壇に叩きつけて大いに哭き、ほとんど気息を絶するばかりである。

役人達が長安の街を行く見物人達に呼びかける。


「陛下のために泣いたものには褒美をとらせる。嘆きの激しい者は取り立ててやるぞ。さぁ、泣け!」


人々ははじめ笑っていたが、これが冗談ではないとわかると瞼をこすったり、砂を顔にまぶしたりして泣こうと試みはじめた。やがて、虚ろな嗚咽の声が広場を包みこんだ。

その中に1人だけ、王莽その人をじっと見つめている青年がいる。その面差しにはまだ少年の影が残っている。見つめるその目は大きく、その瞳は吸い込まれそうな黒さである。上唇の中心が少し開いており、その顔は猫を思わせた。小ざっぱりとした青い衣を纏い、腰には鍔に護剣のついた二本の細い剣を提げている。

青年の名は鄧禹とうう、字は仲華ちゅうかという。

鄧禹は齢十三にして詩経を諳んじ、秀才と謳われた。

しかし、学問を修めても新王朝には出仕せず、また反乱勢力からの誘いも断ってきた。

長安に向かう道中はどこもかしこも戦の話で持ちきりだった。

既に武関は鄧曄と于匡なる者によって陥落し、更始帝の軍勢は王匡、李松、申屠建、趙萌なる武将を送ってこの長安に迫っているという。

この内、趙萌という人物はここ数日に至るまで聞いたことがない。

王莽を仕留めたわけでもないのに、既に内部の権力構造に変化が起きているのだろうか。

鄧禹は一時は自分の邸に身を寄せていた来歙らいきゅうが、更始帝に仕官すると告げて出て行ったときのことを思い出し、その身を案じた。

来歙は劉秀らと共に蜂起するはずが発覚して捕まり、賓客の手で牢から救いだされてからは鄧禹の邸に身を寄せていた。更始帝の即位を知って、鄧禹の邸を離れ、仕官に向かったのである。

――あれは大船には違いないが、泥舟だ。やめておいた方が良い、来歙殿。――

しばらくすると、また鄧禹は眼前の老人に意識を集中した。

鄧禹は、自分の特別な才能、あるいは異能を自覚している。

自分の目には人の才を見抜く力がある。

鄧禹の真っ黒な瞳は王莽を見据える。

やがて瞼を閉じると、脳裏には朽ち果てた大樹が浮かんで、そして消えた。

かつてそこにあった豊かな才能、今は失われてしまった大きな才能を鄧禹は嘆じた。

鄧禹は踵を返すと、彼が心に決めた才の持ち主のもとへ、これから大きく枝を貼り葉を繁らせる若い樹の下へ去った。


 鄧曄と于匡は武関に迫りくる更始帝の軍勢に恐れおののいていた。


「兄弟、こいつは不味いんじゃないか?」


于匡の問に鄧曄が返す。


「古の高祖が項羽よりも先に秦の都を陥したとき、関門を閉めたために、遅れてきた項羽の怒りを買って危うく殺されかけた」


「おお!」


「と、子供のときに見た人形劇のお芝居でやっていた。本当かどうかは知らん 」


「…」


二人は降伏を選択し、翌朝に更始帝の軍が到着すると直ちに関門を開いて申屠建達を恭しく出迎えた。


「将軍方に楽をして頂こうとあらかじめ関所を陥しておきました。どうぞお通りください」


抜き身の剣をひらひらさせながら、黒い戎装に身を包んだ申屠建が笑う。


「抵抗したら即座に首をはねてやろうと思っていたのに、拍子抜けしたぞ」


李松が申屠建に耳打ちをする。顎に手を当てて思案顔になった申屠建だが、剣を鞘に収めるとこう言った。


「まことに我らのために関所を陥したというならば、この先も喜んで働いてくれるのだろうな?」


「粉骨砕身、力を尽くさせていただきます」


于匡が震える声で答えると、申屠建はニヤリと笑って言った。


「それはいい。新の九虎将軍とやらはお前らに片付けてもらうとしよう」


 王莽から反乱勢力の鎮圧を新たに任命されたのは帶惲たいうん将軍の麾下となった九人の将軍である。

彼らは皆虎をもって号となし、「九虎将軍」とよばれた。しかし、彼らの実態は例の号泣大会で取り立てられた戦の素人である。

また、王莽は六十万斤もの黄金と金帛珠玉の諸々を国庫に保持しているにも関わらず、この期に及んで軍資金を出し渋った。渡されたのはたったの四千銭。さらに、王莽は寝返りを恐れるあまり兵士達の妻子を人質に取ってしまった。

