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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ジェンガ

作者: まさみ

太一は生まれつき心臓の畸形だった。

生後九ヶ月の時余命はもって十歳までと診断され、父さんと母さんは悔いないよう残り七十年分愛することにした。


「兄貴んちって品揃え悪いよな、ゲームの」

「ゲームなら家でやれよ、俺んとこに寄らず。勉強の邪魔」

「いいじゃん別に、電車で三駅なんだから遊びにきたって。つか大学とそんな距離変わんねーしうちから通えばいいじゃん。わざわざ一人暮らしとかわけわかんね、金もったいねー。やっぱさ、あれ?親元を離れ自由を満喫したいとか支配からの逃走気取っちゃってんの?」

「尾崎か。古い」

「家でゲームやってっとババアがうるさいんだよ、心臓に悪いからってシューティングやホラーやらしてくんねえしさ。俺ができるのぷよぷよとかテトリスとか落ちゲーだけ。あと太鼓の達人?」

「音ゲーも十分体に悪い。めちゃくちゃスタミナ使うぞあれ」

そんな太一は十六歳になった。

高校一年生だ。

どうやら反抗期とやらに突入した模様で、俺のアパートにたびたび入り浸ってる。

両親の過保護ぶりにうんざりして逃げてきた先では放任される。

かえってこっちのが居心地いいみたいで、へたくそな鼻歌まじりにゲームソフトをあさってはとっ散らかす姿は実に伸び伸びしてる。

テレビの前に胡坐をかいてゲームソフトを漁っていたが結局お気に召すのがなかったらしく、テーブルでレポート執筆中の俺んところに這いよってくる。

「せっかく弟が遊びにきたんだから、むずかしー本読んでねえで対戦しようぜ」

「レポートの締め切りが近いんだよ」

太一はわがままで気分屋だ。

過保護に育てられたせいで堪え性がない。

ごねる太一を無視し、フローリングにじかに置いたテーブルに向かい、分厚い専門書をぱらぱらめくってノーパソのキーを叩く。

太一とは四歳離れてる。

俺は今大学生で、心理学部に籍を置いてる。

大学生は暇じゃない。少なくとも用もないのにだらだらずるずる一人暮らしの兄のアパートに入り浸って、ゲームや漫画に現を抜かす暇人の弟をかまうほどには。

参考書から顔も上げずレポートの下書きを続行すれば、ご不満そうに鼻を鳴らし、サバンナのライオンの如く悠然と寝転がる。顔の周りにたてがみのように茶髪が広がる。

同じ親から生まれたのに俺たちはあんまり似てない。

俺はごくごく平凡な顔をしている。

外見的な特徴といえばセルフレームの眼鏡と芯の固い黒髪、神経質そうな目つき。服のセンスもださい。もさっとしてる。

太一は俺と正反対、明るい茶色の髪は中途半端な長さで、だけどそれがさりげなくお洒落に見える。非の打ち所ない美形というよりも造作が崩れているのが魅力になる快活な顔立ちで、女の子にモテるのがよくわかる。

……実の兄から見ると下がり気味の口角や笑ってるようで笑ってない目元にそこはかとなく一癖ありそうなルックスだが。

太一がテーブルに乗っかった分厚い本の一冊を手に取る。

「なに読んでんの」

「ジグムント」

「だれ?外人?」

「フロイトって言えばわかるか」

「医者だっけ」

「精神医学の始祖。ユングと二大有名人。学校でやらないか」

「聞いたような覚えはあるけど……で、その人の本楽しいの」

「面白い」

ぐうたら寝転がった姿勢のまま片手でテーブル上をさぐり、取り上げた本をぱらぱらめくる。

「兄貴さーうち帰ってこねえの」

「うん」

「なんで」

「帰りたくないから」

「俺のせい?」

本のページを惰性で羽ばたかせつつ言う。キーを叩く手がとまる。

「俺がいるから、帰ってこないのかなって」

「………もう大学生だぜ。とっくに親離れしてるよ、どっかのすねかじりと違って」

今さら寂しさを覚えはしない。

そんな時期、とっくに過ぎ去ってしまった。


コイツは悪くないと理屈ではわかってる。


「兄貴さあ、かまってよ」

「うるさいよ。帰れよ。忙しいんだ、今手放せないの。見てわかんないか」

分厚い本をほうりだし寝転がる太一。

半袖シャツから突き出た二の腕、なめしたような肌に淡く光る産毛が綺麗だ。

「焼けたな」

「走ってっから」

太一は陸上部だ。無謀にも。はにかむ顔に白い歯が映える。

中学では帰宅部だったが、高校にあがると同時に念願の陸上部に入った。親は心臓に万一の事があったらと反対したけど、どうせ長く生きられないんだから好きなことをおもいっきりやりたいと無理矢理入部したのだ。

