第八章 黄淳水の戦い
1
三日ほど後、王常は張卬、成丹らと共に五千の兵を率いて棘陽に入城した。
張卬は王兄弟のことを警戒している様子だったが、李通が王常を説く手伝いをしてくれたと話を盛って伝えていたので、嫌味を言われる程度で済んだようだ。
王常は王兄弟にまみえると深々と礼をした。王兄弟はその雰囲気に飲まれて何も言わずに自室に戻ってしまった。
その晩、城内では軍議が行われた。
小長安で反乱軍の妻子を虐殺した敵は東に沘水、西に黄淳水と、二つの川の間に布陣している格好となっている。
更に北の藍郷には輜重が渦高く積まれている。
「敵の奇っ怪な布陣ですが、どうやら韓信の背水の陣をやるつもりのようです。背後の橋を焼いた、との情報が斥候からもたらされました」
朱鮪の発言に対し、豪族たちからはおお、というどよめきがあったが盗賊たちには別のどよめきが起こっていた。
盗賊達の殆どは学問と無縁で、朱鮪の喩え話がわからないのである。
事態を察した王兄弟が―みんなにわかるように言え―と言うと、朱鮪は咳払いをして言う。
「川を背にして戦った昔の将軍にならってその真似をしているのです。負けても逃げないという意志を明確にするために、川を背にして、橋まで焼いたのです」
伯升は黙って聞いていたが、やがてこう言った。
「韓信を真似るにしても、中途半端な策だな。逃げないという気概を示すならば藍郷の輜重は邪魔だ。俺ならば焼き払う」
王常も違えねえ、と語を継いだ。
「橋を焼いたところで、兵士は藍郷の輜重をたよっているだろうよ。逆に言えば、ここの輜重を奪えばみんな浮足立つぜ。橋はねえ、食料もねえ、これからどうすんだってな」
となれば、藍郷の輜重を奪うことが作戦の焦点といえる。
さて、誰が行くか。
白羽の矢が立ったのは劉秀であった。
王常がはじめ、この大任は劉氏の方にやってもらいたいと言い、王兄弟がそれならばぜひ文叔将軍にやってほしいと推薦されたのであった。
王常が攻め手は劉氏と提案したのは、輜重を前に略奪に奔走しすぎて作戦を失敗する可能性がないからだろう。
藍郷の攻め手が決まった後、議題は本営の攻め方へと移った。
敵の本営は沘水側に梁丘賜、黄淳水側に甄阜が位置していて、その陣はかなりはなれているらしい。
王常は梁丘賜は下江の兵のみで攻める、と提案した。
相手はしょせん副将、よしんば自分が討ち死にしたとしても、その他の将が全力をもって甄阜を討ち取れば反乱軍は勝利できる、というのが言い分であった。
劉伯升は王常の心意気に感じ入った様子でその提案を飲んだ。
こうして軍議が決すると、伯升は酒宴を催して諸将や兵を大いに労い、三日間の休暇を命じた。
英気を養った反乱軍は決戦に臨む。
地皇四年(西暦二十三年)一月のことであった。
2
深夜、馬上の劉秀は傍らを走る新しい部下に作戦の再徹底を行っていた。
臧宮、字は君翁。
王常から、自分の部下にしては毛並みが良いので使ってやってくれ、と譲られた形となる。
元は亭長をしていたので元役人、たしかに毛並みが良いと言えなくもないが、亭長は犯罪者を直接取り締まる所謂“不浄役人”である。
臧宮の雰囲気は役人というよりはやくざ者に近い。
血気に逸ってしまいそうな恐ろしげな顔のこの部下に徹底している作戦の要点は二つである。
決して火を使わずに速やかに制圧すること、皆殺しにはせず何人かは逃がすこと。
寡黙な臧宮は短く応答するが、認識の統一は図れたようだ。
敵に気取られないように大幅な迂回をしてきた劉秀一行だったが、ついに藍郷にたどり着いた。
臧宮は馬を木陰に隠すと徒歩で野営地へ向かっていく。
居眠りをしていた見張りの敵兵の首を背後から忍び寄った臧宮が掻き切る。
無論、合図に火は使えない。
臧宮が白い布を振って合図すると、劉秀が荘園で育てた忠誠心に厚い小隊が侵入していった。
あちこちで短い悲鳴が上がる。
劉秀は耳をすませていたが、悲鳴の中に聞き慣れた声はない。
