五 ―静―
静。
人のいない山の静けさ。
お前のいない湖の静けさ。
以前なら何とも思わなかった静けさ。
……今は耳に痛む静けさ。
どうしてこうも虚しいのか。
ただ昔に戻っただけなのに。
お前がいなかった頃に戻っただけだというのに。
◇◇◇
しんしんと雪が降る。舞を踊るように、ひらひらと落ちる雪片を手の平で受けると、それはゆっくりと水の粒となった。
山の冬は早く、そして長い。今年の冬も長くなりそうだった。
獣の気配はなく、木々はただそこに静かにたたずんでいる。枝に積もった雪がどさりと落ちる音だけが、時折この静まり返った山に響いていた。
「……今年も静かな冬だ」
あの阿呆と別れてから、いくつもの季節が巡った。あんなにも騒がしかった毎日は、静けさで満ちている。朝から地上に行きたいと言い、かと思えば水底に自力で戻ることも出来ず、再び私を呼ぶ。元、人の子ごときが、私に昼寝ばかりせずに外に出ろと指図をする。そんな騒がしい毎日は、もう遠い昔のことだった。
やかましく騒ぐ娘は、もういない。昼寝も思う存分出来る筈だった。
しかし、あれから私はまともに昼寝をしていない。あんなにも眠かった昼下がりも、なぜかぼんやりと考え事をするだけで、時が過ぎていくようになったのだ。
あの阿呆は、今頃どうしているだろうか。あのやかましさで他の人の子に疎まれてはいないだろうか。食事は摂っているだろうか。また始めの頃のようにぼろは着ていないだろうな――考え出せば、きりがない。
その度に思い直すことにしている。何故この私があの娘ごときの為に、考えを巡らせねばならないのか、と。
しかし、ここ最近は夏は日照りが続き、山の麓の村の作物の出来が良くないと、風の噂に聞く。そして、冬も雪深く厳しい。そんなことを聞いてしまったら、気にならぬわけがない。名にしろ二十年もの長い時を共に過ごしたのだ。情が湧いたとしても仕方のないことだろう。
そう、それだけのことだ。
「……ふん、退屈だ」
そう言ってから、これもあの娘が毎日のようにこぼしていた言葉だと思い出し、思わず懐かしい気持ちになる。
「おかしなことだな。以前は退屈など感じたこともなかったというのに」
久しぶりに昼寝でもしよう、そう思い立ち水底へと足を踏みかけたその時だった。
声が聞こえた。
「……すまんなあ、すまんなあ」
それは、人の声だった。この湖のほんの近くで人の声がするのだ。普段人の立ち入らぬこの場所で人の声がする時というのは、大体が何か事情がある時だと決まっている。あの娘のように口減らしとして、または老いた親を捨てに――どんな事情にせよ、それは大抵が愚かなものに過ぎないのだが。
「もう食い物も金も底をついてしもうた。年貢も納めることも出来んのじゃ。こんな不甲斐ない父ちゃんですまんなあ」
どうやら親子が心中にでも来たらしい。全く、人の子はなんて愚かな。私がいちいち気にしても仕方あるまい。
「すまんなあ……花乃」
仕方がない、のに――花乃、その名が耳に届いた瞬間、胸がざわついた。
花乃。
それは、あの娘の名だ。
小さな花をやったら、心底嬉しそうに笑った、あの娘の――。
お前なのか。再び、理不尽に命を落とそうとしているのか。
「相変わらず、阿呆な奴め……!」
水から上がるなり、声のする場所を探す。茂みをかきわけ、雪を踏み締めて行くと、貧相ななりをした親子が雪の上に横たわっていた。
「か――」
その名を呼び掛けかけて止めた。
違う。あの娘ではない。
「ひっ!」
そこにいたのは別人だった。
共に過ごしたのは二十年。されど二十年だ。別れてこの方、あの顔を忘れたことなどない。
目の前にいたのは、痩せこけた父親と見た目だけなら同じ年頃の少女。しかし、目鼻立ちも体躯もまるで違う。
「ひいっ、化け物、化け物じゃあ!」
腰をぬかしながら、父親が後ずさる。しがみついた娘も、怯え震えている。枝に積もった雪が音を立てて落ちると、父親は情けない声をあげた。
がたがたと震える二人を見下ろし、私は大きく息を吐いた。
どうやら、私のはやとちりだったというわけか。そうであれば、もう用はない。死ぬも生きるも勝手にするが良かろう。私はさっさと戻って昼寝だ。
踵を返し泉へと足を向けた時、縁もゆかりもない少女を助けたいと懇願したあの娘のことを、ふと思い出した。