「ずるいよな」

太一はずるい。

余命をたてにしたら親は逆らえないと知ってて、その手を使ったのだ。

「知能犯っしょ」

「確信犯だな」

「今、どうせ余生みたいなもんだし。好きな事したいんだ」

太一は常に死を意識しないではいられない環境で育ってきた。

年に数回、軽い発作が起こる。

重篤な発作は三年に一度の頻度で起こる。

死は常に太一に寄り添ってる。

明るいところほど深くて濃い影ができるように。


ジェンガを1つ1つ積み上げ高くしても、崩れるときは一瞬。


「学校どうだ」

話題が尽きた居心地悪さをごまかすように聞く。

「普通」

「普通って、答えになってねえよ」

「普通に楽しい」

「部活はどうだ」

「ばしばし走りこんでる。先週タイム更新したんだ、200メートルぶっちぎり。顧問に今度の大会代表で出ないかって言われた」

「すごいじゃん、一年で」

「断った。ババア説得すんのめんどいし、先輩に目えつけられるのもうざいし」

「勉強は……心配ないか」

入院が多いくせに、太一はふしぎと勉強もよくできる。

寿命は先負、されど万能。

「兄貴、教えてよ」

「なにがわからないんだ」

「保健体育」

「童貞のくせに」

「童貞じゃねえよ」

「え」

まじまじと太一の顔を見る。

「いつ」

「中2」

「……はやっ」

「そう?普通だろ、割と」

「お前の普通の定義おかしいよ。で、だれと。当時付き合ってたミカちゃんか」

「想像におまかせ」

「……モテるからなー、お前」

「兄貴だって悪くねえよ」

「慰めどうも。でも良くもないって続くんだろ」

ジグムントの本に飽きた太一が部屋をきょろきょろ見回し、向こうに何かを発見したらしく「あっ」と叫んで駆けていく。

「いいもんめっけ。人生ゲーム?」

「あー……ジェンガだよ。こないだ友達が持ってきた。あいつ忘れてったな」

「どうやって遊ぶの」

「ブロックを積み上げて崩さないように抜いてくんだ。結構集中力使う」

「面白そう。やろうぜ」

太一はえらく乗り気だ。

ジェンガは初体験なのだろう。まあとっくに流行が去った遊びだし、知らなくても無理はない。

「だーかーら、レポート中なんだよ。単位おとしたらどうする」

「兄貴は頭いいから大丈夫。ケチケチせず付き合えよー」

「よくねえよ。陰に日なたに努力の人で売ってんだよ、俺は」

「単位とヨメイイクバクもねー弟とどっちが大事なんだよー」

「……三十分だけな」

盛大なブーイングに根負け、下書きを保存してからパソコンの電源を落とす。

ゲーム盤を挟んで太一と向き合い、簡単にルールを説明する。

「いいか?ジェンガは54本のパーツを縦横に3本ずつ組み上げた18段のタワーとなっている。パーツは最上段を除きどこから抜き取ってもいいけど、最上段に3本そろわないうちにそのすぐ下の段から抜き取ってはだめ。タワーを崩した人が負けな」