一方的な展開、首尾は上々である。
落ち着きのある臧宮の仕事ぶりに、劉秀は安心した。
王常の与えてくれた部下に敢えて大役を任せたのは、彼自身への信頼よりも王常への信頼が理由として大きかったが、臧宮は大役を全うしてくれた。
後方部隊というものはとかく練度の低い若兵や練度の衰えた老兵が回されがちであるが、この藍郷を守備する兵もその例にもれなかった。
劉秀は逃げ散っていく敵兵を眺めて、兵站を重要視するならば自分は後方の兵も鍛えねばなるまい、と今後の教訓を得ていた。
――さて、王常殿はそろそろ動き始める頃だろう。上手くやってくれると思うが。――
3
夜陰に紛れて音もなく沘水の岸辺に近づいている小舟、これらは四隻ずつにわけられていた。
四隻の内、二隻には火矢を準備した弓兵、あとの二隻には胴鎧と剣だけを身につけた軽装歩兵が満載されている。
成丹の合図で火矢が放たれると、張卬率いる軽装歩兵が全力疾走で野営地に肉薄する。
火を放たれた天幕が燃え上がり、異変に気づいた敵兵が飛び出すと、その眼前には軽装歩兵が既にいた。
混戦の中、屬正の梁丘賜はなんとか統制を取り戻そうと馬上から怒声を飛ばしていた。
「持ち場を離れるなッ!敵は少勢だぞ、狼狽えるでないッ!」
だが、その時、追い打ちをかけるような急報がもたらされた。
藍郷の後方陣地が強襲され、既に輜重を全て奪われたという。
指揮官自身の動揺は兵卒の混乱に拍車をかけた。
敵兵の混乱を王常は冷静に確認した。
「弟くんは上手くやったみてえじゃねえの!野郎ども、伯升一家に加わって初の戦だ!下手打つんじゃねえぞ!」
王常の檄におうッ!と威勢よく返したのは彼の賓客で構成された一団で、下江の兵の最精鋭だった。
朝食の時間までに梁丘賜の陣は潰えた、と史書にある。
成丹は潰走する敵兵の中に大冠を被った武人がいるのを認めた。
梁丘賜だ。
王常と成丹は弓を射かけながら、その一団を追う。
梁丘賜は部下の騎馬を盾のように器用に使いながら逃げたが、盾にされたほうは一騎、また一騎と射殺されていく。
最後の一騎になったとき、梁丘賜は急に馬首を返すと続けざまに矢を放った。
一本は王常の馬に、一本は成丹の肩に深々と刺さった。
王常もほぼ同時に梁丘賜の馬の脚を射抜いた。
王常も梁丘賜も落馬したがすぐに立ち上がる。
ここからは下馬しての戦いだ。
梁丘賜は弓を引き絞るが、王常は弓を放り捨ててしまった。
梁丘賜が放った矢は王常の頬をかすめて外れた。
王常は平静な顔でひたひたと梁丘賜に近づいていく。
梁丘賜は再び矢を放ったが、当たらない。
慌てて傍らに落ちていた戟に梁丘賜が駆け寄ったとき、王常は跳ねるように急激に距離を詰めていた。
梁丘賜は自身の胸に突きたった王常の匕首を凝視して、言った。
「貴様らのような蛆虫どもにこの俺が……こんなはずでは…」
「こんなはずでは、ね。有り金すっちまったやつはみんな言うもんさね。人生も博打みたいなもんよ。生まれ変わっても、懲りずにまた賭けてくんな」
王常が匕首を引き抜くと、既に梁丘賜は事切れていた。
4
蝙蝠の剣格が独特な剣を握りしめているのは、舂陵候宗家の劉嘉である。
この蝙蝠を可愛いと言っていた妻はもういない。
小長安での敗戦の後、鄧晨の家族や劉仲の遺体が発見されてからしばらく経って、劉嘉の妻の遺体も発見された。
劉嘉の妻は、親友である来歙の妹でもあった。
来歙が一度捕まったものの賓客の手で救い出された、との報に接したのは奇しくも妻の遺体と対面したのと同じ日であった。
妻の死を来歙に告げる前にこの戦いで雪辱を果たしたい。
劉嘉と同じ表情のものがこの軍には多くいた。
一族の復仇に燃える鄧奉や李軼といった諸将はもちろん、兵卒達も家族を失ったものの士気は最高潮まで高まっていた。
沘水側から火の手が上がるのを見届けて、劉伯升は全軍を上陸させた。
