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第十三章 昆陽の戦い 其の三

 皆が逃げる相談をしている中、劉秀は水瓶を覗き込んでいる。

水面に映る自分は、自分でも驚くほど冷ややかな顔をしている。水面に映る顔が不意に歪んだ。

その顔は口を開き、静かに語りかけてきた。


――お前にはやるべき事がわかっている。なぜそれをやらない。――


私はそんな人間ではない。私は兄のような大それた人間ではない。


――お前は兄を超えられる。お前にはその力がある。――


違う。私は、美人の妻を得て、役人になれれば満足。そういう人間だ。


――自分を偽るな!その力を振るって敵を、やがては兄をも滅ぼし、全てを手に入れろ!――


「やめろ!」


劉秀の不意の叫びに、諸将が一斉にこちらを向いた。

王鳳がむっとした顔で言う。


「やめろとはなんだ。最早落ち延びるほかあるまい」


王鳳のことばに、劉秀は自分でも気づかないうちに水面に映ったその顔になっていた。


「落ち延びたところでやがては捕まり、よくて首切り、悪くて車裂きといったところです。ただ逃げるのは愚策です」


劉秀は諸将を見渡すと、よく通る声で言った。


「ここを落ち延びては大計を失うのみならず、命を全うすることも出来ません。私に策があります」


劉秀は朱祜に目配せすると、朱祜は砂の入った袋を持ってきた。

朱祜が床に砂をまくと、劉秀は剣の鞘で状況を図示しはじめた。


「現在地、昆陽の城。城から約三里の西側には河川が流れている。我の制している周囲の主要な城は定陵ていりょうえん。敵の接近経路は陽関から直接昆陽を目指すこの経路のみ」


劉秀は諸将の反応を見つつも砂盤による説明を進める。


「我の軍勢は八千。昆陽を囲む敵の軍勢はおよそ十万。後続の実数は三十万から四十万であり、その着到はおよそ一週間後と見積もられる。敵の本陣の位置、西門の方向およそ二里(八百米)。敵は極度に密集した隊形であり、自由に動くことが出来ない。このため、敵本陣が自在に操れる部隊は多くとも二万人程度と見積もられる。また、敵は攻囲部隊であり、我が主力と離隔していることから、後方からの攻撃を警戒していない」


劉秀はひとつ咳払いをして、言った。


「作戦はこうです。本日丑の刻、私を指揮官とする精鋭十三騎が逃亡兵に偽装し、昆陽を脱出する。定陵、郾を廻って兵力を一万人集めた後、昆陽西側の河川を渡渉して敵本陣を背後から強襲。敵将の王尋おうじん王邑おうゆうを討ち取り、これを撃滅する。成国上公せいこくじょうこう王鳳おうほう殿は、防御部隊の指揮官として援軍の到着まで頑強な抵抗を実施して頂く。援軍到着後、連携して攻勢に転じます。以上、質問」


王鳳がぷるぷると震えている。


「質問?あるに決まってんだろうが!そのふざけた作戦でお前が逃げない保証はあるのか!」


「ない!信じていただく他ない」


断言する劉秀の剣幕に王鳳の震えが止まった。


「つまり、お前はこの状況から勝つつもりでいるんだな?」


鄧奉が静かに問いかけた。


「そうです。我らが生き残るには勝つ意外の方法はありません」


諸将は劉秀に見入っている。劉秀は続ける。


「逆にこの大軍勢を瓦解させたならば、王莽は倒したも同然です。自らの子弟を無駄死させられた全国の郡県は二度と召集に応じないでしょう。これにえんの陥落が加われば、反乱が頻発し、新朝の命脈は絶たれます。この昆陽の戦いは、我らの危難ではなく新朝打倒の最大の機会なのです」


王常がすっくと手をあげた。


「こんなに痺れる博打はないぜ。俺の命あんたに預けよう」


李軼も鄧奉も手を挙げて賛意を示した。次々と手が挙がる。

王鳳はついに観念したようだ。長く息を吐いてから言った。


「……わかった。わかったよ。けど、一応この中で一番偉いの俺なんだよね。わがまま言わせてほしいんだけど、他にも誰か残してくれよ」


 かくて劉秀と精鋭十三騎は丑の刻に昆陽城を脱出した。鄧奉、鄧晨、李軼、仁光、宗佻そうちょう等が十三騎の主な面々であった。


「まさか一兵も損なわず逃れられるとは」


劉秀の右隣りを馬で駆ける鄧晨が呟いた。


「そのための寡兵です。敵もあるいは見つけていたかもしれませんが、規模から狙いのない脱走兵として無視したのでしょう」


むしろこれからが大変です、劉秀はそう言って馬に鞭を打った。

 劉秀らが援軍を要請した定陵の豪族たちはこの無謀とも取れる作戦に気乗りしない様子であった。当たり前である。しかし劉秀は引き下がらなかった。


「残念なことです。ここで力を合わせてくだされば財貨など万倍も得られましたのに。一度志を同じくしたあなた方が無残にも殺されるのを泉下で待つことになろうとは」


劉秀の言を受けた定陵の豪族は怪訝な顔をして、汝はともかく我らが殺されるとはどういう事か、と問うた。


「討伐軍の首領王邑は、昆陽を滅ぼしたならば、次は返り忠した定陵や郾の番だと言っておりました。二度と不埒者が出ぬよう街は焼きつくし、田畑には塩を撒いて、男と老人は皆殺し。妻子は額にいれずみをして奴婢に売り飛ばすと。あの不快な高笑いが耳について離れません」


