三 ―笑―
笑。
たわいもないことでお前は笑う。
ただ純粋に笑う。
私の前で笑う。
……幸せそうに笑う。
水辺で手折った小さな花をお前は喜んだ
たった一輪の小さな花で。
たったそれだけで。
◇◇◇
露を乗せた若葉が跳ねる。目が覚めるほどにきんと冷えた雪解け水が湖に流れ込み、木々には新芽が芽吹いていた。枝では鶯の若い番いが、春の訪れを歌っている。
この時期はまた格別に眠い。そよぐ風が心地好く水面を揺らし、それを助長する。雪解け水も慣れれば、また心地好い。最早、必然だと言わんばかりに誘われ出そうになった欠伸を噛み殺し、伸びをする。昼寝をしたいところだが止めておこう。またあの阿呆にやかましくされては敵わん。
「月代ー、月代ー!」
冷えた空気がよく音を通すように、この冷たい水底にも、あの娘の声はよく通る。響き渡るのは、出会った時のままの甲高い声。湖から取って付けた、私の名前を呼ぶ声。
「……不思議なものだ」
私の名、などいつからそう思えるようになったのだろうか。始めはこの私に名を付けるなど、人の子がなんとおこがましいと思ったものだが、慣れればその音は心地好く耳に溶け込むようになった。さすがに二十も年が過ぎれば、嫌でも馴染むものなのか。
「月代ー! 早く来てちょうだい!」
これもまた日常となった声。
自分で戻ることが出来ぬのならば、ずっと水底に留まっていればいいものを、あの娘は一日に一度は外に行きたいと聞かない。元はと言えば勝手に触れたのはあの娘だが、油断していた私にも少なかれ非はある。元は人の子、地上が恋しいのだろう。
「しかし、こうも毎日のように同じことを繰り返されると、少々うんざりと言うものだ」
いつもの如く湖の縁で待つ娘に言い放つ。しかし顔を上げ、見せる笑みがそこにはない。
「月代……!」
「どうした? おかしな顔色だ」
「来て! こっち!」
聞くやいなや、私の手を取り茂みの向こうを指差し駆け出そうとする。いつもと違う様子に眠気が吹き飛んだ。
「子供が倒れてるの。もしかしたらあたしみたいに捨てられてしまった子かもしれない」
手を引かれるままついて行くと、指差されていた茂みの奥には、ちょうど目の前の娘と同じ年頃の少女が倒れ臥していた。粗末な着物に、子供に似つかぬ痩せこけた頬は、あの日を思い出させる。小さな手には半分かじった跡のある野草が握られていた。
「お前と同じようだな。おそらくは空腹に耐え兼ねて、これを喰らったのだろう。この辺りにはよく生えている毒草だ」
「毒!? ねえ月代、何とかならないの!」
「あいにく、薬草の類はこの辺りには生えておらぬ。もしあったとしても、私がこの子供を助ける義理はない」
踵を返し、湖に足を向ける。
少女はすでに虫の息だった。これではもう助かるまい。これ以上ここにいても無意味に時が過ぎるだけだ。
「さあ、戻るぞ。手を寄越せ」
「月代!」
しかし、娘は差し出した手を取ることなく、頑なに動こうとしない。
「阿呆が、その子供はもう助からぬ。お前が心を痛める必要などないのだ」
何故こうも頑固になるのか、私は理解に苦しんだ。元は同族であったから、この娘は、何の縁もゆかりない少女を助けようとでも言うのか。
「月代……あなたはあたしのことは助けてくれたわ」
「あれは」
助けたわけではない。その言葉を私は発することが出来なかった。娘の目に涙が浮かんでいたからだ。
「……何故泣く」
私の言葉に、娘は答えない。
いつもやかましいほどに喋り、動き、笑う娘の姿は、そこにはなかった。
いつの間にか飛び去っていた鶯の歌のないこの場所は、寒々として、耳が痛くなるような静けさに覆われていた。いつもなら暖かに感じる春の風も、今は真冬の木枯らしのように痛々しく感じる。そして、涙を溜めた娘の視線もまた、痛かった。
「水を――」
「……え?」
「湖の水をたんと飲ませてみるがいい。気休めだが、万が一それで毒草を吐き出すことが出来れば、命を落とさずに済むかもしれぬ」
何故、こんな事を私が言わねばならないのか。この私が人の子を救う術を説くなど、何故せねばならないのか。
しかし、その瞬間娘の表情は、花が咲いたかのように明るくなった。
「水! そうね! そうだわ!」
湖に向かって駆け出す娘を尻目に、倒れ伏した少女を見下ろした。
「所詮は、住む世界が違う、か……」
私には、人の子を救わねばならぬ理由が分からぬ。だがあの娘は、何の縁もゆかりもない少女を救いたいと泣くのだ。
あれから二十年が過ぎた今もなお小さなままの手に、いっぱい水を張ってそろりそろりと進む娘を見て思う。
人であって人でない――しかし元は人間。あの娘は、人の世で生きるのが良いのかもしれない。
大量の水を飲まされた少女は、娘の願いが通じたのか、毒草を吐き出した。娘はその様子を見て、それまで張り詰めていた気が緩んだのか、いつも通りの笑みを見せた。
「ああ! これで一安心なのね。ねえ月代」
「いや」
予想に反して否定されたからなのか、一気に曇る娘の顔。私は、水底に戻るべく足を進めた。
「毒草そのものを吐き出しても、すでに入り込んだ毒は体内を廻る。完全に解毒するには、その毒草にあった解毒薬が必要だ」
「でも、でもそんなのないんでしょう? どうすればいいの」
縋るように私の着物の裾を掴む娘の様子に懐かしさすら感じながら、それでも言い放つ。
「山を下れ」
その言葉の意味が理解出来なかったのか、娘が首を傾げた。着物を掴む手が緩む。
「この山を下り南に一里ほど歩けば、人里に辿り着く。そこなら解毒薬を持つ者の一人くらいいよう」
「山を、下るの? だって、あたし」
不安げな色が娘の瞳に広がる。
しかし方法はそれしかないだろう。
「お前、なりは幼いままだが、その姿ほどに足りぬ頭ではなかろう。身の振り方は己で考えるがいい」
「月代……っ」
「山の麓までは運んでやろう。それくらい、私には赤子の手を捻るよりたやすい」
もう、これ以上余計な言葉などいらぬ。それはただの蛇足に過ぎぬのだから。
私は娘とその腕に抱かれた少女の手を取り念じた。
「月し――」
刹那、娘と少女は消えた。もう山の麓に到着したことだろう。
辺りを見渡すと、そこには静寂が広がっていた。もう長らく感じていなかった空気が、そこにはあった。
私の名を呼ぶ声は、もうない。