第六話 朝
教皇庁にまだ移らないグレゴリウスの
朝の風景。
僧院では馬を飼っていますが、そのうちの一頭が少し神経質な性格のようで…。
その日の朝、グレゴリウスは
僧院で飼っている馬に
えさをやっていた。
飼育係の者が体調を崩して寝込んでいたため、10歳の頃に馬の世話を担当したことがある彼が手伝いを希望したのだ。
もっと位の低い者にやらせればいいのに、と思う人もいたが
就任したての教皇に反対して
いきなり印象を悪くするのも嫌だから、反対意見を言う人はいなかった。
グレゴリウスは察しが良い性格だったので、そのことにもすぐ気がついた。
…こうやって権力者は孤立して行くのかもしれないな…。
そう思った。
「お早うレンガ、お早うタール…」
レンガもタールも馬の名前だ。
茶色いメス馬と黒いオス馬である。
「朝ごはんの時間だ。
お腹がすいているかい?」
いつもはえさのバケツを持った係が見えると、「ヒーン!」などと大声を出してご飯を催促する若いタールだが、
グレゴリウスの品の良い雰囲気に、どことなく高貴なものを感じたのか
今朝はおとなしく待っている。
タールよりだいぶ年上のレンガ姉さんは、いつも通りの態度だ。
それもそのはず、レンガはグレゴリウスのことを前から知っている。
彼がここの僧院に越してきた五年前には、全部で五頭の馬がいて
レンガはそのうちの一頭だった。
その後、ほかの四頭はよその僧院に譲られて行き
しばらくここの馬小屋にはレンガだけになっていたが、
このたびグレゴリウスが、とつぜん教皇に選ばれたので
馬車に乗る必要が出るだろうということで、買い物係が
急いで街まで行って買ってきたのがタールだ。
一頭だけ売れ残って、馬商人にさんざん連れ回されてシュンとしていたタールを見て、同情し
安く買ったのだった。
それはよかったが、つれて帰ってみればなかなか精神が不安定な馬で
毎日大声で鳴くし、
誰かがレンガに乗って出かけようと
彼女だけを馬小屋から出すと
置いて行かれたのかと思って、
おれも連れていってくれよー!と必死に暴れる。
二頭とも連れて出かけようとしても、レンガを先に馬小屋から出そうとすると、その途端にパニックを起こして暴れ、手に負えない。
ところが彼を先に馬小屋から出そうとすれば、今度は
自分だけが捨てられるのかと思い込んで、必死にとどまろうとするから
いくら引っ張っても動かない。
とてもじゃないがこれでは馬車など引かせられないというわけで、せっかく買ったのに
まだ彼が仕事をしたことは一度もなかった。
さて
馬たちにえさをやり、ブラシをかけ
フンの掃除をするとグレゴリウスは
馬小屋から出て、あたりを見回した。
…このへんには、よくネコがいる…。
はたして白っぽい体に黒いぶちのネコの親子が現れた。
顔見知りのネコたちだ。
かわいらしいネコたちを見て
彼は思わず微笑んだ。
「おはよう、ネコさんがた。
いつも見回りご苦労さん」
彼が話しかけると
親ネコはニャッと短い返事をした。
僧院にはネコが嫌いだという者も多かったが、グレゴリウスはそうではなかった。
ネコのほうもそのことをわかっていて、彼が近付いた時は逃げようとしない。
ネコを見送り、グレゴリウスが庭を正門へ向かって歩いていると
朝の掃除当番の者が、彼を見つけて声をかけた。
「グレゴリウス様、おはようございます」
「おはようございます」
「今日はタールが鳴きませんね。
病気ですか?」
グレゴリウスは苦笑した。
静かにしていれば病気かと言われる馬とは。いやはや。
「いいえ、体調は良さそうでしたよ。
今朝はえさの時間に知らない人が来たので、びっくりして
思わず鳴くのをやめたのかもしれませんね」
グレゴリウスには、タールが自分に敬意を表したから行儀良くしていたということが、馬の表情からわかっていた。
でも、それを言ってしまえば
飼育係がふだん上手にしつけていないという意味にとられかねない。
グレゴリウスには、まわりの者が無駄に叱られたり名誉を損なうようなことは言わない習慣が子どもの頃から身についていたので、
何も考えなくても反射的に
こういう返事をしてしまうのだった。
「おや、遠くに馬車が見えますね」
グレゴリウスは街と僧院をつなぐ道を眺めた。
この僧院は丘の上にあり、
下に広がる草原やその向こうにある
街の様子までよく見える。
「グレゴリウス様は遠くがよく見えて羨ましいですなあ」
「あ、馬車はこちらに向かってくるようです。
十台ばかりつながっていますね…。
かなりおおぜいの集団です」
「おお、それはきっとあなたに
お祝いのご挨拶に来た客でしょう」
「わたしもそう思います。
それでは、あなたから
今すぐ応接係に伝言してください。
下の道を馬車が十台ほどこちらに向かっている、と」
「わかりました」
グレゴリウスは部屋に戻り、応対用の衣服に着替えた。
いつも着ているものとほとんど同じだが、少し豪華で、
襟や袖口や裾に細かい刺繍がほどこされている。
…このような、ほんの少しの装飾で
ずっと立派に見えるのだから不思議なものだ…。
彼は裾を整えると、壁に軽く手をついてゆっくり目を閉じた。
…攻めよ、機を逸するな…。
心の中でつぶやいた。