違和感
電話の呼出し音がけたたましく鳴り響く。
圭介は受話器を取り、マニュアル通りの応対をする。顔も見えない相手に、言葉を選びながらストレスの溜まるやりとりを続ける。圭介は心の中で悲鳴を上げていた。電話の用件が済み、ホッと胸を撫で下ろし受話器を置く。しかし、また直ぐに呼び出し音が鳴り出した。忙しい時間帯は、片時も電話の傍を離れる事ができない。
これが、圭介の日常だった。入社してまだ2ヵ月、接客と下回りは新入りの役目だ。嫌いな上司に気を遣い、自分でも嫌になる程の腰の低さで、顧客に接しなければならない。もちろん電話の応対も新人の役目だ。圭介は自分の進んだ道を後悔し始めていた。
初めは誰でも痛感する事だ。と、言ってしまってはそれまでなのだが、今の圭介にはその事を素直に聞き入れる余裕が無かった。慣れない環境、上司の叱咤、失敗を恐れる故のプレッシャー、練習より実践に重みを置く教育方法など、それらが圭介の心を摩耗していく。
また、2ヵ月というのも微妙な時期で、この時期になると、上司からは叱られる事はあっても褒められる事は無い。仕事を上手くこなしても、それが当たり前だと思っているのだろう。圭介が望まずとも、上司への殺意らしきものが込み上げてくる。それくらい今の圭介は荒んでいた。
「吉田、俺が代わるから、五番行ってきていいぞ。」
上司が、空気に向かって何度も頭を下げている圭介に言った。圭介は上司を見た。頭の前部分がかなり薄くなってきている。じきに見事なMの字に禿上がるだろう。世間から見れば、日本人の平均的な顔立ちをしているのだろうが、圭介の目にはとても人相が悪く映る。
圭介は上司の言葉を聞き、心の中で躍起した。五番とは会社用語で昼休みの事だ。つかの間だが、ようやく休息できる、圭介は電話の相手に上司と代わる事を告げ、喜びを悟られないように受話器を上司に差し出そうとする。
しかし、なかなか手が前に出ていかない。受話器を渡そうとしても上手く渡せないのだ。上司は怪訝そうな顔をして圭介の顔を見る。
そして、圭介は自分の異変に気付いた。肘から先が全く動いていないのだ。圭介の感覚では肘は伸びている筈なのに、受話器を持った手はいつまでも圭介の耳元に張り付いている。
圭介が自分の体の操縦にてこずっている間に、じれったくなったのか、上司が圭介から受話器を無理矢理引ったくった。そして、一回軽く咳ばらいをすると、受話器に向かって話し始めた。
「大変お待たせいたしました。社の者が失礼致しまして、申し訳ございませんでした。」
まるで、あたかも圭介が何か失礼な事を言ったかのような言い草だ。圭介は手の違和感の事などすっかり忘れて、露骨に不快感を顔に出す。幸い上司は電話に気をとられ、圭介の表情には気付かなかった。
圭介は休憩室へ向かった。他の社員が仕事に追われている中で自分だけ休憩に入る時が、圭介は好きだった。気が付くと手の違和感は消えている。休憩のせいで浮かれていた圭介は、この違和感を大して危惧をしていなかった。