第十五章 集う星々
◇一◇
劉秀は昆陽での勝利の後、潁陽県へ兵を進めたが、中々降らない。
しかし、丁綝という潁陽県の尉が、敵が“昆陽の劉秀”だと知ると直ちに県宰を説得して共に降った。
丁綝が武名高く周辺の事情に詳しい事から、劉秀はこれを偏将軍に任じて軍に加えた。
早速、劉秀は丁綝に対してこの地方にお前のような賢士が他にいないか、と尋ねた。
「賢士といいますか、祭弟孫ほど強烈な人物は世に稀でしょうな」
祭弟孫こと祭遵は潁陽県の官吏である。儒教を尊び質素な生活を心がけ、母が亡くなると埋葬に使う土を自ら負って孝行だと称されて、官吏に推された。その一方で激しい気性でも知られていた。県の亭長が彼の容姿を貶めて笑ったとき、祭遵は浪人を集めて襲撃するとこれを殺してしまったのだと言う。人々は“祭遵は儒者であるだけでなく、勇者でもある”と讃えた。
劉秀は兄と違い必ずしも侠客の部類が好きでは無かったので、この話を聞いても直ちに呼び寄せようとは思わなかった。
だが、程なくして県宰の館に留まる劉秀のもとに祭遵の方から仕官に訪れた。
祭遵は渋染の簡素な衣類を身に纏い、進賢冠の下には白布の蔵面を付けて完全に顔を隠していた。
いくらなんでも面会を求めておいて顔を隠すのはどうなんだ、と傍らにいた朱祜が苦言を呈した。
「私の忌々しいこの顔が、劉将軍の判断を惑わすことを恐れます」
「例え醜くとも知性はその目に宿るものだ。顔を見せてほしい」
はたして祭遵が蔵面をゆっくりと外すと――その動作にはどこか艶かしさがあった――現れたのは白皙の美少年であった。
美しい睫毛、つぶらな瞳、整った鼻、桃色の小振りな唇、透き通るような肌。
劉秀は思わず陰麗華と比較してしまったが、彼の美意識の中では祭遵に軍配が上がった。
劉秀の口がひとりでに動いていた。
「私について来てはくれまいか?(欲從我乎?)」
「ついて行きます。(願從。)」
朱祜は劉秀をつついて、ぜったい惑わされてるでしょ、と言った。
祭遵はその様子を見ると、艶やかな唇に細い人差し指を当てて微笑んでいた。
◇二◇
劉秀が祭遵を採用していた頃、宛城では宛の陥落と昆陽での戦勝の宴が催されていた。
昆陽の戦勝を報じたのは李軼であった。彼は潁陽の攻略には加わらず、故郷でもある宛に戻っていた。
李軼は宴の席で、少し厠に、と言うとそのまま宿に帰ろうとした。
李氏の館はかなり前に今は亡き甄阜に焼かれてしまっていた。
糞面白くもない酒宴だった、李軼は道端に唾を吐いた。
みんな劉伯升が岑彭を助けた徳がどうの、劉秀の軍略がどうのという話しかしない。
李軼が巨無覇を討った話を自分で言い出せるような雰囲気ではなかった。
それに、劉伯升の話を聞かされると殺された従兄弟のことをどうにも思い出してしまう。
申屠臣は確かに馬鹿だったが、小さい頃から何をするにも連れだった。
いっしょに馬鹿をやった、ということがむしろかけがえのない思い出と感じる。
もし、と路地の暗がりから不意に声をかけられた。
見ると、大司馬朱鮪の顔が暗がりに浮かんでいた。
足音に全く気づかなかった――首から下が蛇だったら似合いそうだな――と李軼は思った。
「あなたの功績を私はよく存じておりますよ。あなたのような真に賞賛されるべき方を差し置いて侠客くずれが大きな顔をしているものだから、私も酔いが覚めてしまいました」
盗賊崩れがよく言うわ、と李軼は立ち去ろうとしたが朱鮪はするすると着いてくる。
「あなたの従兄弟を殺した大司徒劉伯升は、今度はあなたを除こうとしていますよ。今日の宴席でも劉稷が奴に耳打ちしていたでしょう。
奴らは陛下や、陛下の信任厚い者達と事を構える気でいます。陛下から賜ったものを身に着けていたのが災いしましたな。今宵、あなたは彼等の標的に加えられたのです」
劉稷が劉伯升に耳打ちしていたのは確かだった。劉玄と劉伯升との仲は表面に表れている以上に悪い、というのも実感としてはある。降将の岑彭を助けたのが、自分ではなく劉伯升という扱いに世間でなっていることが気に入らないらしい。
