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四 ―名―


 名。

 月代、それはあなたの名。

 あたしが付けたあなたの名。

 あなたに教えたあたしの名。

 ……決して呼ばれなかったあたしの名。


 あたしはあの子を救いたかった。

 あたしはあなたと離れたくなかった。

 あたしは、どうすればよかったの。




   ◇◇◇




 ちらちらと雪が舞い落ちる。この年初めての雪だ。木々に僅かに残っていた葉が乾いた音をたてながら地面に落ちているから、すぐに辺りは一面の銀世界になるだろう。

 抱えた薪を足早に運び囲炉裏にくべる。弱々しい炎は、あっという間に大きくなった。あかぎれた手をそっと炎にかざし、じんわりと伝わる熱を感じながら擦り合わせる。指先がぴりぴりと痛んだが、そろそろ炊事の仕度にとりかからなければいけないことに気付いて、あたしは慌てて駆け出した。

「花乃、花乃はおらんのか! 何をしている」

「は、はい! ただ今!」

 寝所から出られた旦那様の怒鳴り声が屋敷に響く。今日も旦那様は機嫌が悪いみたい。近頃めっきり寒くなって、節々が痛むと漏らしていたのを聞いたから、そのせいなのかもしれない。

「朝餉の仕度はまだ出来ておらんのか! もう十年経つというのに給仕もまともに出来ぬとは、相変わらず愚鈍な奴め」

「申し訳ありません。すぐに用意いたしますので」

 炊事場に来てまで、わざわざ小言を言わなくてもいいのに。あたしは言い慣れた言葉を並べながら手を動かした。

 十年。それは長いようで短い歳月。

 あの子を連れて、山を下りてからそれだけの年月が過ぎた。

 あの子は結局、助からなかった。解毒薬を与えるのが遅かったのだ。でも、この村に亡骸を埋めることが出来たから、あの山でそのまま命を落とすよりは、浮かばれるだろう。

 あたしは、有無を言わさずに山を下ろされた時から、月代の元に帰れずにいた。帰りたくないわけじゃないけれど、もし、なぜ戻ってきたなんて言われてしまったら、辛すぎるから。

 行く場所のないあたしは運良くこの村の領主である旦那様に拾われ、以来、屋敷に女中として住み込みで働いている。一番心配だった成長の遅さは、ここに来た時にこの姿である程度おかしくないように歳を偽ったから、まだ気付かれてはいないようだけど、旦那様からはいちいち愚図呼ばわりされて頭にきてしまう。

「考え事をしながらでもこれだけ出来るのに、愚図なんて失礼よ」

 盆に並べた朝餉を見下ろして一息つく。見た目はようやく年頃の娘らしくなってきたけれど、本当はとうにその倍以上を生きているんだもの、年の功よね。

 また小言を言われても嫌なので、足早に盆を運ぶ。部屋の襖を開けた途端、旦那様の視線が突き刺さった。

「この愚図め! どれだけ待たせるつもりだ」

「申し訳ありません」

「本当に、お前という奴は……拾ってもらった恩を仇で返すつもりか」

 ぶつぶつと言いながら、味噌汁を啜り、焼き魚に箸をつけ、香の物をかじった。あたしの記憶力が確かなら、旦那様が食事を残したことはないから、あたしの料理の腕も捨てたもんじゃないってことよね。

 一通り仕事を終えると、あたしは女中に与えられている部屋に戻り、畳にごろりと横になった。そのまま懐を探り布を取り出し広げる。そこに挟んであるのは、二十年前に月代から貰ったあの花。あたしの一等大切な、宝物。

 枯れてしまわないようにと押し花にしたそれは、長い歳月がたった今も、あの時のまま愛らしい姿を残している。

「月代……」

 今でもありありと思い出すことの出来る、月代の姿。いつも仏頂面で、いつも無愛想で、でもあたしが笑った時には微笑んでくれた。この阿呆が、なんて言われていたことも今では懐かしい。

 自然と頬が緩む。

 退屈だったけれど、かけがえのない日々。それを月代はあたしにくれた。

 たった一つ、心残りがある。それは、月代があたしの名を呼んでくれなかったこと。いつも、お前や阿呆ばかりで、ただの一度も月代があたしを、花乃、と呼ぶことはなかった。

「花乃、花乃はおらぬか」

 再び響き渡る旦那様の声に辟易しながらも、あたしは丁寧に押し花を包み懐にしまい込み返事をした。

「はい、ただ今ー!」

 濃いお茶を盆に載せ書斎へと急ぐ。旦那様は何やら難しい顔で帳簿を付けているようだった。

「今年も不作だったな……」

 ぼそりと呟く声にため息が交じる。どうやら、年貢の納め具合が良くないらしい。この夏は日照り続きで雨がほとんど降らなかったからだろう。そういえば、去年も豊作と呼ぶにはほど遠かったことを思い出した。

