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第十二章 昆陽の戦い 其の二

 陽関に一行が至って数日が経っていた。

新市軍を率いていた双子のうちの一人で、更始帝のもとで成国上公に任ぜられた王鳳おうほうは暇を持て余して、戯れに物見の兵と替わるとぼんやりと何もない地平線を眺めていた。

昨日の酒宴で李軼りいつが見せびらかすように着ていたにしき戦袍せんぽう、あれはおそらく更始帝こうしていから下賜されたものであろうが、李軼はいつの間に更始帝や朱鮪しゅいに取り入ったのだろう。

はじめ劉兄弟の蜂起に深く関わっておきながら更始帝が即位した途端に鞍替えするとは。

昨日の劉秀も、奴の金の刺繍を施された錦の戦袍を見ると険しい表情になっていたが――あいつはたまに別人のように険しい表情をする。兄貴の劉伯升よりも迫力があるくらいだ――隠すつもりがないから着てきたのなら面の皮が厚すぎるし、誰もひたたれの出処を気にしないと思っていたのなら頭がどうかしている。

 そんなことを考えながら物見の塔に立っていた王鳳は急に喉がいがらっぽくなったことに気がついた。

しばし咳き込んで呼吸を整えると、肌に纏わり付く風には砂が混じっていた。

奇怪に思って再び外を見遣った王鳳は、見えた景色のあまりの変貌に口を開けたまま硬直してしまった。

 地平線の彼方を大軍が埋め尽くしていた。

剣戟けんげきは光をみがき、旌旗せいきは千里に連綿れんめんして途切れるところがない。

物見の塔から見えるだけでも二十万はいる。

この後ろにも軍勢が続いているのなら総勢はいったいどれ程の数になるのだろうか。

五十万、いや百万であってもおかしくはない。

風の中に舞う砂は、大軍が進むに連れて巻き上げた砂塵であった。


「あ、あんなのに攻められたらひとたまりもないぞ」


「おい、なんなんだよ!地の果てまで兵隊が続いてるぞ!」


 新軍の大軍勢を目にした漢軍の別働隊は上を下への大騒ぎとなった。

劉秀と朱祜しゅこ等は本来我々がここに来た目的の新軍の足止めを果たすべきであるとして、陽関に篭っての防衛戦を主張したが、一度恐慌状態に陥った軍を押し留めることは出来なかった。

王鳳が半ば脱走に近い形で新市の兵を率いて昆陽に退いてしまうと、止む終えず諸将もその後を追った。


 昆陽に到着した劉秀は水で顔を洗い砂埃を落とすと部下を労った。


「まったく今日は散々な日だったな。お前達も疲れただろう」


劉秀もまた精神的に疲れていた。このままでは足止めの任務を果たせない。

 翌日、主だった面々を集めて軍議が行われた。


「陽関を抜けた敵はわざわざ南進することはなく、宛に向かうだろう。彭越のように敵軍の背後から襲撃と離脱を繰り返して引きつけることで足止めを出来ないだろうか」


朱祜しゅこの主張に多くの者が賛同した。

彭越は楚漢戦争で漢軍の将として後方攪乱で項羽を苦しめた人物である。


「一度拾った命を無駄にすることは無いんじゃないか?このまま素通りしてくれるならそれはそれで…」


怯えた声で反対するのは、王鳳である。

街を襲うときはあんなに意気揚々と略奪を指揮していた王鳳だったが、今はすっかり臆病風に吹かれているようだ。居並ぶ諸将の顔に、王鳳への失望の色が浮かんだ。


「ふん、緑林軍の頭領ともあろうもんが、情けねえこったな」


鄧奉とうほうが腕組みをしてそう言い放つと、王鳳は押し黙ってしまった。


「宛を攻めているのは君の双子の兄だったよね。見殺しにするとは、麗しい兄弟愛だね、まったく」


李軼りいつが意地の悪い表情を浮かべて追い打ちをかける。


「目の前の財産や命を大切に思う気持ちはわかります。しかし、宛を囲む主力が敗られたなら結局はいつか捕らわれ全てを失うことになるのです。いま踏みとどまることで後にそれに倍するものを得ようではありませんか」


