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第九十九章 王元

 「そこをどいてくれ。郭憲かくけん


「いいえ、なりません。陛下は万乗の身でありながら、あまりにも軽々しく戦場に向かわれる。御身に何かあったら取り替えしもつきません。東方は平定されたばかりなのだから、陛下の留守をついて反乱を起こす者がおるやも知れません。こんなものはこうです!」


郭憲は劉秀の車の牽引を剣で断ち切ってしまった。

光禄勲こうろくくんの郭憲は気骨の士として知られ、文官の中でもかなりの存在感を放っている。その主張には理があるので、この事件の後、劉秀が略陽へ親征しようとしていることに対して非難の声が強まってしまった。

これを苦々しく思っていたのが馬援ばえんである。


ーーあと、ひと押しで隗囂は崩れる。それには陛下の親征がどうしても必要なのだーー


馬援は郭憲による親征取り止めの上奏が行われている場に、革袋と杖を携えて現れた。


「馬援殿、横入りとは何事か」


郭憲が上奏文を持ったまま、怒りを顕にする。


「陛下だけでなく、郭憲殿にも見てほしいことです」


馬援はおもむろに革袋から粒上のものをばらまいた。

黒い石畳の上に白く光るそれは、米だった。馬援は杖で器用に米を散らし、あるいは寄せて、あるものを作り上げた。


「これは、天水、隴西の地形図か」


「ご明察の通りです」


馬援は、略陽が人間でいえば臓器にあたるような重要拠点であること、そのため隗囂が包囲しているが背後に死角があること、隴山に行った王元が略陽の隗囂を救援するには時間を要すること、等々を地形図を巧みに用いて説明した。


「素晴らしい。既に敵地が我が掌中にあるようだ」


「実際に掌中に収めるには、陛下ご自身の親征が不可欠です。来歙殿の政治工作は実を結びつつあります。陛下が本腰を入れて攻めてきたとなれば、迷っている連中は雪崩をうって降るでしょう」


郭憲もこの説明に圧倒され、反論することが出来なかった。かくして、劉秀は数万の軍勢を引き連れて略陽へ向け進発した。途中で河西の太守である竇融とうゆうの軍勢も加わり、大軍となった。


 来歙は、空き家を解体して矢にするまでに追い詰められながらも略陽を死守していた。限界が近づきつつある中、突然潮が引くように隗囂軍が撤退を始めた。


「ついに計略が成ったか」


城壁からその光景を見た来歙は、緊張が切れてその場に座り込んだ。

隗囂は略陽を囲んでいられるような状態ではなくなったのだ。

まず、隗囂の部将である牛邯ぎゅうかんが降伏した。来歙は先に帰順した王遵おうじゅんを通じて、牛邯の引き抜きを行なっていたのだ。牛邯は数週間逡巡した。しかし、王遵が軍の監察を任されるほど厚遇されていると知り、また劉秀が親征してきたことに恐れをなして、ついに降伏を決断したのである。