 お茶を置き早々に退室する。

 その後も旦那様は書斎にこもり、昼餉も夕餉もそこで取ることになったので、あたしは束の間の休息を得ることが出来た。

 十年。ずっとこんな日々の連続だった。違うとしたら、年貢の納め具合によって変わる旦那様の表情くらい。


 けれど、そんな毎日は、ある日突然終わりを告げた。


「た、助けてくれえっ! 化け物、化け物じゃ!」

 それは朝からぼた雪が降る寒い日のことだった。

 かじかむ手を擦り、買い出しに店へと向かう途中、出くわした人だかり。あたしは吸い込まれるように、人だかりへと足を進めた。人の壁は高く前に進み出ることは出来なかったけれど、中心から聞こえてくる声がひどく興奮していることは分かる。

 あたしは旦那様にまた小言を言われるのを覚悟に、人だかりに交じる。何とかかきわけ一番前に出ると、そこには一人の壮年の男とその娘らしき少女がいた。

「見たんだ、化け物を見たんだ! なあ、花乃!?」

 その名前にぴんとくる。

 確かこの村に住む父一人、子一人の貧しい家の人間だ。年貢を納めていない家の子供があたしと同じ名だと、以前旦那様が愚痴をこぼしていたのを思い出したのだ。

 父親は青白く不健康そうに見える。もしかしたら病に臥せているのかもしれない。あたしと同じ名の少女もまた、異常に痩せていた。その上、この寒さに二人とも麻の着物一枚で上掛けの一枚も着ていない。

「おら達は見たんだ! 化け物だ! あれは化け物だ」

 寒さでなのか恐怖でなのか、ガタガタと震えながら涙目で訴える父親。その目は真剣そのものだ。

「おめえ空腹で頭がおかしくなったんでねえか。化け物なんてどこにいるんだ!」

 人だかりの中の誰かが叫ぶと、周囲からくすくすと笑い声が上がった。確かに突拍子のないことを言っているかもしれないけれど、あたしには嘘を言っているようには見えなかった。

「本当だ! 信じてくれ! 山に、あの山の湖に、化け物がおったんだ!!」 

 瞬間、心臓が跳ね上がる。

 山? 湖?

 嫌な予感がした。

「月代湖に化け物がおったんだ! 銀の髪に赤い目……あれは、鬼じゃ! そうだ鬼じゃ!」

 父親の恐怖に満ちた叫びに、ついに娘が泣き出した。

 あたしは手足が震えるのを感じた。血の気が引いていくように、目眩がする。それと同時に、鼓動が早まっていく。

「喰われそうになって、おらと花乃は逃げてきたんじゃ、ああ恐ろしい!」

 いつの間にか笑い声は止み、かわりに周囲はざわめき始めている。

 違う!

 月代は化け物なんかじゃない! 鬼なんかじゃない!

 そう思っているのに、声が出ない。みるみるうちに不穏な空気が広がっていくこの場所で、もしもあたしが普通の人ではないということが知れてしまったら――そんな不安が頭を占めていた。

「何だ? 一体何の騒ぎだ!?」

 その時飛び込んできた声。それはこの騒ぎを聞き付けてやってきた旦那様の声だった。

 親子は山で、白髪を逆立て真っ赤な目をぎろりと光らせた鬼に襲われたと言う。

男は足を、少女は肘を怪我していて、始めこそ親子の話を信じていなかった人々の顔が青くなり始めた。

「そんな恐ろしい化け物が近くにいるのでは、おちおち寝ておれん! 何とかせにゃならん」

「そうだ、鬼は退治せねばなんねえ!」

「村の衆皆で行くしかねえべ!」

 次々と上がる怒声。

 親子が言っているのは月代のことだ。でも彼に襲われたなんて、きっと何かの間違いよ。昼寝が趣味で水底にこもってばかりの月代がそんなことするわけないもの。

「よし、今晩討伐に向かう! 女子供は家の中に隠れていろ! 男共は武器を取れ!」

 旦那様が声高に叫んだ。人々から獣の声にも似た咆哮が上がる。

 駄目。

 駄目よ。

 月代は鬼なんかじゃない! あたしを助けてくれたの! 親に捨てられたあたしを生かしてくれたのよ!

「月代……っ!」

 言うよりも何よりも、足が動き出す。

 急いで湖に行かなきゃ。

 月代に教えてあげなくちゃ!




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