表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

七 ―花―


 花。

 あの日お前にやった花。

 名もない小さな赤き花。

 ずっとこの手にあった花。

 ……昔を思い出す花。


 私はお前に救われた。

 その言葉に。その笑みに。

 だから良いのだ。

 私のことなど、忘れて良いのだ。




   ◇◇◇




 まなこに残るお前の姿。

 耳に残る私の名を呼んだお前の声。

 ここにあったお前の顔は既になく、お前の声も最早聞こえぬ。

 見えるのはここに向かう村人達が掲げる松明の揺らめき。

 聞こえるのは、吹きすさぶ風と村人達の怒声。

「……お前は、人の世で生きるが良い」

 踵を返し湖に足を踏み入れる。水底に行く気はない。私はここに来る人の子らと対峙しなければならないのだから。

「いたぞ! 鬼だ、鬼がいたぞ!」

 乱れ飛ぶ雪の合間から麓の村人達が顔を覗かせた。蓑を羽織るその人影は実際よりも数を多く見せている。その皆が手に武器を持ち、険しい表情をしていた。

「もうここまで来たか、思いのほか早いな」

 あっという間に湖を囲む武装した村人達。白い息を吐きながら、私を睨みつけにじり寄るが、臆しているのか合間はなかなか詰まらない。

「討て! 討たねば村が滅ぼされてしまうぞ!」

 一人、その中の頭領らしき男が叫ぶ。それに伴い、周囲からより大きな怒声が上がった。

「討て討て! 鬼を討て!」

 ……鬼、と。

 そう呼ばれていたのは、どれほど昔のことであったか。遠い遠い昔、そのことを忘れてしまえるほどの昔、確かにそう呼ばれていた。

 そう、今はっきりと思い出した。

 それはとうに忘れ去っていたことだ。

 私がこの湖の主となった所以、その始まり――。


   ◆


 花が艶やかに咲き乱れる都、そのとある館に産まれ落ちた赤子。病弱な母はその子を産み事切れ、父は嘆き悲しんだが、我が子を見て愕然としたという。赤子でありながら髪は老婆のように白く瞳は血の色を映したような不吉な姿は、人とは程遠い様をしていたからだ。

「ああ、何と不吉な。このようなことがあってはならぬ。隠せ、急ぎこれを隠すのじゃ」

 赤子に名は与えず、館の人間は彼を鬼の子と呼び、父はその不吉な子を呪い、離れに閉じ込めた。

 鬼の子に物心がついた頃、酷い飢饉が都を襲った。それだけでなく、幾日も続いた日照りは水をも奪い、人々が次々と死んでいった。

「鬼の所為じゃ。鬼が災いを運んできているのじゃ!」

「父上! 父上! お助け下さい! 私は何もしておりませぬ、お願いでございます!」

「誰がお前の父であるものか。お前は私の子の体を喰ろうて産まれた鬼じゃ。この都に災いをもたらすべく産まれた、忌むべき鬼じゃ!」

 鬼へと矛先を向けられた行き場のない人々の悲しみ、そして怒り。人々は鬼を討つべく蜂起し、鬼は村から幾里も離れた山に追いやられた。

 まだ幼い鬼の子に一人で生きる術などあるはずもなく。迷い迷って行き着いた湖の前でついに倒れた。

「うう……」

 ひもじくて、悔しくて、悲しくて、鬼は泣いた。湖面に映る己の姿を見てむせび泣いた。

「どうして、私はこんな姿で産まれてしまったんだろう……」

 白い髪に赤い目。

 誰からも愛されないこんな姿。死んでも悲しむ者もいない。疎まれるだけの惨めな己。

 ふと、泣きながら気付いたのは、湖の対岸に揺れる赤い花。ゆらゆらと風に靡くそれは、凛として、それでいて愛らしい。鬼の瞳と同じ赤色だが、誰ひとり、その花を疎む者などないだろう。

「もし、私もこの花のようになれたら……」

 皆は私を愛してくれただろうか。離れの格子などからでなく、青空を仰ぐことができただろうか。親に手を引かれ歩くことはできただろうか。

 手を伸ばす。

 しかしその手が届くわけもなく。

 鬼はそのまま、湖の底に沈んだ。

 その時、鬼は声を耳にした。

「哀れよのう。ほんに哀れよのう」

 その声の持ち主は山神。その境遇を哀れんだ山神が鬼に語りかけたのだった。

「私に触れるが良い。そのまま死ぬにはあまりに不憫じゃ」

 鬼は夢か現かその声を聞き、そして夢か現か手を伸ばし、触れた。


 目を覚ました時、鬼は水底にいた。山神の姿は勿論なく声も聞こえなかった。そして鬼の子は、人ではなくなっていた。

 老いる速度は極端に遅くなった鬼の子は、長き時をそこで過ごすうちに、やがて様々なことを忘れていった。否、覚えている必要などなかったのだ。この世に産まれ落ちた瞬間から忌み嫌われていたことなど。


   ◆


「昔も今も、私は嫌われ者だ」

 怒声をこの身に受けながら、思い返す。愚かなことを繰り返す人の子。だが私も同じこと。

 見て見ぬふり、聞こえているのに聞こえぬふりを繰り返した。

「討て、討てー!!」

 迫りくる鍬や鎌の切っ先が鈍く光る。人々の鬼気迫る顔がずらりと並び、押し寄せる。

「……お前だけだ。お前だけが――」

 名を呼び、人の子と同じく接したのは、お前だけだ。

 この白い髪を綺麗だと言ったのは、お前だけだ。

 この赤い目を泣いた瞳のようだと言ったのは、お前だけだ。

 私に笑いかけてくれたのは、お前だけだ。

「覚悟っ!」

 振り下ろされる刃。

 目を閉じる。

「…………花乃」

 私は、初めてその名を呼んだ。

 お前は、許してくれるだろうか。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