第十九章 公孫述
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雲がかかる程の険しい山脈を抜けると広大な盆地であり、そこには見渡す限りの実り豊かな穀倉地帯が広がっている。
南に目を移せば澄み切った水を讃える瀘沽湖が空を映し出し、そこには美しい水鳥たちが踊っている。
水鳥たちが狙うのは蝦である。湖から揚がる蝦は漁民だけでなくナシ族、モソ族といった少数民族の貴重な糧でもあった。
ここは天府之国、巴蜀の地。
後に昭烈帝劉備が季漢を建てて魏や呉と天下を争うことになるこの地に、いま一人の英雄が誕生しようとしている。
巴蜀の中心に位置する導江郡の大守である公孫述は、居館に集まったこの地の豪族達を前に息を呑んだ。
これは今までの盗賊退治とか、そういう瑣末事とは違う。しかし、皆来てくれた。
皆目がぎらついている。この中には家を焼かれた者もいるというから、無理も無いことだと思う。
赴任した当初は酷い田舎に来たものだと思っていた。
あっちを向いても緑、こっちを向いても緑、ああ一面のクソ緑!
ところが五年も過ぎた頃からこの土地に愛着が湧き始めた。
またエビか、とこぼさなくなった。
いつしか、私の美しい大地、美しい湖、などと思う様になっていたのだ。
人は変わるものである。
今、この地を脅かす“漢の将軍”に対しての怒りは居並ぶ地元の豪族たちの誰にも負けはしない。
2
公孫述、字は子陽。元は扶風茂陵の人である。
父親の公孫仁は哀帝の御代に郎となり、つづいて河南都尉を拝したのだが、その時まだ若年の公孫述も天水郡清水県の長に補せられた。
息子を心配した公孫仁は門下の掾(役人の一種)を指南役として随行させたが、掾は二週間も立たずに戻ってきた。
「若様は他人の教えを必要とする方ではありません。私が居てもすることがありませんでした」
一月も過ぎると“有能である”という評判が立ち、その才能を愛した大守が五つの県の長を兼任させた。
政を布くこと甚だ正しく、裁判も公明正大であったから、百姓は大いに治まって――郡中に鬼神あり――とまで言われ、遂に姦盗をなす者は一人もいなくなった。
その後、天鳳年間に導江郡の大守に遷されたが、そこでもその名声は轟き、隣郡の大守たちが彼の施政を真似て政を改めるほどであった。
劉秀らが挙兵してしばらくした頃、南陽の地には後追いで挙兵する者があった。南陽の宗成は自ら兵を集めて“漢の虎牙将軍”を自称し、商州の王岑もまた“漢の定漢将軍”を称して挙兵した。
この二人は兵を合わせて五から六万の軍勢となり、当地の牧主を殺すと南下して巴蜀の地に迫った。
昆陽の戦いの顛末を聞いていた公孫述は、王莽もこれまでなりと見切りをつけていたので、新政権との誼を結びたいと考えてこの二人を迎え入れた。
しかし、宗成も王岑も志を持たない野獣の如き者であった。
豊かな巴蜀の地に雪崩込んだ二人の軍勢は、道すがら財貨を奪い、百姓を虜にし、婦女子を犯し、放火をして回ったのである。
公孫述はこれを憎み、対策のために近隣の豪族や父老を居館に集めた。
3
公孫述は居並ぶ豪族たちを前にその思うところを語った。その声はやや甲高く聞き苦しいが、真摯な心がこもっていた。
「そもそも今天下の民は、貴賤となく、少長となく、新室の苛法を苦しんで劉氏の時代を懐かしんでいる。
だからこそ“漢の将軍”が至ると聞いて迎え入れたのだ。それをあの宋成とやらは踏みにじり、罪なき百姓を殺し、家宅を焼き滅ぼし、妻子を係ぎ、家財を掠めて、無用の乱をなしている。これは寇賊であって義兵ではない!私はまずこの匹夫を切り捨てて、自ら当郡を保ち、真命の英主を待とうと思う。私に力を合わせんと思う者はここに残れ。去ろうと思う者は引き留めはしない」
皆、一同に頭を叩き、
「将軍と心を一つにします!」
と、誓った。