「OKOK」

ふたつ返事で了解する。

初手は太一。

「……っしゃ、摘出成功。次、兄貴」

促され、弟のわがままに不承不承付き合ってやってるんだという辟易を顔に出し、下から二番目の端のブロックを抜く。さすがに緊張を覚える。

ゲームは淡々と進行する。

安定箇所のブロックをあらかた抜いてしまえば必然先細りバランスが悪化し、いたずらに服が触れただけでぐらついてしまうから油断できない。

「案外むずい」

「だろ」

「地味だし」

「崩れる時は派手だ。一瞬で」

「むしろ崩すのが醍醐味、みたいな」

軽口のキャッチボール。俺はふと呟く

「お前と遊ぶの久しぶりだな」

ジェンカはバランスが命のゲーム。

どのブロックを抜いたら全体にどう波及するかという関係性を脳内で立体化し、空間的に把握せねば勝利を手にできない。

升目を埋めるような慎重派の俺とは対照的に、自由で柔軟な発想を得意とする太一は、スリルを楽しむ表情で直感的に、大胆にど真ん中からブロックを抜いていく。

「小学校の頃は遊んでくれたのに」

「ボードゲームばっか」

「オセロは兄貴のが強かった。退院したての弟に手加減しようとか思わなかったわけ」

「手加減されて勝っても嬉しくないだろ」

というのは詭弁で、俺はガキの頃からひどく負けず嫌いだったのだ。

「うそつき、単に負けず嫌いだったんじゃん。たまぁに俺に有利に運ぶと至高のグルメ推しの頑固おやじみてーに顔真っ赤で盤面ひっくり返すし」

ばれてた。

懐かしい思い出話に耽るうちに張り詰めたプレッシャーが適度に和み、親密な空気が底に流れる。

「兄貴が盤面返しの大技くりだすたび心臓とまるかと思った」

兄弟仲良く力を合わせひとつひとつ積み上げても、崩れる時は一瞬。

「……悪趣味な冗談よせ」

「冗談ならいいんだけどさ」

「それだと俺はたかがゲームの勝ち負けにこだわって、何度も殺人未遂してたのかよ」

「発作起きなくてよかったな。兄貴を人殺しにしなくてすんで安心した」

「やさしい弟で泣けてくるね」

「ちょっと残念だけど」

「はあ?」

「そしたら兄貴、俺の事忘れねーじゃん」

言葉を失う。

それは心臓が抱え込んだ時限爆弾の限界を体を張って試し続けてきた人間の笑顔で。

してやったりと意地悪そうに目を細め含み笑い、余裕を演出する極端に緩慢な動作でブロックを抜く。


処女をリードするような手つきが目を奪う。

この手にこんな風に触ってもらえる女は自分が特別な存在になったかのような幸福な錯覚に溺れるだろう。

漠然と、羨ましさを覚える。

太一に対してなのか太一が抱く女に対してなのか、保留でわからないふりをしておく。


「さっき何書いてたの、レポート」

「言ってもわかんねーよ」

「試しに言ってみ」

「吊り橋効果における男女の親和性についてのフロイト的解釈」

「それジグムントさん?」

「違う。吊り橋効果を提唱したのはカナダの心理学者、ダットンとアロン」

「ダットン・アンド・アロン……愉快なコンビ名。そういう海外ドラマなかったっけ。で、吊り橋効果って?」

太一の番。ブロックをひとつ抜く。

「映画でよくあるだろう、絶体絶命のピンチやパニックを一緒に乗り切った男女が結ばれちまうパターン。すごく簡単に言うとあれだよ。平常時と吊り橋を渡ってる最中とで男女にアンケートをとって、どっちの方がより相手に対し好意を抱いたか調べた結果、後者のがダントツだったんだ」

「なんでなんで?」

「種明かしするとな、吊り橋の揺れが伴う動悸を恋愛の高揚と勘違いしちまったんだよ」

俺の番。ブロックをひとつ抜く。

太一が素直に感心する。

「へえー」

「大抵吊り橋上で生まれた愛は長続きしないんだけどな、限られた状況における一過性のもんで。一時的な緊張状態による興奮が理由の恋愛は、継続的な恋愛には発展してかないってのが結論」

