第十七章 結婚
◇一◇
兄が殺された、その事実を事実として飲み込むまでに劉秀はかなりの時間を要した。
あの兄が、伯升が、殺されただと?ふてぶてしいあの顔が、自分の中で死と中々結びつかなかった。
ようやく動揺が収まると、兄の仇に対する怒りがふつふつと沸き起こった。
兄を陥れて殺した李軼と朱鮪、これを命じた更始帝を討つ。
その決意を固めた劉秀は朱祜や鄧奉を率いて父城から宛へと進んでいる。
駆ける馬の背から地を眺めると、水溜りには青空が映り込んでいた。
水溜りに自分の顔が映ったと思うと、たちまちに傍らを駆ける朱祜の姿が自分の姿に変じて話しかけてくる。
――くだらぬ敵討ちなどで命を粗末にするな。奴らを討つのはまだ先だ。――
兄が殺されたのに仇を討たぬなど考えられない。失せろ。
――朱鮪は気が早過ぎる。王莽を殺したら今度は群雄割拠の時代よ。劉伯升抜きであいつらが勝ち残れるかな?――
難しいだろうな。だからなんだというのだ。
――更始帝など赤眉あたりに任せておけば良いということさ。それよりも誰もが欲しがる中央は危険だ。うまく奴らを丸め込み遠方に逃れて兵を蓄えろ。――
「劉将軍、いや文叔!どうした!しっかりしろ!」
我に返った劉秀は途中で宿を取ることを提案し、一行は宛に向かう途中で一泊することとなった。
劉秀はもうひとりの自分が言っていたことを、頭の中でこねくりまわしていた。感情と理性がせめぎあい、ひどい頭痛にみまわれた。
劉秀は宿の窓から、冬の夜空に鮮やかに浮かぶ星々を見上げた。
私は兄の仇討ちを捨ててまで、天下を狙っているのか?
だとしたら、何のために。
劉秀は、豊や、その周りに転がっていた小作人達の死体をぼんやりと思い出した。
◇二◇
「この度は、不肖の兄が主上に楯突きましたことを深くお詫びいたします」
更始帝に謁見するやいなや地に額を擦り付けて謝罪した劉秀の姿に、慌てたのは朱鮪であった。
――恨み言を言ったらこの場で誅殺してやるつもりだったのに、こう下手に出られては殺せないではないか!――
更始帝はバツが悪いという顔をして、言った。
「朕にはこやつが心から謝っているように見える。のう、朱鮪よ。許してやっても良いのではないか?」
お飾りでも皇帝の言葉は重みを持ってしまう。結局、劉秀にはなんのお咎めもなかった。
朱祜や鄧奉は兵とともに城外に待たされていた。
「今の我々に奴らを討つほどの力はない。力をつけてまた来よう」
宿に泊まった夜、訥々(とつとつ)と語り出した劉秀に対して二人は猛烈に反対したものの、結局はその考えを受け入れる形となった。
劉秀は更始帝の前で謝罪した時、ちらと朱鮪の表情を見ていた。朱鮪は自分を殺す算段を万端に整えており、それが乱されたのであれ程狼狽したのだろう。
もうひとりの自分の意見を容れたことで虎口を脱したのだ、という実感が劉秀にはあった。
再び宿で合流した時、劉秀が謁見している間に劉嘉がやってきたのだと朱祜が言った。
「あの野郎、色々言い訳してたが要するに伯升を見殺しにしたんだ。根性まで女みたいな奴だったとは、見損なったぜ」
鄧奉は憮然として言う。御曹司も辛い立場に立たされてしまった。
劉秀は朱鮪らの追及から逃れるためには謝罪だけでは足りないと考えていた。
郷里の南陽に戻った劉秀は飲食も平素の通りに、時には諸将や近隣の者を呼んで宴を催したりと、兄の喪に服する態度を一切見せなかった。
しかし、これよりかなり後の有名な河北行の直前においても、実際のところ劉秀は兄の死を悲しんでいたことが史書に記されている。この頃には父城に残された馮異が軍に加わっていた。
馮異はある日、劉秀の枕に涙の跡があるのを見つけて劉秀に会った時にこう言った。
「心中お察しします。今は蝶が舞う前に蛹となるように、じっと耐え忍ぶ時でございます。今しばらくのご辛抱を…」
しかし、劉秀は心底何の話かわからんという顔をして馮異にとぼけてみせた。
◇三◇
劉秀が疑いを晴らすために行った最も大きな事は結婚である。
兄の喪が明けぬ内に行われた劉秀と陰麗華の婚礼はかなり盛大なものとなった。
「意図はわかっているつもりだ。でも、君の部下としての私ではなく劉伯升の友としての私が出席したくないと言っている」
朱祜はこの婚礼を欠席した。
鄧奉は陰麗華の叔父という手前もあり出席していた。いつもよりもさらに激しく飲み食いをしていたのは、喋る機会を少なくしたかったとも受けとれる。
寝所に入った劉秀と麗華は顔を向き合わせた。
はじめに口を開いたのは陰麗華の方だった。
「あなたが命を狙われているのは私もわかっています。だから、今日結婚したことに何か思惑があってもそれを悲しんだりはしません。ただ、他に何か隠されていません?」
劉秀はしばし目をつぶると言った。
「私の中にはもう一人の私がいる。私が窮地に陥った時、彼の言う事に従うと全てが上手くいった。しかし、そいつは冷酷だ。私がしたくないようなことも平気で勧めてくる。私は彼がきみに害をなす事を恐れている」
麗華は微笑むと劉秀の肩に身を寄せて囁くように言った。
「あなたが大手柄を上げて急に有名になってしまったとき、わたしは心配しました。わたしの恋する殿方はそんな勇猛な人ではない、とても優しい人なのにって。でも、そういうことだったのですね。ねえ、中の人、聞いてください。わたしはどうなっても構いませんから、私の愛する夫をこれからも助けてくださいまし」
劉秀は麗華を抱きしめた。闇夜の中に月だけが朧げに光を放っていた。