常人であればこれに喜んですぐに宗成を討ちに行くところだが、そこは能吏の誉れ高い公孫述である。
仮に人を仕立てて、東方より来たらしめ、偽って漢の使者であると称させた。
「公孫述を補漢将軍、蜀郡の大守、兼ねて益州の牧に補叙す」
これを大いに喧伝すると速やかに用意して、千余騎の兵を率いて宋成が占領した成都へと向かった。
道すがら馳せ参じて加わる者は引きも切らず、成都に着到の日には既に五、六千の軍勢になっていた。
4
成都の街のあちこちからは煙が上がり、路には死体が転がり、家屋は無残に荒らされている。
既に主を失った県令の館の大広間には奪った財宝が山と積まれ、その奥には宋成がでんと腰をおろして酒を呑んでいる。
行け、行け、と小突かれながら女が一人大広間に連れてこられた。
女は上半身を露わにされ、腰には羊裘(蛮族の女性が履く獣皮の腰巻)を着けさせられている。
露わになった胸は貧弱だが、整った目鼻立ちで、肌も透き通るように白い。
部下が耳打ちするには県令の娘で土蔵に隠れていたのを戯れに連れてきたのだという。
良家の子女を辱めることは宗成の嗜虐心を刺激した。
――すぐに犯すのも面白くないな――
「おい、女!歌え!踊れ!」
県令の娘は目に涙を浮かべて下唇を噛んでいたが、宗成が盃を投げつけると目を瞑って歌い始めた。
「相鼠有皮 人而無儀 人而無儀 不死何為
相鼠有齒 人而無止 人而無止 不死何俟
相鼠有體 人而無禮 人而無禮 胡不速死」
――鼠をみるとそこには皮がついている、ところが人には皮があっても礼儀に欠けたものがある、人にして礼儀がなければ、死なずしてどうしようというのか――
宋成ははじめ手拍子などを打って喜んでいたが歌の意味するところを知ると酒で紅い顔をさらに赤黒くして喚き散らした。
「小娘ぇ!犯してから殺すつもりだったが、順番を逆にしてやる!」
娘は清々したという顔で、宗成の振りかぶった刃を受け入れようとしていた。
しかし、窓から投げ入れられた何かが宗成の右腕を強打し、彼は柳葉刀を取り落とした。
宗成が床を見るとそこには王岑の血まみれの首が転がっていた。
一体何で殺されたのか右頬に無数の穴が開いている。
館の入り口が騒がしくなり、取り巻きの兵たちが様子を見に出ていったが、騒音と悲鳴が交差してどんどんと大広間に近づいてくる。
へたり込んだ宗成の前に、大広間の扉を勢い良く開いて公孫述とその弟の公孫恢が現れた。
「へへへ、兄さん。上手いもんだろ。命中したぜ!」
小柄な公孫述と違って、公孫恢はやたらに大きいし、頭の先から爪先まで筋肉のような男だった。
成都の街に先陣を切って勝手に突入してしまったときは弟に怒りさえ覚えたのだが、その弟は迎撃に出てきた王岑を見つけるやいなやあっという間に自慢の狼牙棒で叩き殺してしまったのである。
勢いづいた公孫述の兵は敵兵を次々に蹴散らして成都の中心部まで呆気なく到達してしまった。
「お前がこんなに役に立つとは思っても見なかったぞ、弟よ」
公孫恢は単純に褒められたものだと解釈したのか照れくさそうにポリポリと頭を掻いている。
宗成は二人のやり取りに隙きを見出したのか、悲鳴を上げながら窓に向かって駆け出し、格子を破って逃げ出した。
公孫恢は慌てて追いかけようとしたが、公孫述は制止した。
「あんな鼠輩の賊に部下が着いていくとも思えん。首など待っていても届くだろう」
公孫述は鎧の上に身に着けていた純白の外套を外すと、しゃがみこんでいる県令の娘の肩にかけた。
宗成は程なくして逃走中に部下の垣副なる者に裏切られ、敢えない最期を遂げた。宗成の首を恐る恐る届けた垣副を公孫述は大いに賞賛し手下に加えた。すると、各地に散り散りになって逃げ惑っていた宗成の兵が次々に下ってきて遂には六万の軍勢をすっかり手中に収めるところとなった。
これより後、公孫述はこれらの兵を調練し、成都にて鋭気を蓄え、独立の時を窺うこととなる。