劉秀がこう言っても王鳳は目を合わせなかった。

そこに物見の兵が駆け込んできた。


「た、大変です。敵が、敵が!」


ただならぬ様子に諸将が城壁に上がると、砂塵を巻き上げて進軍してくる新王朝百万の軍勢が大地を埋め尽くしていた。


「なぜ、宛ではなくこっちに向かってくるんだ?」


劉秀の口にした疑問には誰も答えを持っていなかった。

ここにあるのは、百万の大軍にこのちっぽけな昆陽の城が囲まれたという事実だけである。


 王鳳が予想した数は当たらずとも遠からずであった。

洛陽を発した新朝の大軍勢は総数が百万であり、そのうちよろっている者は四十二万であった。

史上空前の大動員である。

全軍を率いる指揮官は王邑おうゆう王尋おうじんの二人。

王邑は新朝の大司空であり、王莽の信任厚く政権の第二位と目されていた。また、王莽の従弟でもある。

王尋は新朝の大司徒であり、彼も王莽の親族である。

戦に疎かった王莽おうもうは、自身が即位したときに献上された讖文しんぶんの中に自身を助ける者として名が挙がっていたという理由でこの二人を討伐軍の大将としてしまった。

二人の智囊ちのうとして荘尤そうゆう陳茂ちんもの他、六十三流派の兵法家がつけられた。

破格の編成はこれに止まらない。

全国からとらひょうさいぞうなどの猛獣を集めて軍に加えるとともに、この猛獣軍団を塁尉るいい巨無覇こぶはという巨人に率いさせた。

巨無覇は韓博かんぱくという人物が推挙した身の丈一丈(ニ米三十糎)、胴回りが十囲(百十五糎)もある巨人であった。

雲南の蓬莱山で野人も同然に暮らし、人との会話では簡単な意思表示しか出来ないが、けだものと言葉を交わすことが出来た。

巨無覇の体重は二頭立ての戦車でも支える事が出来なかった。

軍列に加わってからは、夜は太鼓を枕に眠り、食事には鉄の箸を用いた。

王莽は巨無覇を軍列に加えたが、自らのあざな巨君きょくんであることから――巨無覇という名は“巨君に覇たること無し”と読める――などと癇癪を起こし、推挙した韓博を処刑してしまった。

