六 ―手―
手。
月代の白い手。
あたしに差し延べる手。
温かいあなたの手。
……あなたとつないだあたしの手。
もしもこの手をとらなければ。
もしもこの手に触れなければ。
◇◇◇
雪が舞う静寂の中、赤い目を細めて月代が笑う。死なない、とあたしの髪を撫で、体を抱いてそう言った。
「そうよね。月代は、この湖の主だものね。そんな簡単に、退治されちゃうわけないよね」
安心してしまったからか、力が抜けてあたしはその場に座りこんでしまった。足ががくがくと震えているのは、ここに来るまでずっと走り続けたからだろう。
「さあ、手を寄越せ。早く山を下りねば、村人達と鉢合わせしてしまう」
そんなあたしに手を差し延べる月代。あたしはかぶりを振る。
そうよ、どうしてもっと早くここに戻って来なかったんだろう。なぜ戻って来たって言われても良かったじゃない。村の人達が討伐に向かうと聞いて、いてもたってもいられないほど、こんなにも、こんなにも大切なのに。
「あたし、村には戻らない」
あたしの帰る場所は、もうずっと前からここだった。ここに、帰って来たかったの。
「月代と一緒にいたい」
幼いあたしを助けてくれた。
親に捨てられたあたしと一緒にいてくれた。
「駄目だ。早く手を」
「お願い」
声を遮り、食い下がる。手を差し延べたままの月代が大きく息を吐いた。
「お前は人の子。人の子は人の世で暮らすのが良いに決まっている。さあ、手を」
「あたしはもう人じゃない。月代が言ったんだよ、お前は人であって人でないって。それにあたしは、皆みたいに歳を取れない。もうこれ以上、人の世で生きるなんて無理よ!」
今はまだ愚図呼ばわりですんでいるけど、成長が遅いということがばれるのは、もう時間の問題だ。そうなったら、あたしも化け物と呼ばれ討たれるのだろう。
その言葉に、押し黙る月代。
辺りは静寂に包まれた。
「一緒にいたいの」
最後にもう一度、言い放つ。
月代は喋らない。けれど、その目は決して怒ってはいない。この花を貰った時みたいに、優しげに見えるのは気のせいだろうか。
「月代」
「……お前は、阿呆だ。昔から今も、本当に変わらん。初めて会った時も、私をお姉ちゃん呼ばわりをしおって……」
目を臥せ、昔を思い出しているのか、ふっと月代が笑った。
「私に触れたのも、私に寝過ぎだから外に出ろと指図したのも、私をこき使ったのも、お前が初めてだ」
とっくに過ぎ去った日々。あの時は退屈だったように思ったけど、今思えば愛しい日々だったのね。
「私を恐れなかったのも、お前が初めてだった――」
ふと月代の語尾が詰まった。それは一瞬で、気のせいだったのかもしれない。
月代の長い指が、あたしの頬を撫でる。不意に通り過ぎた風が月代の髪をなびかせ、木々の枝に降り積もった雪を落としていった。
その時だった。
どこからともなく声が聞こえてきた。それは麓の村人達の声に他ならなかった。怒れる声――月代は危害を加えようとしているわけではないのに。
声が大きくなってくるにつれ、風が吹き荒れてきている。木々の上だけでなく、地べたに積もった雪までもが、その風によって巻き上げられ乱れ飛んでいた。
「月代……っ、来たわ」
覚悟していても、感じる恐怖を拭い去ることは出来なかった。心臓が早鐘のように鳴り、すでに寒さで感覚のない手足は震え始めた。
怖い。でも月代と一緒なら、きっと大丈夫。隣にいる月代の着物の裾を掴む手に力を込めると、そんなあたしの手に月代は優しくそっと触れた。
「お前と過ごした日々、あの時はやかましくてかなわんと思っていたが、退屈ではなかった」
降ってくるのは優しい声。
目を細め、微笑む端正な顔。
「また、お前と過ごせたなら、さぞかし楽しかろうな」
あたしの手に触れる月代の手に力が入った。強く握られたその手は、振りほどくことが出来ない。
「……お前が呼んでくれた名が、今はこんなにも愛おしい」
「え?」
その言葉の意味が分からず問い返したけれど、月代は微笑んだまま私の手を離さない。
遠くに目をやると、闇にぼんやりと松明の炎が浮かんでいるのが見えた。数えきれない程の炎の揺らめきが、ここに向かって来ている。
「ね、ねえ、どうしたの?」
「今一度呼んでくれぬか、私の名を」
何だか、月代の様子がおかしい。
いつも仏頂面で無愛想で、たまにしか見せたことのない笑顔を、今こんなにも見せつけられている。
そうしているうちに、あたしの耳にまではっきりと届くようになってきた人々の怒声。びりびりと空気が震えているように感じるのは気のせいじゃない。
「そ、そうだ。水底に行こう! そうすれば皆をやり過ごせるかもしれない」
思い立って手を引こうとするけれど、月代は微動だにしない。笑顔のまま、私を見ている。
「月代っ!」
刹那、指先から不思議な感覚が伝わってきた。この感覚には覚えがある。そうだ、これは――。
「どうして……! 月代――」
視界が狭くなり、暗転する。闇の中に放り出された次の瞬間には、見慣れた景色が広がっていた。そこにはたった今まで目の前で微笑んでいた月代の姿はない。
ここは――麓の村だ。あたしはまた、山から追い出されたんだ。
「花乃ちゃんじゃないの! 何してるんだい、こんな所で!」
声をかけてきたのは、いつも買い出しに行く店のおばさんだ。松明を片手に近付いてきたけれど、あたしは座り込んだまま立ち上がる気力もなかった。
「今、男達が鬼の討伐に出てるんだ! 早く家ん中に入りなさい、外に出てちゃあ駄目だよ! おや、あんた泣いてるのかい? 一体どうしたんだい?」
どうして、月代。
一緒にいたいと言ったのに――。