第百一章 奇襲
1
「麗華、もうそろそろ」
劉秀は陰麗華の肩に手をかけ、耳元で囁いた。母の棺に取りすがって啜りないていた陰麗華は顔を上げた。
「どうして……どうしてこんな事に」
建武九年、陰貴人こと陰麗華の母と弟が盗賊の手によって殺された。盗賊達は盗みに入ったものの家人に見つかり、陰麗華の母と弟を人質に身代金を要求した。官吏達はこの要求に応じず、家に踏み込み、結果として二人は殺された。
皇帝お膝元の洛陽で皇族が盗っ人に殺されるというこの衝撃的な事件は、治安がまだまだ回復していない当時の情勢を端的に示していると言える。
賊からの身代金の要求に応じるな、というのは劉秀が徹底していたことであり、官吏を責めるわけにもいかなかった。劉秀は事件に関わった官吏達へ逆に賞与を与えている。
劉秀はふさぎ込んだ陰麗華を慰めるために、亡くなった麗華の弟への称号追贈等に関する詔を発した。しかし、その詔は新たな波紋をもたらす事になる。
詔が発された翌日のことである。女官達は皇后である郭聖通の部屋の惨状を片付けるために大わらわであった。
「恐ろしいわねえ、まるで嵐が通り過ぎたようだわ」
「仕方ないわよ。あの詔を読んでしまったらねえ」
「あら、私まだ知らないのよ。どんな内容だったの」
「内容は普通よ。亡くなった弟さんを列侯にする、みたいな。だけど、本題以外の部分がねえ。恋文みたいだったのよ。陛下が本当に愛してるのは郭皇后ではなくて陰貴人なんだなって、よほどのニブちんでなければわかるような、そんな文だったわけ」
「“陰貴人には天下の母に相応しい麗しい徳があるが、本人が固辞したために側女に甘んじている”“詩経にこんな詩がある。--ともに恐れ、ともに懼れて苦労したのは僕と君だけ。それなのにこれから共に安んじ楽しもうという時になって、君は僕を見捨てるのか--”」
「あら、暗記している人までいるわよ。誰かしら」
女官二人が振り返ると、そこに立っていたのは髪もまとめていない、化粧もしていない、目を血走らせた郭聖通であった。
「皇后陛下……ご、ご無礼を」
「出ていって…」
「どうか、どうかお許しを」
「いいから出ていって頂戴!出て行け!」
女官二人が出ていくと、郭聖通は悲鳴とも怒号ともつかない金切り声を上げながら、片付けられた部屋を再び混沌に帰した。
建武十年三月、衛尉の銚期が病に伏した。
劉秀が見舞うと、銚期は床から上体を起こすのがやっとであった。
「いやはや、よる年波には勝てませんわい」
「合う布団がないのか。寒くはないか」
八尺二寸の長身を誇る銚期は、布団から脚がはみ出していた。
「ははは、若い頃から合う布団がなくて、今は逆に脚が出ていないと落ち着かないのですよ。それにしても……陛下、あの詔はいけませんぞ。あれでは郭皇后が嘆かれます」
「夜中に書いた文章は駄目だな。世間の反応を見て、失敗したと思ったよ」
「夜中まで書き物を……それもいけません。陛下もいつまでも若いおつもりでしょうが、もう四十なのですから。ご自愛いただかなければ。あと、お忍びでの外出も大概になされませ、それから」
劉秀は銚期の手を握った。
「君がいなくなったら、そんな風に諌めてくれる人はもう私にはいない。だから、必ず治してくれよ」
「はっはっはっ、せいぜい努力いたします」
「お取り込み中のところ失礼します!南方で大変な事態が・・・至急の報告です」
伝令兵が駆け込んできた。よほど急いできたのか、肩で息をしている。
「そういうことらしいから、すまない、銚期。もう、行くよ」
銚期は痛いくらいに劉秀の手を握り返し、ぶんぶん振ったあと離した。
「ご武運を!」
銚期が劉秀と再会することはなかった。
2
「ふん、話にならぬ雑魚だったわ。殺す価値もない」
南方の荊州は夷陵の城内において、魚鱗甲に身を包んだ田戎は、縛られて床に転がされた男を足で小突いた。
縛られているのは馮駿。岑彭の副官で、彼の留守に南方の守備を任された将軍であった。
「丸裸にして城外に捨ててこい。運がよければ生きて帰れるだろうよ」
蜀郡、公孫述が治める成の国から数万の軍勢を率いて侵攻を開始した田戎は、竹の筏で江関を下り江水と呼ばれる巨大な川を渡って夷陵に攻め入った。もともとこの地方に割拠していた田戎は、周辺の地理に通じ、水戦にも手慣れていた。結果は田戎の圧勝であった。
田戎は江水に浮橋を作って兵を置き、水道に杭を立てて水軍の侵入経路を制限した。
公孫述の作戦。それは隗純のいる天水・隴西へ援軍を送って警戒を集中させ、意表をついて遥か南方の夷陵を奇襲するというものであった。
洛陽の宮中では慌ただしく武官たちが出入りをしている。
岑彭は回廊で眉間に皺を寄せて歩く呉漢とすれ違った。呉漢は勢力を回復して侵攻の気配を見せる劉文伯に攻撃を仕掛けるために出発しようとしている。岑彭は南方に舞い戻って夷陵を奪還するように命ぜられていた。お互い忙しい。岑彭は会釈をして通り過ぎようとした。
「田戎は水戦に長けている。南蛮の水軍を味方につけねば、勝つのは難しい」
呉漢は立ち止まって、ぶっきらぼうに言った。
「劉文伯配下の賈覧、侮りがたい相手であると大樹将軍が申しておりました」
岑彭は落ち着いた語調で返した。お互い目を合わせず、進行方向を向いたままだ。
呉漢は鼻を鳴らした。
「死ぬなよ」
「貴方こそ」
通り過ぎる二人の靴音が長い宮中の回廊に響いた。




