第百五章 来歙
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暗闇の中、人馬の息遣いだけが微かに響く。建武十年一月、再び雁門郡に集結した呉漢の軍を返り討ちにするため、劉文伯の右腕である賈覧は夜襲を仕掛けようとしていた。呉漢が雁門郡に至ると堡塁を築きはじめたため、それらの防御準備が完成する前、胡馬が超えられない高さまで塁が築かれるより先に攻撃を仕掛ける必要があったからだ。精鋭部隊を前面に置いて、構成途中の堡塁を飛び越えて夜間の内に敵を蹂躙する、これが賈覧の作戦であった。
騎兵は部隊長が手に白砂を塗って、無声指揮で動かしている。賈覧が手の平を見せると、長が呼応する。続いて長が部下達に合図をし、騎兵が一気に駆け出すと堡塁を飛び越えた。
騎兵達が堡塁を飛び越えた直後、悲鳴と怒号、夜間でもわかる程の土煙が舞い上がった。
「止め!止まれ!」
詳細はわからないがとにかく罠だと判断した賈覧は叫んだが、馬はそう簡単には止まれない。第二波も堡塁をそのまま飛び越えてしまい、同じ様な悲鳴が聞こえた。
呉漢の仕掛けた罠は、賈覧の精鋭部隊を大方飲み込んでしまった。
呉漢は堡塁を築きながら、その後ろに陥馬坑を掘っていたのである。落とし穴を掘った際に出る土を前に積んで堡塁を築き、人員で前を覆って後ろの工事を見えないように偽装する。賈覧は騎馬の機動力を減殺する堡塁を放っておくはずがなく、早期に侵攻してこの罠にはまる。呉漢の策が的中した形だった。
陥馬坑に落ちた騎兵は仕掛けられた竹槍に貫かれたり、後から落ちてきた仲間に潰されたりして、全滅していた。
呉漢は冷酷にこの惨状を見据えていた。
「目はなれたか、高午」
「とっくニ、昼のように見えていル」
精鋭部隊が消滅して堡塁の前で右往左往する残りの騎馬隊に、横合いから高午率いる烏桓突騎が襲いかかった。混乱の内に襲撃された賈覧の兵は実力を発揮できずに、次々と屠られていく。
「これで終わりだ、賈覧」
賈覧自身が烏桓突騎に囲まれたのを見て、呉漢は呟いた。
その時、鏑矢の音が闇夜を切り裂いた。
歪に曲がった剣を掲げ、獣皮の衣に身を包んだ戦士達、奇声を上げて迫り来るのは匈奴の騎兵であった。
「待ちなぁ!俺の相棒は殺させねぇよ」
「大将、なぜここに!?」
「嫌な予感がしたんで、匈奴を借りてきた!ま、空振りだったら謝ればいいだけだしな」
匈奴の中に劉文伯を見とめた呉漢は攻撃目標をこちらに変更しようとしたが、既に戦場は渾沌としていて無理な話であった。
劉文伯は賈覧を回収すると脱兎のごとく逃げ出してしまった。戦闘は呉漢の勝利に終わり、北方の諸郡のいくつかは再び漢に帰服した。しかし、劉文伯と賈覧はこの後は本拠地を置かず、遊牧騎馬民族さながらに移動しながら抵抗を続けるのである。
2
建武十年八月、隗純に味方する安定郡の高峻という群雄に漢軍は悩まされていた。一万の兵を擁して高平第一で抵抗を続ける高峻に対し、劉秀は親征を行おうとしていた。
「玉体を軽々に敵へ晒すのはおやめください。この寇恂が必ずや降して見せまする」
「ほう、では卿に任せるとしよう。しかし、天子というのもなかなか窮屈なものだな」
劉氏冠をぺしぺし叩く劉秀に恭しく一礼をすると、寇恂は高平第一に向かった。
寇恂が行ったのは和平交渉のために高峻から使者を招くことであった。
高峻よりの使者、皇甫文は言葉遣いこそ丁寧だったが、端的に言えば慇懃無礼な男であった。
寇恂は会談の途中でいきなり剣を抜くと、部下達が止めるのも聞かずにそのまま皇甫文の首をはねた。
「高峻に伝えよ。使者は無礼なので斬った。降るならすぐに降れ。嫌なら固く守れ、とな。」
そして、震え上がる皇甫文の部下へ首を押し付けて帰した。
高峻が降伏を願い出たのは、翌日の事であった。部下の一人が寇恂に尋ねた。