牛邯は隗囂陣営の中でもかなりの大物である。牛邯の降伏を知ると、帰順を迷っていた諸大将が我も我もと降伏した。

結果として十三人の大将、十六の県、十万人の兵士が降伏する事となった。

包囲の解けた略陽に、大軍を率いて劉秀が到着した。

劉秀は来歙の労をねぎらい、盛大な宴会を催した。


「隗囂の命運はもはや尽きたと言っても過言ではない。これも全て来歙のおかげである」


来歙の席は他の将軍よりも上座に設けられ、別格であると印象づけられた。


「武勲もさることながら、戦闘と並行して計略を続けた視野の広さが最も賞賛に値する。じ後は長安に留まり、その広い視野を活かして各地で戦う将軍達を監督して貰いたい」


「身に余る光栄です」


この祝いの場に祭遵さいじゅんがいないことに気づき、来歙はそれとなく劉秀に聞いた。


「ああ、行き掛けに会ったが、まだ病が治っていないようだったので置いてきた。特注の布団を下賜して、よく休むように言っておいたよ」


「若いから、ゆっくり休めばじきに平癒するでしょう」


気遣いの方向性がなんだか母親みたいだな、とも思ったがその事は口に出さなかった。


隗恂かいしゅんはどうなされるおつもりですか」


隗恂は隗囂が人質として劉秀に送った長子である。隗囂が対立路線を鮮明にしてからも、劉秀は彼を不憫に思って処刑できずにいた。


「まったく気が進まないが……やはり斬らざるを得ない。その前に、もう一度だけ隗囂に降伏を勧めてみよう」


宴のあけた翌日、隗囂へ降伏を促す親書が送られた。


ーーもし今降伏すれば、親子は再会でき、命も助かる。高祖は、田横が来れば上手くすれば王となるし少なくとも侯にはなる、と言った。だが敢えて黥布たらんと欲するのも、また自由であるーー


隗囂はついに降らなかった。

来歙は処刑場に送られる隗恂を引き止めて、声をかけた。


「こんな事になってしまって、残念だ」


「あの父上の事だから、覚悟はしていましたよ。貴殿の気に病む事ではありません」


そうは言うものの、隗恂は隴で出会った頃よりもやつれていた。心労から食事も喉を通らなかったのだろう。ひどく痩せている。来歙は胸が詰まる思いだった。

隗恂は最後に振り返って、言った。


「優しくしてくださったお返しに、忠告します。父上の首を見るまで、決して油断めされるな」


 隗囂は次男の隗純かいじゅん、老臣の楊廣ようこうらに守られながら隴西の西城に撤退した。また、王元を蜀に派遣し、更なる援軍を公孫述に要請した。

弱体化に歯止めがかからぬ隗囂政権ではあったが、忠節を尽くす部将が全ていなくなったわけではない。戎丘じゅうきゅうなる拠点を守備していた王捷おうしょう呉漢ごかんの攻撃に良く耐え、矢玉が尽きるまで奮戦した。


「隗王に仕える者は皆死を覚悟して、二心はないのだ。証明してやる!」


城壁に立った王捷は自刎して果てた。

ともあれ戎丘の陥落により、隗囂の拠点は上邦じょうほう西城せいじょうのたった二つになった。攻略が進んでいると判断した劉秀は、竇融を列侯に封じて国に帰す等、軍勢の整理を行なった。

そんな折、東方の頴川えいせんで反乱がおこり、親征軍の動きは止まってしまった。

劉秀は寇恂こうじゅんを召して対策を講じた。劉秀は苦笑する。


「結局は郭憲の言った通りになってしまったな」


「二兎は追うことが出来ず、仕方のないことです。頴川の人々は軽はずみで争いを好みます。狡猾な何者かが、陛下が遠征先で戦死したという噂を流したために、それを信じて愚挙に及んだようです」


「隗囂にそんな余裕はないな。となれば、公孫述の仕業か」


「いずれにせよ、そういう背景を鑑みれば、陛下が顔を見せれば一瞬で治まると言えます」


「戻らざるを得ないわけだな」


劉秀は呉漢、岑彭しんほうといった残る部下達に指示を出し、自身は寇恂とともに帰還する事にした。

劉秀はまず岑彭に書状を渡した。


ーー残る二城を平らげたら、軍を再編し、南進して蜀を討て。しかし、人は満ち足りる事を知らずに苦しむものなのだな。今、隴を得たばかりだというのに、次には蜀を望むとは。戦を始める度に、髪や髭が白くなるよーー


