第十章 更始帝
1
名将と謳われた納言将軍の荘尤を破った反乱軍の元へ、各地から鍬や鋤を手に立ち上がった百姓たちが兵として次々に加わった。
ついに十万の兵を得た劉伯升は自らを“柱天大将軍”と号して、称号のとおり天を衝かんばかりの勢いであった。
王莽はその威名を憎んで各地に伯升の似顔絵をかけさせ、兵に矢を射掛けさせたという。
柱天大将軍を称した者は過去にも一人いて、その名を翟義という。
翟義は王莽の帝位簒奪に抵抗して、皇族を担ぎ反乱を起こした。
しかし、天は正しい行いをしたはずの彼に味方せず、敗れた翟義は磔となり、その三族は皆殺しにされて五種類の毒草とともに葬り去られた。
伯升はその行動において、この悲運の英雄を意識し、ついに彼が成し得なかった義挙を成功させようとしている。
鄧奉と朱祜は、これ程の勢力を得たのだから思いきって“皇帝”を称し王莽に対抗すべきだと建策した。
しかし、伯升は首を縦にふらない。
宛も落とさぬうちに名乗るのは時期尚早であるし、親戚である二人から推挙されてもそれが反乱軍の総意とは言い難い。
加えて、伯升にはもっと先を見据えた戦略があった。
鄧奉と朱祜が大人しくなったころ、今度は盗賊たちの方で動きがあった。
盗賊たちは川の中州に大量の土を積み上げて巨大な壇を築くと、今までに略奪して得た豪華な調度品や椅子を次々と運び込んでいるという。
鄧奉は――盗賊のやつらが遂に伯升の事を認めて皇帝に推戴しようとしている――と伯升に興奮して告げたが、伯升は眉間に皺を寄せて考えこんでしまった。
伯升の天幕の中にはそのとき劉秀の姿もあった。
劉秀もまた兄と同じく盗賊たちの行動に違和感を覚えたが、違和感の正体まではわからない。
二人の沈黙を破ったのは、不意に天幕に入ってきた呂植という豪族出身の将であった。
呂植は反乱軍旗揚げの頃に礼経に通じていることを強みとして自らを売り込んできた男であるが、最近は劉氏の幕舎には寄り付かなくなっていた。
「これから我が軍にとって非常に重要な儀式が行われます。つきましては、劉氏のお歴々は残らずご出席頂きたい」
手揉みをしながらにやにやと締りのない笑みを浮かべる呂植を見て、劉秀の不安は余計に増した。
2
高く築かれた壇の前には朱鮪が佇んでいる。
壇の両側には篝火が焚かれ、彼の長い影が伸びている。
軍中の主立った面子が集まる頃には、既に夕刻に近づきつつあった。
劉秀は彼の長い影を見て、どす黒く長大な蛇を連想していた。
「皆様にお集まりいただいたのは、天下に覇を唱えんとする我が軍に正しい主を戴こう、という趣旨でございます。我らは漢王朝の復興を旗印に掲げてここまで戦って参りました。と、いたしますれば皇帝は漢の皇統たる劉氏の中から最も相応しい方を選ばなければなりません。我々は度重なる議論の末、最良の方を選び出すに至りました。皆様、そうですよね?」
そうだ、という声と拍手が盗賊の諸将から上がった。
「ありがとうございます、ありがとうございます。只今の万雷の拍手をもって皆様の承認と判断いたします。それでは、皆様、皆様の皇帝陛下を声高らかにお呼びください」
朱鮪は両手を大きく開くと、さん、はいと音頭を取った。
「劉聖公さまー!」
盗賊の諸将は声を揃えて、劉聖公すなわち劉玄の名を呼んだ。
ゆっくりと平林の諸将の奥から劉玄が進み出た。劉玄は身体にあっていない大きな袍を着ている。
劉玄が辿々しく壇を登ると、にわか作りの玉座の影から申屠建という名の将が進み出て冕冠を捧げた。
捧げられた冠の上には漆塗りの冕板があり、前後に十二本ずつ旒がついている。
旒についた玉の色も大きさも不揃いであったものの、とりあえずそれらしいものになっていた。
皇帝の衣である赭黄の袍にはそれらしく龍のような意匠が施されていた。火でなく煙を吐くそれは、龍に似て龍ならざるもの、まやかしを見せる蜃であったが、盗んだ生地で仕立てた装束の誤りに気づく者は、盗賊達にはいなかった。
自ら冠をかぶった劉玄は、壇上から周囲を見渡すと何か口を開きかけたが、そのまま顔を紅潮させて、右手のひらを掲げた。
その時である。
鄧奉が朱鮪に駆け寄り、片手で釣り上げて虎のように吠えた。
「なんだ!この茶番はぁッ!」
朱鮪は釣り上げられたまま平然としている。
「これは鄧将軍、穏やかではありませんな。我々は漢王朝の復興を掲げるあなた方の意を最大限酌み取って、劉氏の皇帝を立てたのです。それが劉伯升殿でなかったとて、何の問題がありましょうや」
鄧奉が低い唸り声を上げて朱鮪の頭蓋を地に叩きつけようとした時、鋭い声でそれを制止し、歩み出たのは劉伯升であった。
3
劉伯升は朱鮪の提案を概ね是認した。
――劉聖公こと劉玄は血筋の上では自分よりも帝室に近いし、戦場で活躍していないのも高祖がそうであったように周囲の者が支えれば良い。盗賊からの支持だけでなく、呂植や申屠建といった豪族の諸将も賛同していることから、盗賊たちの独断という批判も当たらない。――
ここまで毒をちらつかせつつ受け入れたところで、伯升は咳払いをして本題に入る。
「しかしながら、皇帝という称号はどうか」
皇帝、すなわち天子は地上に常に一人しか存在し得ない。
伯升は続ける。
一つの勢力が皇帝を立てればその他の勢力、例えば十数万の大軍を擁する赤眉なども対抗して皇帝を立てるだろう。
そうなれば最悪の場合は王莽を葬り去る前に反乱勢力同士の潰し合いが起り、王莽にまとめて倒されてしまうこともあり得る。
「故に俺は皇帝ではなく、“王”の尊号こそ聖公殿にふさわしいと思料する」
王であれば、同時期に複数存在していても問題ない。
それはすなわち赤眉や銅馬など他の反乱勢力と協調して王莽を倒す芽を残すことを意味する。
伯升の演説の大意は以上のようなものであった。
劉伯升は場の空気を完全に呑んでしまった。
朱鮪の顔には焦りの色が浮かんでいる。
王兄弟と馬武は伯升の提案に賛同した。
王常が、王を選ぶにしても自分は劉伯升を推戴したいという旨を表明すると、張卬が剣を地に叩きつけ叫んだ。
「天の父となってもいいくらいだ!天の子の何が駄目なのか!即位の儀に二度はない!」
伯升の演説に傾きつつあった聴衆は張卬の剣幕ですっかり萎縮してしまった。
平静を取り戻した朱鮪が、一度決定したことを覆すのは我々全体の威信を損ねる事だ、と言うと再び聴衆は朱鮪になびいてしまった。
伯升はこの流れを再び覆す事は出来なかった。
かくして劉玄は皇帝に即位した。
劉玄は軍中で“更始将軍”と号していたことから“更始帝”と呼ばれた。
“更始”とは『改めて始める』という意味であるから、漢王朝を改めて始めようとする反乱軍の旗頭には相応しい呼び名ではあった。
しかし、反乱軍全体の首領を定める場で露わとなった内部対立はやがて凄惨な抗争へと繋がっていくのである。