豪族たちは再びざわめきだした。劉秀は畳み掛ける。


「ここで拱手傍観を決め込んでも、待っているのは死だけです。どうか、我らの賭けに乗ってはくださるまいか!」


このような調子で虚実を取り混ぜた説得により、定陵や郾から総勢八千人ほどの軍勢を集めることが出来た。

十三人の将軍は劉秀の弁舌の巧みさや機転に感心しきりである。

しかしながら、移動も含めて六日ほど費やしてしまった。昆陽は持ちこたえているだろうか。

兵力が整った翌日の朝から攻撃は開始することとなった。


 昆陽の戦いが起きている最中、宛でも激戦が繰り広げられていた。

大司空劉伯升と定国上公ていこくじょうこう王匡おうきょうを将とする反乱軍あらため漢軍は激しく宛を攻め立てたが、新の岑彭しんほうはこれを堅く守って降らない。

しかし、王匡は精兵数百人とともに城壁の下から穴を掘り、ついに城内に潜入した。


「敵の援軍が来ないということは、我が弟が足止めの役目を立派に果たしている証拠。兄たる俺がその尽力に報いずにおれようか。緑林が王匡これにあり!どこからでもかかってこい!」


割れんばかりの大声で王匡は名乗りを上げる。

しかしながら、反応はなかった。

城内は静まり返っていた。城中は兵士も民もみなぐったりとうなだれ、抵抗する気力もないようだった。

なぜそうなっているのかあまり考えたくないが、やけに真新しい白骨が散見された。

――食料が尽きて久しかったのか――

やがて敵将岑彭が縛られてやってきた。極限までやせ細っていて骸のようだ。

連れてきたのは李通りつうである。


「こいつがこれ程抵抗しなかったなら、城中の人々はお互いを喰い合うような羽目にならずに済んだんだ。首を刎ねましょう」


宛出身の李通は故郷のあまりの惨状に憤懣やるかたない様子だった。


「あんたの言うとおりだな……煮るなり、焼くなり、肉醤ししびしおにするなり、好きにするがいい」


岑彭が苦しげにうめいた。肉醤とは、肉の塩辛の事である。その鋭い視線は誰かを見据えている。

王匡が振り返ると輿に乗った更始帝劉玄がいる。その傍らに劉伯升が立っていた。

伯升は言った。


「およそ力を尽くして堅く守るは臣下の鑑である。いま我が君は位に即いて間もない。もし、この義士を殺してしまったならば、誰か再び降参するものがあるだろうか」


劉玄はそれもそうだな、と言うと関心のない様子で再び輿に乗って去っていった。

岑彭は劉伯升に、この恩は必ず返します、というと空腹のため気を失った。

伯升の脳裏には、弟である劉秀のことがあった。

匈奴遠征にも大軍団を編成しようとした王莽のこと、それより容易い状況で大動員をかけぬわけがない。

上手くやれよ、と劉伯升は心中で呟いた。


 昆陽の王鳳とその“我儘”により、残された王常は精も根も尽き果てる寸前だった。

新軍による城攻めは熾烈を極めた。

雲車うんしゃと呼ばれる梯子車を並べて矢をかけること雨の如く、城中の人間は水を汲むにも戸板を背負わねばならぬ程であった。

また、城壁には破城槌を備えた衝車しょうしゃが取り付いて城壁を突き崩そうとし、城中は常に地震に見舞われているようだった。

城外からは心理的な圧迫を意識したものか大量の陣太鼓の音が鳴り響き、王匡がやったものとは比べ物にならない規模で多数の工兵部隊が城下に間道を掘ろうと試みた。

王匡が雲車に火矢を射かけて対抗し、王常は城壁から石を落として工兵を殺したが、もはや焼け石に水であった。

雲車は焼き払っても雨後の筍のように次々と伸びてくるし、工兵は把握しきれないほどあらゆる角度から穴を掘り進めてくる。


「約束を破るのは心苦しいが、足留めの役目は果たした。万に一つ助かることもあるかもしれん。降伏の使者を出そう」


王常は遂にそのように提案した。王鳳は陣太鼓の音で耳鳴りがひどく、何度か聞き返した後、これを承諾した。

降伏の使者が城外に出ると、その姿を認めた納言将軍なごんしょうぐん荘尤そうゆうは喜色を隠さなかった。


「閣下。今度こそ敵将を生け捕りに出来ますな!さあ、ひとまず降伏を受け入れて宛を目指しましょう」


しかし、荘尤が振り返ると王邑は渋面をつくってこう言った。


「いやじゃ。儂の手をこれほど焼かせおって、今更降伏など。特にあの派手な服の小僧。絶対に許さぬ」


李軼に言い負かされて自慢の武衛兵を蹴散らされたことを王邑は根に持っていたのである。

使者はその日の午後、首だけになって戻ってきた。

王常は矢の雨を避けながら無言で使者の首を埋めると、酒を供えた。

王常は王鳳と向かい合った。


「先方がこういうことなら、とことんやってやりやしょう」


王鳳の目にも怒りと精気が満ちていた。

もはや、つい昨日までの怯えきった顔はなかった。

これは自分が一度は付いて行こうと思った男の顔だ、王常は思った。


「お前と俺で緑林軍の再演だ。行こう」


王鳳と王常は堅く握手を交わすと櫓の上に駆け上った。

見渡す限りの黄色い旌旗、響き渡る陣太鼓。二人を認めた雲車から矢が浴びせかけられた。

二人はそれぞれの得物で、矢を打ち払った。

王鳳が鬼頭刀を掲げて叫んだ。


「我らは緑林の王鳳と王常なり!国を盗んだ莽賊共よ!正しい盗賊の散り様を見せてやるぜぇ!」


二人は家を壊してその瓦礫を投げ落とさせたり、敵の掘った穴に油を流し込んで火を付けたり、城を枕に討ち死にする覚悟で決死の抵抗を試みた。

運命の時は着実に近づきつつあった。

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