 荘尤と陳茂ははじめこの軍の威容に驚き感嘆したが、すぐに頭を抱えてしまった。

百万と号した大軍勢はとにかく足が遅く、先陣の二十万が陽関に着く頃でも最後尾はまだ洛陽の周辺にいるような有様であった。

王邑は思いつきで動く性格で、六十三流派の兵法家達が献策する愚にもつかない珍策・迷策にダボ沙魚はぜのように飛びついては軍をいたずらに混乱させた。

王尋おうじんは武術の心得があることもあってか自身を先陣に置きたがり、これも大軍の将帥には不向きな人物であった。

巨無覇の陣では夜中の内にいなくなる兵が後を立たず、何日かするとわずかに肉の残った骨となって発見された。

兵士達は、巨無覇が猛獣達に餌として与えているのだとか、巨無覇自身が堯舜の時代以前の人喰い巨人の生き残りなのだとか噂しあった。

 この軍は様々な不安要因を抱えている、陽関で粘られてしまったらまずい、と荘尤は思っていたが陽関に到達したときには既にそこはもぬけの殻だった。

幸運にも足止めを避けられたのだから、宛が落とされる前に速やかに到着して数で揉みつぶす他あるまい。


「陽関にいた鼠輩そはいの賊めは昆陽に篭っているそうじゃ。先に昆陽を攻めて捻り潰そうぞ」


なまずのような顔をした王邑からそのように下知された荘尤は呆気にとられてしまったが、必死に反論した。


「今、最も重要なのは宛を落とされる前に到着して敵の主力を破砕することです。昆陽の敵など捨て置いても、敵の主力を滅ぼせば逃げ散るでしょう」


王邑は細い髭を撫でながら言う。


「儂が率いているのは百万の大軍じゃ。ちっぽけな昆陽の敵を見過ごすようでは新王朝の威信に関わるでの。先に舞い、後に歌う、何とも喜ばしいことではないか」


もう一人の大将である王尋も昆陽攻めに乗り気であった。


「宛は堅固な城じゃ。昆陽の虫けらを景気づけに踏み潰してからでも間に合うであろう」


こうして、百万の大軍は昆陽の野に集結したのである。


 白馬にまたがった王邑がゆっくりと城門に向かってくる。前後左右には武衛兵と呼ばれる選りすぐりの武芸者からなる護衛が幾重にも重なって厳重に護りを固めている。

その時、錦の戦袍を身に纏った李軼とその手勢が、城門を騒々しく開いて出てきた。

李軼は周囲に――様子を見てくる――とだけ言って、諸将が止める間も無く打って出たのであった。

王邑は間延びした声で李軼に呼びかけた。


「天命を知らぬ山賊どもよ。いま漢の命運は既に尽きて、天下は新室の徳化に帰せぬものはない。汝ら何の故にか、みだりに謀反して民を騒がすぞ」


李軼はからからと打ち笑い、


「汝こそ天命を知らず、主君きみころせる莽賊をたすけて富貴ふうきを貪る小人よ。今、大漢中興の天子、世に出て国家の賊を討ちたもう!これに従う者はすなわち天のさいわいこうむり、従わざる者はきびすめぐらす間も無く天罰が下るであろう!この事をわきまえているならば、早々に旗をいて降参するがいい!」


と罵った。

王邑は怒りに顔を歪ませ拳を振り上げて、そいつを殺して舌を引き抜け、と喚くと馬を翻して陣中に引っ込んでしまった。

武衛兵が一斉に打ちかかると、李軼は奇声を上げて素早くげきを回転させ、忽ち二、三人を打ち殺した。

その鮮やかな様はさながら戦場に舞い降りた怪鳥けちょうであった。

劉秀は李軼の腕前に驚き感心したが、彼が味方に振り向くと、形容しがたい不安にかられた。返り血で顔半分を赤く染めた李軼は、どうだと言わんばかりに歯を見せて笑っている。


「おお、ただのボンボンだと思ってたけど、やるじゃんか!」


鄧奉は劉秀の不安をよそに只々感心している様子だ。

奇声を挙げて突進して行く李軼の前に新の兵が群がるものの、その矛先に近づく者は命を失い、あるいは傷を蒙って無事でいる者はいなかった。

李軼の勇猛さに引きづられる形でその手勢も勢い盛んになり、遂に新軍の先陣を切り崩すに至った。

 王邑は陣中からその様子を見ると慌てて、陣奥の隅で太鼓を枕に寝転がっていた巨無覇こぶはを激しく揺さぶった。


「何を寝ておるか、巨無覇!早く出て、一軍ひといくさせい!」


巨無覇は目をこすりながら立ち上がると、長い欠伸あくびをして重さ百斤の戟をひっさげ、鎧兜をも身につけず、獣皮の腰巻き一枚で陣幕から出た。

彼が口笛を吹くと巨大な像が一頭、味方の兵を跳ね飛ばしながら現れた。続いて、虎、豹、犀、水牛の類が二百頭ほど群れをなして集まってきた。

巨無覇は鞍をも置かず巨像に打ちまたがり、戟を振り回して雄叫びを上げた。

その声は大鐘を鳴らすがごとく、雄叫びを合図に駆け出した猛獣達とともに漢軍に踊りかかった。

その姿はなるほど人とは思われなかった。

李軼はこれをものともせず脇目も振らで戦い続けたが、彼の手勢はそうも行かない。

初めて目にする猛獣の猛り吼ゆる様に恐れ慄き、李軼を置いて後退し始めた。


「貴様らッ!戦わぬなら、俺が貴様らを殺すぞ!」


李軼は振り向いて甲高い声で喚くものの、誰も戻ってくる気配がない。

その時、李軼の乗る馬に一匹の豹が踊りかかった。

馬の喉笛を食いちぎると、豹は落馬して地面に蠢いている李軼に標的を換えて迫ってきた。

口を開けて飛びかかった豹はしかし、李軼の手前で魚の開きのような姿になって湿った音とともに地面に落ちた。

辟邪へきじゃの大剣を垂直に構えてしゃがんだ鄧奉とうほうが豹の返り血で真っ赤になっている。

劉秀は李軼の劣勢を見るや、鄧奉に精兵二百を任せて救援に当たらせたのである。


「潮時だ、李季文りきぶん殿。あのデカブツとは今度決着をつけよう」


李軼は下唇を噛んで何も答えなかった。

鄧奉は李軼を馬に乗せ、豹の死骸を左手に抱えると城中に引き返した。

 この日の戦はそこで終わってしまった。

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