第十一章 昆陽の戦い 其の一
1
更始帝の即位の後、朱鮪は諸将に与える官職を上奏した。
皇帝を立てたからにはそれを支える官僚がいなくてはならない、というのが彼の言い分である。
以下は主要な役職とその位に就いた者である。
一、国三老 名誉職であるが、名目上は皇帝に次ぐ第二位 就任者 劉良
二、定国上公 実質上の第二位 就任者 王匡
三、成国上公 実質上の第三位 就任者 王鳳
四、大司馬 軍事全般を司る官職 就任者 朱鮪
五、大司徒 後代の「丞相」、民政を司る官職 就任者 劉伯升
六、大司空 後代の「御史大夫」 就任者 陳牧
軍事を朱鮪が握ったことは、派閥争いが実力行使を伴った場合に新市・平林等の盗賊に有利に働く。
しかし、それ以外ではそれぞれの勢力に配慮した内容であったため、大きな反対も受けず、これらの叙官は承認されることとなった。
2
いよいよ反乱軍は宛の包囲に取りかかった。
新朝側の守将は岑彭である。岑彭は劉嘉に手傷を負わされながらも戦場を逃れ、今は宛を堅く守っていた。
攻城戦が長引くことを確信した劉伯升は弟である劉文叔を含む諸将に陽関での防御戦闘を命じた。
陽関は険阻な山脈で遮られた司隷と荊州の二地域を結ぶ関所である。
王莽は反乱軍を蹴散らすため大軍勢を組織して、司隷の洛陽に駐屯させているという。
荊州に位置する宛に援軍を送るならばこの陽関を越えてくる経路がもっとも早く、採用の公算が高い。
劉伯升はここで援軍を遅滞させることが作戦上重要であると思い至り、有力な諸将を多く陽関に送ることを主張した。
大戦力を割いては宛の攻略そのものが覚束ないが、洛陽から殺到した新朝の援軍と宛の岑彭に挟み撃ちにされるのもなんとしても避けたい。
故に有力な諸将の力で寡勢を補う、というのが劉伯升の作戦であった。
劉秀は朱鮪が兄の作戦に反対するのではないかと危惧していたが、朱鮪は作戦の趣旨を最もよく理解し、劉玄にこの策を採用するように働きかけて、むしろ作戦の後押しにまわった。
朱鮪は反乱の成否に関わるような場面で権力争いをしかけるような愚は犯さなかった、ならば大勢が決したそのときにこそ警戒しなければならない、と劉秀は思った。
3
陽関を確保するために出発した別働隊の主立った顔ぶれは以下のものであった。
鄧奉、朱祜、鄧晨、李軼、王鳳、王常、馬武、これらが劉秀とともに陽関を目指し出発した。
陽関を目指すためにはまず陽関を擁する潁川地方を通らなければならない。
一行は予め潁川地方の豪族や父老に贈り物を渡し、降伏の勧告、説得、懐柔を行った。
劉文叔や朱祜のへりくだった態度が功を奏したのか、それとも鄧奉や馬武の迫力が物を言ったのかは定かではないが、昆陽を無血開城させ、定陵、郾といった都市も戦いらしい戦いもなく手に入れることが出来た。
これらの都市から得られた牛馬や穀物を宛の包囲軍に送り、陽関を攻略して陣取ると、別働隊の間には王莽の大軍など何するものぞ、という高揚した気分が広がった。
陽関の関門は非常に狭く、とても大軍では通れない。
敵がいくら大勢で攻めてこようともかなりの足止めが可能と思われた。
ここに至るまでに新たな仲間も加わったのも一行の気を大きくさせている要因だった。
まず、王常の配下に任光が加わった。
反乱軍が宛を包囲して間もなく、服装が綺羅びやかであったために兵士たちがこれを奪おうと捕縛した者があった。
彼はわざとこのような目立つ格好をしていたのであって、彼を捕まえた兵士たちの上司である劉賜の前に引き出されると滔々とその志を語って反乱軍に加わり、その後に王常の部下へと配属されたのである。
次に潁陽県を通った時に、王覇なる者が浪人を引き連れて劉秀に帰参した。
「将軍が義兵を興したと聞き、私は自らの知力もはからず、密かにその威徳を慕っておりました。願わくば行伍に加えていただきたい」
行伍とは兵士の古い言い方だ。ひどく緊張した様子を見るに、かしこまった言葉選びは面接用に作ったもので、本来の彼のものではないのだろう。劉秀は笑って答えた。
「夢で賢士に出会い、共に功業を成したのだが、まさか二度あるとは思わなかったよ」
また、襄城県を訪れたとき、県の亭長である傅俊が手下を引き連れて降った。
しかし、襄城では新王朝の報復を恐れた父老が傅俊の妻子を捕らえて殺してしまった。
捕縄を腰に提げてまだ亭長の出で立ちであった傅俊であるが、復讐心も相まってその士気は古参の兵よりも高かった。
新たな仲間を得るとともに、次々と諸都市を抑えて陽関に至った劉秀ら別働隊であるが、このとき史上空前の大軍団が近づきつつあることを、誰も知る者はいなかった。