振り返り、震える親子を見据える。
もし、あの時少女を助けていたら、お前とは別れずにすんだのか。
「……人の子風情が、この山に足を踏み入れようとは……」
もし、この者達を助ければ、お前は戻ってくるのか。
「この山から早う出て行くがいい! さもなければ喰うてしまうぞ!」
もし――いや、止めておこう。
親子は、私が言葉を発した瞬間、転がるようしにて山を下り始めた。もうこの山で心中を謀る気にはなるまい。
それにしても、私もおかしなことを考える。
「いい加減、あんな阿呆のことは良いではないか」
私は今度こそ水底に行くべく歩を進めた。雪はいつの間にか止んでいたが、空には黒い雲が広がっている。嫌な雲行きだ、私は小さく呟いた。
その日の晩、再び声が聞こえた。
一日のうちにこんなことが二度続くなど、今までなかったことだ。しかも一人二人のものではない。
「いったい何事だ」
しかし宵の静けさにありながらも、声ははっきりと聞き取ることが出来ない。どうやら数十の声が混在しているようだった。
仕方なしに水から上がり、様子を見る。地上は突き刺すほどに冷たい風が吹き、木々の細い枝の先端が触れ合い、乾いた音を立てていた。
「何だ……この怒声は」
声を聞き取ることは出来ないが、山の麓から近付いてくるそれは怒気と殺気に満ちている。
目を閉じる。声のする方角に見えるのはいくつもの松明の揺らめく炎。
「何をするつもりだ」
人の子がここに向かっている。松明を片手に不穏な空気を身に纏い、ここに向かっている。
一歩、また一歩と足を進める度に、声は大きくなっていく。同時に木々もざわめきを増す。
いつの間にか黒い雲に闇夜の月は覆われ、湖面に映る月もまた消えた。そのかわりに、雪片がちらちらと落ちてくる。
「月代っ」
声。
遠い声に紛れて届いた声。
ひどく懐かしい声だ。この声は――。
「月代っ!」
湖のほとりに立っている娘がこちらを向いている。その姿は十年前に別れたきり、あまり変わっていないように見えた。
「月代……。驚いたわ、こんな時間に外に出ているなんて」
白い息を吐きながら、微笑む娘、頬は上気し肩は上下している。相変わらず薄手の着物だが質は悪くはなさそうだし、幾分ふっくらしたように見える。この十年、娘は幸せに生きていたのやもしれぬ。
「何をしに来た」
何だ、胸に沸き上がる嬉嬉とした気持ちは。再び会えて、この私が嬉しく思っているとでもいうのか。そんな馬鹿なことがあるわけがない。
「そうよ、今は悠長に話している時間なんてないの! 月代、逃げなきゃ!」
思い出したように真剣な眼差しを向ける。その顔も、変わらない。あの頃のままだ。
「村の皆が、月代のことを鬼だと勘違いして……じきにここにやってくるの。だから、だから逃げなきゃ!」
「人の子が、私を? それを知らせる為にお前は来たのか?」
「ねえ、早く! 急がないと、皆が来てしまうわ!」
周囲を窺いながら私の手を取る娘。十年前までは、毎日のように触れたその手は温かい。
声は着実にここに向かっている。逃げるなど出来まい。
「ねえっ、月代!」
「お前は……阿呆なだけでなく、馬鹿だ。私を鬼と討伐にくる人の子らがいるとして、お前がここに来てどうする」
足を止め、言い放つ。
もし私と共にいる所を見られたら、ただでは済まぬだろう。たとえ親子でも、他人より冷たい仕打ちをすることが出来るのが人間なのだから。
「ここに来る者達に見つからぬよう、早う山を下れ」
山の麓に送ろうとした瞬間、手を振りほどかれた。しかし、何をする、その言葉を発することが出来なかった。
娘の目に、涙が浮かんでいたからだ。
「何故泣く?」
「嫌、嫌よ……死なないで」
縋るように懇願する娘の腕が私の体に回された。その目には、それを皮切りにいくつもの大粒の涙がこぼれ落ちている。
「死なないで。置いて行かないで。お願い、お願いよ……」
ちらちらと舞う雪片が、娘の頬に落ちる。それは一瞬で溶け、涙と共に流れ落ちた。
「……私は死なぬ。お前は人の子ごときに私を殺せると思うのか? そうであれば思い上がりも甚だしいぞ」
そう告げると娘はしゃくりあげながら、本当に、と呟いた。頷き、頭を撫でてやると、娘は微笑んだ。