編成直後にもかかわらず士気が極限まで下がった九虎将軍の十万の軍勢は都を出立して、華陰かいん回蹊かいけいに至ると、山に沿うように陣を張った。

これを聞きつけた鄧曄と于匡は軍を二手に分けると、于匡が敵の態勢が整う前に仕掛けるために最短距離で敵の眼前に向かい、鄧曄は気取られぬように回蹊の遥か南方に位置する棗街そうがいへ進軍した。

鄧曄が死物狂いで突撃を仕掛けると、九虎将軍は果たして何の備えもしていなかった。彼らは殊更軍馬の駆け引きを調練したこともなく、士卒を下知する法をも習わず、今日を始めの戦場とするような者達であったので、瞬く間にその布陣は崩壊し、退却していった。

そして、その退却した先は于匡が万全の態勢で待ち構える棗街であった。

于匡はこの好機を逃さず、九虎将軍の軍勢を完膚なきまでに粉砕した。もっともその徹底ぶりは背後に控える更始帝軍の督戦を恐れてのことであったのだが。


 一方、涼州で兵を起こした隗囂かいごうの右腕たる王元おうげんは長安の都を取り囲む果てしなく長い城壁に沿って栗毛の悍馬を走らせている。

王元は都の北西に位置する宣平門せんぺいもんの巨大な扉の前に至ると、衝車しょうしゃを指揮して扉を破ろうと試みている周宗しゅうそうに馬上から声を掛けた。


「周将軍、出撃したときの威勢はどこへ行った!長安に攻め入る前に我々が干からびてしまうぞ」


周宗はうんざりしたという顔で応じる。


「無理だ。この扉は衝車で破れるようなヤワな代物ではない」


王元は攻め手を嘲笑うかのように鈍く光る宣平門を見て、ギョッとした。傷一つ付いていない。溜息をつく周宗の背後で衝車に取り付けられた破城鎚が砕け散った。


「主と対策を講じよう。そのまましばらくは耐えてくれ」


九虎将軍のうち六虎が逃亡し、うち二虎は自害した。残り三虎は態勢を立て直して再戦を試みたがこれも失敗した。更始帝をはじめとして各地の反乱勢力が長安を取り囲んでから一月が経とうとしている。

宮殿から最も遠いこの宣平門こそが狙い目だというのが隗囂の考えであった。

王元は隗囂の陣幕に戻ると周宗の苦境を報告した。


「私の見るところ、王莽は余計な手出しをせずにはいられない男である。今に兵が動くから、それを待って毛人もうじん達を差し向けよ」


隗囂は竹帛に筆で隷書体の文字を書き連ねながら返事をした。程邈ていばくが始皇帝に献じたという隷書三千文字の全てを記憶だけで書いていたのだが、王元にとっては隗囂の奇妙な手遊びは見慣れているので特に何をしているのか尋ねることはしなかった。

 果たして三日後に兵が動いた。王莽は城壁の防備に付けている兵が都から遠い東国の兵士達であることに疑念を抱き、全て都に近い越国の兵と交代させようと試みたのである。

急激な部隊交代に危険を感じた新の大司徒だいしと張邯ちょうかん は宣平門の視察に赴いた。特段攻勢を強めるでもない周宗の部隊を見て取越苦労だったと判断した張邯だったが、その日は門の近くの宿に供の者達と泊まることにした。

事件は丑三つ時に起きた。


「閣下!城門の内側に敵兵が!」


慌てて松明を持って駆けつけると、人かどうかもわからぬ輪郭のぼけた影が幾人か城壁の前に確認できた。それに続いて城壁を伝って降りてくる影もある。

見張りの兵は何をしていたかと言えば、その晩は新たな任地での最初の夜だからと団結を深めるために酒を酌み交わし、すっかり眠っていた。


――こいつらは本当に人間なのか?――


奇妙な影の正体が、帷子かたびらに草木をはさみこんだ人間であると張邯が気づいたときに、不意に首元に風を切る音がした。

喉元に突き立った吹き矢を左手で抑えたまま、張邯はどうとその場に倒れた。

内側から開かれた門を通って王元は“毛人”達を満足気に見廻した。

彼らは隗囂が手懐けた朧右ろううの名も無き山の民である。城壁を素手で登るほどの身軽さと器用さ、そして偽装の技術には目を瞠るほどのものがある。

始皇帝の長城建設から逃げ出した人夫が山に隠れ住む内にましらの如き毛むくじゃらの姿に成り果てて“毛人”と呼ばれたという故事にちなみ、隗囂は彼らを毛人と呼んでいる。

 宣平門の重々しく開く音は、新しい時代の幕開けを告げるものであったが、その時代とは群雄達が凌ぎを削る戦乱の世であった。

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