この書状が「隴を得て蜀を望む」所謂「望蜀」の出典である。後世、欲望に限りがない事を戒める諺となった。

また呉漢に対しても書状を送った。


ーー近隣の郡から集めた兵士は、隣人を討つようなもので士気も低く、戦闘が長引けばいたずらに糧食を消費するだけとなる。今の内に帰した方が良いーー


しかし、呉漢は郡兵を帰さずその数に任せて堤防を築くように命じた。水攻めを行おうというのだ。


「大司馬よ、陛下の詔に反して作戦を行うのは問題ではないか?それに、土地に爪痕を残すような作戦は民衆を苦しめるだけだ。隗囂の同類に堕してもいいのですか」


非難の目を向ける岑彭に、呉漢は一歩も引かない。


「民も含めて、降伏しない奴が悪い。隗囂はここで仕留めねば必ず息を吹き返す。ここで詔に反してでも決着をつけるのが、陛下のために最善である」


呉漢のその三白眼に私心がない事を見て、岑彭は渋々従った。

堤防を決壊させると、その水は激流となって西城に注ぎ込んだ。しかし、成功だと思ったのもつかの間、地下水脈がこの衝撃によって崩壊し、数丈に渡って城壁の周りに噴水のように飛び出してしまった。これでは容易には城壁に近づけない。呉漢達はやり過ぎてしまったのだ。

仕方なく取り敢えずは城壁の周囲を遠巻きに包囲し、地下水の噴出が止まるのを待って攻撃を再開することとなった。水は一向に止まらず、時間だけが浪費されていった。

この状況を高台から密かに眺めているものがいた。


「作戦の失敗に士気は落ち込んでいる。付け入るなら今だ」


王元は不敵な笑みを浮かべた。


「しかし、兵力差が大き過ぎる。我らの十倍はいるぞ」


行巡こうじゅんが不安を口にする。蜀から得た援軍は五千、呉漢と岑彭の軍は五万である。


「敵は城を遠巻きに囲んで、陣形を容易には動かせない。一点突破すれば同数の敵を相手取るのと同じだ」


「しかし、それ程上手く出来るものか」


行巡と同じく周宗しゅうそうも目を泳がせている。


「出来る出来ないじゃない!やるんだよ!」


王元は大斧だいふの柄で地面を衝き、二人を怒鳴りつけた。

周宗と行巡は金鼓きんこを打ち鳴らし、声の大きい兵士に大声で喚かせた。


「大軍だぁー!蜀から百万の大軍が来たぞぉー!」


呉漢はその声を聞くと、忌々しげに言った。


「ふん、蜀一郡にそんなに兵がいるものか。そんな与太を信じる者は我が軍には……お前らぁ!何をやっている!」


近隣から徴兵した郡兵達が右往左往して、逃げ出そうとしている。その動揺が他の兵にも伝わり大混乱となった。王元は五千の歩騎とともに、崖を駆け下りた。


「隗王の他に王はなし!」


逃げ惑う兵士を大斧で薙ぎ倒しながら、噴出する水を掻き分けて王元は突き進んでいく。大斧をかざして合図をすると、騎兵が散開し、車に積んだ破城槌が飛び出した。

西城の太守の居館において、隗囂は目をつむり胡座を組んでいた。轟音が鳴り響き、しばらくすると水の滴る音が聞こえた。


「お迎えに上がりましたよ」


「遅かったな。待ちくたびれて寝てしまったぞ」


隗囂が目を開くと、ずぶ濡れになった王元が立っていた。なんだか、迷子の飼い犬が戻ってきたみたいだな、と隗囂は思った。

王元と隗囂は脱出に成功し、天水郡と隴西郡の中間に位置する冀県きけんに逃げこむことに成功した。

呉漢と岑彭は逃げる隗囂を追う途中で糧食が尽きて撤退せざるを得ず、上邦を囲んでいた耿弇こうえん蓋延がいえんも単独での作戦遂行は不可能であるとして撤退した。

隗囂はこの機を逃さず、大勝利を収めたかのように言葉巧みに喧伝し、天水郡と隴西郡の豪族は再び隗囂の支配下に服してしまった。

隗囂との戦いは、再び振り出しに戻ってしまった、かのように見えた。

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