身近にこんな人気の者がいてはいつ取って替わられるかわからない、といった恐怖もあるのだろう。
「先手必勝、これが乱世の習いでございます。私に少しばかり協力していただければ、その功績は陛下のお耳に何倍にもして届けましょう」
「……考えておく」
朱鮪の顔はするするとまた夜陰に消えていった。
◇三◇
劉秀は潁川の父城に駒を進めた。祭遵が加わって後、馮孝と呂晏という人物が新たに加わって勢いを増していた劉秀の軍だったが、ここで長く歩みを止めることになった。
劉秀は昆陽の勝利に驕らなかったが、自信はつけていた。
その自信を打ち砕くほどに父城の防御は鉄壁であった。
敵将は郡掾の馮公孫こと馮異。長の苗萌の信任を得て守備の全権を与えられている。
既に軍中にいる馮孝は彼の従兄弟である。
彼の語るところ、馮異は少年の頃より読書に親しみ『左氏春秋』や『孫子兵法』に通じ、郷土の英才として名高いのだという。
「世界は広いということか。城を降すことよりも、彼に会ってみたいというのが本音だ」
劉秀は捕虜たちから情報を聞き取って周った。
「馮異を従えるにはいかなる方法があろうか?誰ぞ彼の事について知るものはいないか?」
わざとらしいくらいに首を振っている丸顔の男がいる。中肉中背で目がくりくりとしてなにやら愛嬌のある風体だった。
一緒に聞き取りに来ていた馮孝はあっ、と声を上げるとその男にカツカツと近づいていった。
「公孫、こんなところにいるとは。閣下!この者が馮異です!」
「バレてしまっては仕方ない。捕虜の扱いを心配してこっそり城を出たら捕まってしまったのです。そう、私が馮公孫です。首をはねるなりなんなりとご自由に」
馮異はふっ、と静かに笑った。
「首をはねるなどとんでもない。まず、問いたい。私がこの城を落とせなかった理由は何だ?」
馮異は遠くを見つめるように中空の一点を見定めると言った。
「上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。その下は城を攻む。攻城の法は、已むを得ざるが為めなり。櫓、轒轀を修め、器械を具うること、三月にして後に成る。距堙又三月にして已む。将其の忿りに勝えずして、之に蟻附し、士卒三分の一を殺して、而も城抜けざるは、之れ攻むるの災いなり」
馮異は続けて言う。
「閣下の使う攻城器械は数は十分ですが、鹵獲品で兵士は使い方に慣れていない。陣地の構築も見事な速さでしたが、東南と北西の陣地に粗があります。これらを改善すれば三分の一も失うことはないでしょう」
「心得た。しかし、馮公孫よ。今の話を聞いてますますあなたを招きたいという気持ちが強まった。その智謀をもって私を支えてはくれないか」
馮異は思案顔をして答えた。
「私一人が加わったところで戦力になりますかどうか。しかしながら、城に老母がおります故、一度帰していただければ必ず御恩に報いましょう」
劉秀は諸将の反対を押し切って馮異を解放し、城に帰してしまった。
馮異は長の苗萌に降伏の利を説いた。
「いま更始帝の率いる諸将はみな壮士であって、ややもすれば横暴を働くことが多い。ただ劉将軍だけは向かう先々でも略奪を働かず、その言葉や仕草を見ても、尋常な人物ではありません。身を寄せるべき方です」
苗萌は馮異の示した策通りに数週間を耐えた。
馮異がいなくてもその策は機能した、そこが馮異の凄さであった。
この男に付いて行けば間違いない、苗萌には確信があった。
「私はこの城を守るに当たってあなたと死生を同じくすると誓った。謹んで計略に従おう」
しかし、馮異と苗萌が城中の者をまとめてくだろうとしたとき、攻囲軍はすっかり姿を消していた。
城攻めを諦めてまで南進すべき大事件が宛で起ったのである。
それは劉秀にとって信じがたい悲劇であった。




