八 ―月―
月。
寂しさに見上げた月。
宵闇に凛と輝く月
あなたはまるで月。
……あたしを絶えず照らした美しい月。
あたしにはあなただけだったの。
あたしを見てくれたのはあなただけだったの。
あたしは、あなたを。
◇◇◇
あれからどれほどの時が過ぎただろう。もうとっくに夜は明け、日の光が差し込んでいる。昨晩とは打って変わって気持ちの良い晴天で、降り積もった雪が湿り気を帯びている。瓦から伝う雫が、軽快な音を立てながら雪の上に落ちていた。
あたしは屋敷に戻り、自室に戻ってから涙が止まらないでいた。
明け方前に旦那様は戻ってきたようだった。高らかに上げていた笑い声から、鬼討伐の行方は簡単に想像できて、あたしは耳を塞いだ。それでも耳の奥に声は響き、その度に溢れ出す涙を袖で拭った。
月代は、死なないと言った。でも本当なんだろうか。月代は湖の主なのだからと、あたしが勝手に思いこんでいるだけで、本当はあの言葉は嘘だったのかもしれない。
臆病なあたしはそれを確かめるのが怖くて、ただここにうずくまったまま動けずにいた。それでも、そろそろ朝餉の支度をしなければ、また旦那様が騒ぎ出すだろう、そう思い立ってあたしはようやく鉛のように重たい体を動かすことができた。
「花乃! 花乃は何をしておる! 毎日毎日同じことを言わせおって」
「はい、ただ今!」
ほら、やっぱり。あたしは体を引きずるようにして台所へ向かった。
手早く朝餉の支度をして、旦那様の元へ向かう。先程の声からは想像できないほど、旦那様は上機嫌だった。
「私の手にかかれば、鬼を討つことなど赤子の手を捻るよりも容易であったわ」
自慢げに唾を飛ばしながら、豪快に笑う。
「妖術なんぞを使うわけでもなし、鬼と呼ぶにはあまりに手応えがない、ただの木偶の坊だ」
焼き魚の骨をくわえ、笑い続ける。よくよく見れば、朝から酒を飲んでいたようで、空いた徳利が畳に転がっている。どおりで部屋に酒の匂いが充満している筈だった。
「花乃、鬼はお前と同じ木偶の坊であったぞ。十年経っても、満足に女中として働けぬお前と同じでな」
いとも楽しげに、笑う。
頭が痛い。
目頭が熱くなる。
何が楽しいと言うの。何がそんなに可笑しいと言うの。
「……何だ、その顔は。何か言いたいことでもあるのか」
笑い声が止む。怒ったような低い声で詰め寄り、伸ばされた手があたしの髪を掴んだ。
「この私が拾ってやらねば、とうに野垂れ死んでいた身でありながら生意気な。鬼に喰わせてやっても良かったのだぞ」
その言葉に、ついにあたしの憤りが噴き出した。掴まれた手を振り払い、持っていた盆を投げ出した拍子に旦那様は尻餅をつく。
「違うっ!」
もうここにほんの僅かな時間もいたくなかった。
「月代は……鬼なんかじゃないっ!」
どうしても、どうしても。
会いたい、月代に会いたい。
そのままあたしは、屋敷を飛び出し再び湖までへの山道を駆け出した。
「……月代」
何年もの時を過ごしたその場所は、一瞬そうであったことなど分からないくらいに踏み荒らされていた。
周囲の緑は燃やされ、そこだけ雪が溶け土が露出している。そこに残る沢山の入り乱れた足跡はいかに大勢の村人が押し寄せてきたのかを物語っていた。そして、いつもは澄んでいるはずの湖も、今は湖岸の泥と、踏み荒らされた為に浮き上がってきた苔や藻が入り混じり、普段の面影はない。
「月代! 月代!」
いつもなら仏頂面で姿を現す、湖の主の名前を呼ぶ。阿呆と言いながらも、いつも差し延べてくれていた、あの手を待つ。
「ねえ、お願い月代。出てきて頂戴……」 空の真上に昇った眩しいほどの太陽の光も、今の湖には映りこむことはなく、濁った水は一つの波紋を描くこともなく、ただ凪いでいる。
「死なないって、言ったじゃない」
人の子ごときに、殺されるわけなどないと。あの時そう言った言葉は、嘘だったの。
「月代っ……!」
呼べども呼べども、返事はない。
あたしの気持ちとは裏腹に、空は高く澄んでいた。もう十年は前だけど、同じようなこんな良い天気の日に、月代は昼寝をしようとしていたなと思い出した。あたしが起こす度に、ぶつぶつ文句を言っていた。あたしは、溢れてくる涙を拭い、あたしは何度も湖に呼びかけた。
人の子ごときが恐れ多い、と言いながら眠そうに目を擦り湖から上がってくれる月代を、あたしは待った。
日が傾き、空が朱に染まってからも、月代の髪と同じ色をした月が高く昇ってからも、闇がさらに深い深い色になってからも、待ち続けた。
それなのに。
「……嘘つき」
月代は、来ない。
あたしの所に、来てくれない。
あたしはまた置いて行かれたんだ。でも、今度はあの時手を差し延べてくれた月代はいない。
「嘘つき……っ!」
濁り水に足を踏み入れ、天を仰ぐ。闇にぽっかりと浮かぶ月に見下ろされながら、思い出すのは見とれるほどに綺麗な月代の姿。いつも不機嫌そうな声。あたしに差し延べるその手の温かさ。
懐から花を包む布を取り出し広げ、あの時のまま愛らしい形を保つ花を、胸に抱いた。
月代がくれた赤い花。
あたしの一等大切な宝物。
一緒にくれたのは、あなたの笑顔。
「置いていかないで」
手を高く伸ばし、呟く。
この声が聞こえるように。
「置いていかないで……っ」
月代。
あなたに、届くように。