歩兵達は当初は兵力差もあってか一進一退の攻防を繰り返していたが、やがて輜重の失陥や梁丘賜の戦死が伝わると、敵陣には武器を捨てて隊列から逃走する者が現れた。
そこに間髪入れずに切り込んでいったのが鄧奉である。
鄧奉は大剣を軽々と振り回して、一度に敵兵の首を二個、三個と落としていく。
李軼がその後に奇声を上げて飛び込んでいった。
こちらも戟を振るうたびに敵兵を打ち倒していく。
伯升は李軼の武勇に関しては意外の感に打たれたが、二人が切り裂いた敵陣に騎兵の全てを投入した。
「あの血路をくぐり抜けた後、後方から敵を巻いていけ」
劉稷は――御意――とだけ答えると、騎馬隊を率いて駆け出した。
甄阜は歯ぎしりをしながらこの光景を見ていた。
今となってはあらゆる策が手遅れだ。
岑彭は撤退をして再起を図るべきだ、と説いたが甄阜の矜持はその策を許さなかった。
陣幕を引き裂いて、剣がきらめいた。
その剣格には蝙蝠の意匠が光っている。
「私は舂陵候家の劉孝孫。前隊大夫よ、その首、妻の墓前に捧げてくれる!」
劉嘉が甄阜に向けて剣を構えると、その間に割って入る者がいる。それは、金瓜錘を握った岑彭であった。。
仁王立ちした岑彭が目配せすると、甄阜はよろよろと逃げ出した。
――兵力は圧倒的だった。恐怖によって我が兵は精兵となっていた――
――我には敗ける要素などなかったはずなのに――
歩兵の背後を劉稷率いる騎馬隊が襲うと、恐慌状態に陥った新軍の兵士達は次々と両側の川へ飛び込んで逃走を図った。
みぞれが浮かぶ冬の川である。
最初に飛び込んだ者たちがあまりの水の冷たさに心臓を押さえて沈んでいくと、その死体に脚をとられる形で次の一群が水死し、ついで川岸に殺到した者達は飛び込むのを躊躇したために後ろに押されて圧死していった。
宛に戻って再起を図る、先程退けたばかりの部下の進言に従うのはいかにも癪だが、それしかあるまい。
宛にはまだ予備兵力がある。
堅く守って長安からの援軍を待てば、あるいは。甄阜は冷静さを取り戻しつつあった。戟を握る手にも力が蘇る。
はずだった。
甄阜の右腕は戟を握ったまま切り離されていた。
「お前は豪族の旦那連中に討たせたかったが。見つけた以上は、見逃すわけにもゆくまい」
非常に穂先の長い槍、大身槍を握って馬上にあるのは新市軍の武将、馬子張こと馬武であった。
馬武が大身槍を更に一閃すると、甄阜の首はコロコロと地面に転がった。
馬武を見上げたその首は驚愕の表情で硬直しており、これは馬武の与り知らぬことではあるが、いつも顰め面の甄阜らしからぬ、どこか間の抜けた顔だった。
祭りで見た喜劇の面みたいだな、と馬武は思った。
黄淳水の戦いは、反乱軍の完全なる勝利で終わった。
5
鄧晨は自分を睨みつける九つくらいの少年を悲しげに見つめていた。
少年は後ろ手に縛られている。
少年の名は甄汎。
甄阜の息子である。
少年は父親の姿を戦場で探し、甄阜が討たれた様子を見てしまった。
父上の仇とばかりに馬武に飛びかかったものの、あっさりと捕らえられて鄧晨に引き渡されたのである。
鄧晨は剣を抜くとゆっくりと甄汎の背後に立った。
「斬らば斬れ!父上のもとに行くんだ。怖くなんかないぞ」
内容とは対照的に少年の声は震えていた。
鄧晨が剣を振り下ろした。
結び目を断ち切られた少年の縄は解けた。
少年が目を見開いて振りむくと、鄧晨は静かに言った。
「君の父上とその仲間は私の妻と娘達を殺した。私と私の仲間は君の父上を殺した。もう、たくさんだ。戦いはまだ続くんだろう……でもね、君とのことだけでもここで終わりにしたいんだ」
鄧晨が抱きしめると少年は哭いた。やがて鄧晨の目にも涙が溢れてきた。
天下が定まって後、鄧晨が死去すると、光武帝は遥か以前に亡くなった鄧晨の妻劉元と鄧晨とを合葬という形で葬るように触れを出した。
この特異な葬儀を取り仕切ったのは、鄧晨の息子、鄧汎であったと史書には記されている。




