終 章 光武大帝
1
楽浪海の南に浮かぶ大きな島には蛮族が住んでいる。この事は王莽の時代よりもずっと以前から情報としては伝わっていた。
「脅しつけたわけでもないのに向こうからやってくるのは、やはり、偏に陛下の徳によるところでしょうな」
「また、そういうお世辞を言う。私は真に受けるからな」
特進の鄧禹に、劉秀は戯れあうように返す。
楽浪海からやってきたその使者は大夫と称していた。頭髪を剃りあげて木緜で作った冠を被り、貫頭衣を着ている。肩から鮮やかな水色の布帛をかけ、胸の前で結んでいた。顔にも、そして衣から覗く手にも、渦のような紋様の刺青が施されていた。
その異様な風体に、群臣達は眉を顰め、袖を口にあててひそひそと囁き合っている。
だが、劉秀は朗らかな表情を崩さない。
「汝の刺青は、殷代の魔除けに柄がよく似ている。倭の人々は、案外近しい人種なのかもしれん」
劉秀は倭の事情について使者にあれこれと尋ねた。
使者が答えて言うには、倭は南北にいくつかの島があり、小さな都市国家とでもいうべきものが割拠している。その中でも有数の強国が使者のいる奴国である。
その王は軍略や政治に優れた指導者であり、いずれはヤマタイやトーマという敵国を滅ぼして倭を統一するのだと、使者は熱弁した。
「そうかそうか。この玉の素晴らしい細工を見ると、その気宇壮大な計画も夢ではないかもしれん」
劉秀は貢物の青い玉を目の前にかざしながら、笑顔を見せた。
「暫くは洛陽に留まって、長旅の疲れを癒やすといい。汝の王へ、金印紫綬を用意する。造るのに日を要するので、あれこれ観光するといい」
使者はきびきびと謝辞を述べ、出て行った。
慌てたのは鄧禹である。
「金印紫綬?あんな刺青まみれの蛮族に金印ですか?大盤振る舞いにも程がある!お世辞を真に受けて、気が大きくなったんですか!」
劉秀は腹を抱えて笑った。
「すっかり爺になったと思っていたが、そんなデカい声が出せたんだな、先生」
鄧禹の慌てたのには理由がある。漢帝国の印綬には決まりがあって、印章は玉、金、銀、銅とその素材によって権威付けされる。また、その印章に通す紐である綬にも多色、綟、紫、青、黒、黄というように等級が決まっている。
金印紫綬は外国の王が得られる最高の組み合わせであり、匈奴などの大国と同じ扱いであった。
「ああいうギラギラした連中は、牙を剥く前に手なづけておいた方がいい。あの奴国とやらが統一をするかはわからんが、いずれ大きな国が出来るだろう。その時になって懐柔しようとしても、手を噛まれるだけだ」
「そういう事であれば。真意を図らずに無礼を申しましたこと、お詫び申し上げます」
「まあ、半分は勢いだから、気にするな」
「えぇー…」
劉秀は鄧禹に命じて金印紫綬を作らせた。作るにあたって、紐頭、印章のつまみの意匠をどうするかが問題になった。北方の民族には駱駝、南方の民族には蛇など、使える意匠にも決まりがある。楽浪海自体は東方だが、奴国はその南の果てだということで、結局は蛇が選ばれた。
出来上がった印綬を鄧禹はしげしげと眺めた。上から見ないとわかりづらいが、蛇が蜷局を巻いた紐頭はどこか可笑しげだった。裏には透かし彫で「漢委奴国王」と刻印されている。
金印を拝領した使者は、その他にも下賜された宝物を山と積んで帰っていった。
使者の帰った日、鄧禹は夢を見た。
鄧禹が眺めていると、印綬の蛇に罅が入り、金が剥がれ落ちた。中から這い出してきたのは黄土色の蛇だ。蛇にはやがて脚が生え、立ち上がる。立ち上がった蛇はどんどん大きくなり、赤黒くなって手が生える。
いつしか漆黒の蛟龍となった蛇を見上げていると、その下顎が昆虫のように不気味に開き、鄧禹に向かって紫の焔を吐いた。そこで夢は終わった。
汗をじっとりとかいて目覚めた鄧禹は、しばらく胸を押さえて動悸が収まるのを待った。
2