「どうして使者を殺してしまったのに、こうも上手くいったのですか。私にはどうにも理解できません」
「皇甫文のあの態度は全権を委任された者のそれだった。奴は方針を決定できる、高峻の智嚢だったのだ。奴には降伏の意志がなかったので、帰せば高峻は態度を硬化させてしまう。逆に奴を殺せば高峻は何をしていいかわからなくなり、降伏すると踏んだのさ」
「はぁ……私共の及ぶところではありません」
この降伏劇は、高峻との連携を頼みに抵抗を続けていた隗純の心を折った。周宗達、旧隗囂政権の重臣達に伴われた隗純は落門にて来歙に投降。公孫述のもとへ逃げ込んだ王元を除き、隗囂の独立に始まった大勢力は消滅することとなったのである。
3
海と見まごう川幅の江水には霞がかかって、その全容を掴む事は難しい。この江水を荊州に向かって進んでいくと、田戎の作り上げた巨大な浮橋がぬっと姿を現す。蛟のような浮橋のかかる河の両端には虎牙山と荊門山という二つの山が聳え、山に依拠する形で砦が作られていた。周辺の水域には川底まで打ち込まれた杭が林立し、船の侵入を阻んでいた。
実際数回の攻撃で手酷い敗北を喫していた岑彭であったが、今回は今までとは違う。
南方諸郡の水軍を味方に引き入れた岑彭は、戦闘艇と指揮船の二種類を完成させ、水兵達の練度も飛躍的に向上していた。
「楼船将軍とは、ぴったりの称号をもらったな。段志」
「わっしにはもったいないこってす」
段志将軍は南方人と漢人の混血で、浅黒い肌に分厚い唇、波打った髪が特徴的だ。越南と漢の二つの言葉を使える彼は、越南人の水兵と漢兵の橋渡しとなって水軍の強化に尽力していた。
これまでの道程は決して易しいものではなかった。移り気で離反を繰り返す越人達を繋ぎ止めるため、臧宮が機転を効かせた一幕もあった。昼間に到着した兵站部隊を深夜に城から出し、無限に補給が来ているように見せかけて越人を欺いたのである。
そうした苦労の結実した形として、この強大な水軍がある。堅固な作りの指揮船を中心に据え、戦闘艇が先鋒を受け持って進んでいく。しかし、天候が急変し俄に大粒の雨が降り、風が吹き荒れた。見る見る水嵩が増していく。
「こいつぁ……どうされますか、閣下」
「戻るのもかえって危険だ。このまま行くぞ」
岑彭が号令を降すと、戦闘艇の一隻が浮橋に向けて進んでいった。この船は前方の櫂に突起がつけられており、障害物を薙ぎ倒すことが出来る。
最初の内、首尾よく河中の杭を薙ぎ倒していった戦闘艇だが、突然の突風に見舞われた。操船の自由を失った船は杭に次々と船体を打ち付け、穴が空き、沈みながら浮橋に激突した。
「駄目か……」
「いや、よくご覧になってくだせえ」
沈みゆく船の中から飛び出したのは魯奇という名の偏将軍である。彼は次々と部下を引き上げると浮橋に火を放った。そして、浮橋の周囲の杭は奇しくも魯奇の船がぶつかった事でかなりの数が倒れていた。
「これは好機である!全速前進!」
半ば座礁するような形ながら、岑彭の水軍は着岸に成功した。両山に篭っていた田戎軍は兵を繰り出してきたが、この岑彭軍の勢いを止めることは出来なかった。
両山の砦が焼け落ち、多くの兵が斬られ、或いは投降したのだが、その中に首魁である田戎の姿はなかった。
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「王元殿、聞いておられるか」
「ん……あぁ、すまぬ。これからどうすべきか、という話であったな」
公孫述の武将である環安は蜀に降ってきた王元とともに来歙軍を迎撃したのだが、敢え無く惨敗した。
来歙軍が勢いに乗っていた事もあるが、王元に疲労の色が濃く、その働きが歴戦の勇士たる精彩を欠いていたことも大きかった。
「ともかく、このまま手ぶらで帰るわけにはいかない。私は一か八かで趙匡の忘れ形見を使ってみる事にする」
「何か兵器の類でも残っていたのか?」
「ある意味ではそうだ」