「ドキドキの質が違うんだ」

「そういうこと」

「じゃあ、これもそうかな」

「はあ?」

ブロックをひとつぬく。ふたつぬく。みっつ、よっつ、競い合うようにしてタワーを解体していく。

「ゲーム中に味わうスリルと興奮がきっかけで恋に落ちちゃったり、とか」

「………お前と?」

太一がきっかりと俺を見据え、いやに真剣な表情で白状する。

「俺、今、かなりドキドキしてるんだけどさ」

「………」

「くらっときた?」

「……どん引き」

「やっぱだめかー」

大げさに項垂れる様がおかしみを誘って、二人一緒に示し合わせて吹き出す。

「なんか賭けよっか」

「金?やだよ」

「キスとか」

「は」

タワーの主軸が歪み傾き連鎖崩壊、ばらばらに分解されたブロックがけたたましく床になだれる。

太一が残念そうに嘆く。

「あーあ。負けちった」

二人一緒に後片付けをする。

クーラーの空調の音の他にはプラスチック製のブロックが床と擦れる音と、俺たちの身動きに伴うささやかな衣擦れしか聞こえない。


共同作業で築き上げたタワーの残像はカケラを拾うごとに薄れていき、最初からそれが存在したかどうかも疑わしくなる。


人間の記憶はとても頼りない。

手で触れて確かめる事ができなければ、形を知覚し得ねば、すぐに薄れて消えてしまう。


至近距離でブロックを拾い集める俺をまともに覗きこみ、太一が囁く。

「その眼鏡」

「うん」

「最初びびったあ。病院から帰ってきたら兄貴が眼鏡になってんだもん、超ウケる」

小五の冬から小六の春先まで、太一は入院してた。

家に帰ってきた太一は、留守番してた俺の顔を見るなり、「眼鏡!?うははっ、兄ちゃんが眼鏡になってる!!」とこっちを指差し飛んで跳ねてひとしきり大騒ぎした。

何年か越しに太一のオーバーアクションの理由に思い当たり、胸が少し疼く。

約一ヶ月にも及ぶ入院中、一度も見舞いにいかなかった。

受験と反抗期が重なったせいだが、ソファーのスプリングを壊す勢いではしゃぎ回っていた太一が電池が切れてポツリと一言、「……なんか別人みてー」と零したさまが忘れられない。