夜空には十六夜の月が鮮やかに浮かんでいる。劉子麗は父の部屋から灯りが洩れているのを見て、そこへ向かった。
父は文机に向かって、文書を読んでいる。各郡国からの上奏文のようだ。
「陛下、あまり夜更けまで政務に向かわれてはお体に障ります」
「おお、子麗か。なに、父は好きでやっているのだ。疲れることなどない」
そう言いながら、劉秀は目をしばしばさせている。老齢により、視力も衰えているようだ。子麗が眺めていると、劉秀は急に咳き込み、胸をどんどんと叩いた。
「何か飲み物を持ってまいりましょう」
「すまない。頼む」
子麗は自ら蜂蜜を水で薄め、碗に入れて部屋に戻ってきた。
劉秀は、文机に突っ伏している。
寝てしまったのなら、部屋に運ばねば。そう思った子麗は、父が微かにしか呼吸をしていないことに気づいた。
直ちに典医が呼ばれ、様々な処置が施されたが、意識を回復させるのがやっとの事だった。
劉秀はまさに息も絶え絶えに、文箱と竹簡を取ってこさせると遺言の詔を書き上げた。
“私は百姓に益するところがなかった。葬式は文帝に倣って簡素なものとせよ。刺史や二千石以上の長吏は、弔問のために職務を離れたりしないように。弔辞の類も不要である”
鄧禹がその遺詔を拝領した。
一代で天下を統一した英雄の遺言としてはあまりに地味だ。だが、これが劉秀のらしさなのだと鄧禹は思った。
劉秀は子麗を近くに呼んだ。
「お前には別の遺言が……ある。天下の事で迷ったら……何度も何度も繰り返し考え……名もなき民のことを第一に……判断するように」
劉秀の呼吸が荒くなった。
皇后、いや、妻の陰麗華が駆け寄りその手を握った。
麗華は劉秀の手に、かつて自分が渡した御守が握られている事に気がついた。
劉秀は何事か口を動かしたが、周囲の者には聞き取れなかった。陰麗華のみがその意を解し、その場に泣き崩れるのであった。
3
劉秀は樹の下で目を覚ました。空は突き抜けるように蒼く、風が優しく頰を撫でた。起き上がって周囲を見渡すと、目前には粟畑がどこまでも広がっている。それは、故郷の南陽の景色に似ていた。
ふと手を見ると皺がなくなり、二十代の頃のように瑞々しかった。顎鬚もない。
不思議に思いながら、畦道を歩いていると、牛車がゆっくりとこちらへ向かってくる。
牛車は劉秀の前で停まった。藁の帽子を目深に被った御者が、劉秀に尋ねた。
「ちょいとお兄さん。人を迎えに参ったんですがね。ここらで見ませんでしたかね」
「どんな人を探しているんだい」
「一代で滅んだ王朝を建て直し、天下を統一した。世の中に平和をもたらして、下々の者を救った、そんな凄いお方で。天帝様が是非お会いしたいんだと。いやぁ、さっきからぐるぐる回ってますがね。お兄さん以外には人っ子一人いないし、困りましたわ」
劉秀は腹を抱えて笑い出した。
「何用知非僕邪?」
御者は急に藁の帽子を外し、その顔を露わにした。
「からかってすいません。これは若のことだって、若がやりとげたんだって、この豊はちゃあんと、わかっていましたとも」
笑うのを止めた劉秀は、立ち上がると先に天に召されたかつての従者を見た。そして、彼をひしと抱きしめると、静かに涙をながすのであった。
中元二年(西暦五十七年)、二月戊戌、劉秀はこの世を去った。
諡して、光武帝。廟号を世祖と成す。
光武帝の、光の字は前行を善く継ぐこと。すなわち漢王朝を復興させた事を示す。また、武の字は天下を統一し、兵乱を収めたことを現している。
類稀なる武略で天下を統一したに留まらず、滅んだ王朝の復興を掲げて成功させた人物は他にはいない。
また、天下を平定した後も功臣を誅することなく、民を慈しむ心を終生忘れなかった。
中国史上、いや世界史上でも屈指の名君であるこの男は、現代に至るまで人々の尊敬を集めている。
彼はその諡号に一字を足して、敬意を込めて、しばしばこう呼ばれる。
光武大帝、と。