勝利した来歙は、太守の居館に設けた自室で一息ついていた。隗純を降してからも、異民族の先零羌が侵入してきたり、飢饉が発生したために食糧を配給して民衆を助けたりと、軍政両面に忙しく休む暇もなかった。
「しかし、私がやらねば、その全てが劉秀の肩にのしかかる」
来歙は言わば劉秀の分身として彼を支える覚悟が出来ていた。彼は劉秀が出した詔の一つ一つを机上に並べ、読みなおしていた。
奴隷の解放、大赦といった中に、奴隷と平民の刑罰の上での平等を謳ったものがあった。これは今年に入って二月に劉秀が出した詔だ。
「天地の性、人を貴しとなす。その奴婢を殺すは、罪を減ずるをえず、か」
人は人として生まれただけで貴い、殺したのが奴隷だからといって罪が減じられることはない、そんな内容である。
来歙自身、言わば自然に奴婢を下に見ていた。可哀想だから、或いは帰農させる必要があるから奴婢を解放するのだと考えていた。だが、劉秀はそんな一般的な考えを超越して、常人には思いもつかぬ事を考えていたのだ。
「劉秀は人が生まれながらに持つ権利、人権とでも言うものを考えているということか。劉秀の名代、私では力不足かもしれんな」
そう言いながらも、来歙は笑みを浮かべていた。兄に振り回されてばかりのおっとりした男が、今やこんな事を言い出すようになったのだ。人は変わる。世界も変わる。今は荒れ果てた世界でも、いつかは暖かな日差しに包まれた平和な世界がやってくる。そのためには、劉秀を支え、勝たせなくてはならない。力不足であっても、それが私の使命だ。
「来歙殿ぉー、祝い酒を持ってきたんだ!一緒に飲もうぜぇー!」
もはや聴き慣れた蓋延の野太い声だ。何かにつけ飲みに誘ってくる。はっきり言えば馬鹿ではあるが、可愛気のある男で、来歙は彼のことを嫌いになれなかった。
「ああ、今開ける」
来歙が扉を開けると、そこに立っていたのは蓋延ではなく、白い仮面で目元と鼻を覆った痩躯の男だった。
「お前は誰だ」
「運命さ」
男は口元を歪ませて不気味に嗤うと、右手に持っていた匕首で来歙の心臓を貫いた。
仮面の男は振り返ることなく、その場を後にした。環安の放ったもの、それはかつて新に仕え、後には趙匡に拾われた武芸者の一団、武衛兵の刺客であった。
「来歙殿ぉー、祝い酒を持ってきたんだ!一緒に、うお、来歙殿、来歙どのぉぉぉ!!!」
酒瓶の割れる音が響いた。今度こそ本物の蓋延だ。
「蓋延殿か……私は…駄目かもしれん……竹簡と筆を……」
しかし蓋延は歯をがちがち鳴らして取り乱していた。こう見えて、肝の小さい男なのだ。
「蓋延殿、しっかりしろ!刃が刺さったままでも…人を呼んで貴殿を斬らせるくらいのことは……出来るのだぞ。子供のように泣いていないで……早く筆と竹簡を持ってきてくれ」
蓋延ははっとした顔をして、醜態を晒したことを謝しながら、筆や竹簡を取りにいった。
蓋延から渡された筆を取ると、任務を果たせなかった事の謝罪、登用すべき人材、家族の事などをしたためた。
書き終えた書を読んで点検しながら、来歙は笑い出した。
「何一つ気が利いたことを書けなかった。だが、まあ、それが私だ」
来歙は書を置くと、心の蔵に突き刺さった匕首を引き抜いた。鮮血がほとばしり、来歙の視界を赤く染め上げた。
劉秀の兄、劉伯升と共に挙兵してから十年以上の歳月が過ぎて行った。来歙の旅が、今終わろうとしていた。
「文淑よ、期待に沿えず、すまない。伯升よ、待たせたな」
来歙は口に笑みを湛えたまま、血溜まりの中で息絶えた。
中郎将来歙、刺客の手にかかり、落命。劉秀は来歙に征羌侯印綬を贈り、諡して節侯と成した。
遺骸が洛陽に戻ると、皇帝たる劉秀自ら粗服を着て喪に服した。劉秀の静かな嘆きは、返って凄みを感じさせるものであった。
来歙の死によって、成の平定は、南方より進撃する征南大将軍岑彭の手に引き継がれる事となった。