兄ちゃんから兄貴に呼称が変わったのは、それからだ。


前に太一が「俺の心臓がとまっちまったら兄貴ドロップキックしてよ。また走り出すからさ」と、朝食の席で牛乳をイッキしながら言った。


心臓マッサージ、もとい心臓キック。


そして太一はまた走り出す。

輝かしい人生が続く。


どこまでが人生で本番でどこまでが余生でおまけなのか、俺にはわからない。

本気で生きた分だけ人生と呼べるならこいつはいつだって人生を生きてるだろうに、俺とふたりっきりの時だけ冗談とも自嘲ともつかぬ口調で余生という。


もう少しで死ぬんだから許してよ、と。

甘えさせてよと、確信犯的につけこむ。


ジェンガを片付けた太一から視線を切り、テーブルの隅っこにおいたスマホに一瞥くれる。

「家に連絡入れたのか」

「うん。兄貴んとこよるって」

「そっか」

「泊まるって」

「泊まらせねえよ。帰れ。母さん心配するだろ」

「ちぇ。ケチ」

「毎日毎日俺んとこ入り浸って……合鍵渡すんじゃなかったよ。こっちだって都合があるんだ、飲み会とかさ」

「いなくても勝手に使っていいっつったじゃん」

太一が不服げに口を尖らす。

プラスチック製の本棚に心理学関係の本や小説がぎっしり詰まった殺風景な部屋を見回し、呟く。

「俺もこっち引っ越そうかな」

「ふざけんな」

自由気ままな一人暮らしを文句の多い居候に邪魔されたくない。

即座に却下すれば、太一は「えー」と声を上げ、非難がましい目つきでこっちを睨む。

もう八時を回ってる。九時になる前に帰さないと。

「ほら、明日も学校だろ。電車なくなったら家まで走って帰らなきゃ」

「いいよ、そうする」

「お前になにかあったら困る」

「『心臓になにかったら困る』だろ」

俺の中では同義だが、太一の中ではちがうらしい。

間違ってないから返答に詰まる。

太一がふてくされ腰を上げ、スポーツバッグをもって大股に玄関へ行く。

背中、ちょっと見ない間に広くなった。骨格も年を追うごとにしっかり完成されてきた。


こいつは健康に成長してて、でも、こいつの心臓は成長に追いついてってなくて。


ごまかしごまかし生きてるけど、いつかは破綻する。

ジェンガを崩すように終わりは一瞬だろう。

終わりはせめて慈悲深くあるよう、祈る。


腰を上げ、玄関まで太一を送る。

ノブに手をかけ開けようとしてちょっと戸惑い、振り向く。

引き止めてほしがってそうな顔だ。

「ドロップキックしてやろうか」

「……虐待反対」

「とんでもない、スキンシップさ」

太一が占有の特権を誇るかの如く笑い、自分の胸のあたりを拳で殴る。

「俺のハートをジャンピングスタートさせるのが兄貴の役目だもんな」


終わりが来ないようにと祈るほど俺はガキじゃない。

兄ちゃんが兄貴に代わった瞬間から、いずれ終わりが来るのに生まれてしまった感情を自覚した瞬間から、ガキでいられなくなった。


ため息を吐きノブを捻った途端、電気が消えて人工の闇があたりを包む。

「またブレーカー落ちた」

舌打ち。このアパートはよく停電になる。

どうせもう帰るんだ、平気だろう。

ノブががちゃつく音を聞きつつ部屋に取って返そうすれば、後ろからあたたかいものが抱きつく。

心臓がひとつフライング気味の鼓動を打つ。耳朶をくすぐる切羽詰った低い声。

「兄貴」

「こら、ふざけんな」

「好きだ」

耳を疑う。

太一の腕は強くて、背は俺より大きくて、後ろから抱きすくめられて混乱して、そのまま吐息がー……


唇が被さる。

頭が真っ白になる。

完全な思考停止。


俺を抱きしめる腕の皮膚の下に筋肉の躍動と血の脈動を感じる。


太一は生まれつき心臓の畸形だった。

生後九ヶ月の時余命はもって十歳までと診断され、父さんと母さんは悔いないよう残り七十年分愛することにした。

最初の十年に凝縮された七十年分の愛情。息苦しいほどの。

俺はいつも、こいつを羨んでいた。


「音、聞いて。俺の心臓の音。兄貴とおんなじでしょ」

いつ壊れてとまるかわからないくせに、こいつの心臓はちゃんと鼓動を打つ。

俺と接するうちにその鼓動がだんだん速くなって、足並みを乱して、発作の兆候じゃないかと不安を誘う。


抗う気力をなくす。

黙って抱擁される。

日焼けした腕に弛緩した体をゆだね、ぼやく。


「……賭けに負けたくせに」

「そこはほら、サービスですよ」

こういう日がいつかくると予感していた。

太一が俺のアパートに入り浸る理由も、病院から帰ってくるたびうるさく懐く理由も、時たま俺を見る目によぎる物狂おしい影の理由だってわかっていた。


わかっていて、無視をした。

俺はどうしたらいい。どうすればいい。

兄弟だから、家族だから、男同士だから。

拒む理由断る理由はいくらでもあって、でも、こいつの願いを拒否したらその瞬間心臓がとまってしまいそうな恐怖がつきまとって。


「……心音、うるさい」

「ドキドキしてんだよ。発作じゃない」

「区別つかねえよ」

「もっとくっつけばわかる。耳澄ませて」

ずっと疎外感を抱いてきた。

孤独感を内に抱え込んだ子供時代、俺は両親に沢山かまってもらえる太一が羨ましくて、わざと見舞いに行かなかった。

俺が来ると本当にうれしそうな顔をするから、それがかえってたまらなくて。無神経が憎たらしくて。

病気の弟に優しくできない自分は最低なヤツだなあと子供心に哀しく思って、泣いた。


「今、すっげどきどきしてる。キスしたらとまるかな」

「ばか。セックスの時もとまらなかったんなら大丈夫だよ、お前は長生きする。そんな性格だし」

「兄貴が相手なら、ちがうよ」


ジェンガを崩すように終わりは一瞬だろう。

終わりはせめて慈悲深くあるよう、祈る。

大切な人に先立たれた時から人生は余生になって、あとに残された人間は、もう誰もいない部屋や家や心に散らばった思い出をひとつひとつ拾い集めて生きていく。


俺のうなじに顔を埋めこすりつけ、心臓の鼓動が伝わる距離でつぶやく。

「前の時ヘイキだったのは兄貴が相手じゃなかったからかも」

「試してみるか」


ずっと太一に隠してきたこと。

こいつが好きで、嫌いだ。

俺とは違い愛され上手で手のかかる弟を独り占めできるなら今この瞬間心臓を止めてしまうのもアリなんじゃないかと魔がさすほどには。


余生のような人生にキスで終止符を打つのも悪くないだろうと、太一の心音と体温に包まれ安らぎを覚えながら、思った。

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