ニ ―願―
願。
小さな願い。
あたしのたったひとつの願い。
ちっぽけな、けれど大切な願い。
……あなたが叶えてくれた願い。
あたしを置いていかないで。
お願い。お願いね。
◇◇◇
青く茂った木々の葉が揺れている。まだ桜の花が落ちて間もない頃だというのに、葉の間からこぼれ落ちる太陽の光りは、夏を思わせるほどに強い。
鳥達はみずみずしくなった木々の実を携え、親を待つ我が子のいる元へと帰っていく。あんなに胸が締め付けられていたこの光景も、今は優しい気持ちで見ていられるから不思議だった。
「月代、月代!」
湖の袂に立ち、その名を呼ぶこと十回。森中にこだましているんじゃないかというくらいの大声で叫んでもいるのに、返事はいまだなし。でも聞こえているわ、絶対に。
確信をもってもう一度叫ぼうとした瞬間、大きな水音とともに姿を現したのは、月代――この湖の主。
「……お前、毎度毎度私の眠りを妨げようとは、いい度胸をしているな」
月代が真っ白な長い髪をかきあげ、赤い瞳でぎろりと睨む。
「そんなに寝てばっかりでどうするの! 外はいい天気だし、勿体ないわ」
「お前は相変わらず阿呆だな。天気が良い日など腐るほどやってこよう。何故、たかがそれしきのことに、私の眠りが妨げられねばならぬのだ」
やれやれといった様子であたしを見下ろす月代。欠伸をしつつ言い放ったけれど、目は半分閉じかけている。
「本当に、何回……いや何年同じことを言わせれば気が済むのか、この阿呆め」
「何年も同じことを言っているのはあたしだって同じだわ。月代ったら湖の中からちっとも出てきてくれないんだもの。それだから、そんなに白くて細いのよ。月代はもっとお天道様に当たらなきゃ!」
そう言ってあたしは袖をまくって見せる。緑の下で見せた小麦色に焼けた肌は、月代の抜けるような色白さとは正反対だ。でもそれを言うなら、私の黒い髪と月代の雪のように真っ白な髪、黒い目と赤い目と、全てがそうだと言えるのだけれど。
それほどに月代は綺麗だった。あの時あたしが間違えてしまうのも仕方ないほどに。
「あいにく、私は日に焼けるという概念を持ち合わせておらぬ。……そもそも、これも言い飽きたことだが、月代などと捻りも何もない名で呼びおって。元、人の子ごときが畏れ多いわ」
だって名前がないなんて言うから。呼ぶ名がないなんて、お互い不便でしょう。
あの日、言われた言葉を思い出し、あたしは心の中だけで言い訳をした。
「私は昼寝をする。水の中には勝手に帰ってくるがいい」
「いじわる! 出来ないって知ってるくせに」
べえと舌を出して思い切り変な顔をしてやったのに、月代は無表情で水底へと帰って行った。何よ、これじゃあ本当に阿呆みたいじゃない。
文句を言いたい気持ちを抑え、かわりに大きく息をはきだして座り込む。青く澄んだ空を見上げて思い出すのは、あの日の事。あの日も今日と同じくらい天気が良かった。
あたしが、月代と出会ったあの日――貧しい家の親が、子を奉公に出したり捨てたりするのを口減らしと言うのだと学んだあの日から、もう十年が過ぎた。
あの日からあたしは、人であって人でなくなった。極端に成長速度が緩くなったのだ。
あの時十だった歳は二十に、本当だったらとうに結婚して子供を授かっている年頃になった。
けれど、あたしの体はあの時から、ほんのわずかにしか成長していない。髪と背が少し伸びたけれど、胸だってぺたんこだし、何よりこうして湖に映ったあたしの顔はほとんど変わっていない。これでは白粉や紅を塗る姿など想像もつかない。試しに池の周りになっていた赤い実を潰して唇に塗ってみたけれど、何だか不似合いですぐに拭ってしまった。
「少しくらい構ってくれたっていいじゃない。……退屈だわ」
でも、それだけだ。あたしが変わってしまったのはたったのそれだけ。月代のように、遥か遠くを見渡す千里眼や、どんなに遠くても話し声を聞き取ることが出来る耳のような神通力が使えるわけじゃない。だから湖から出てしまったら、一人で戻れもしない。もしそんなことをしようものなら、普通の人間のように息をすることが出来ず死んでしまうだろう。
「はあ……」
出るのは溜息ばかり。
だってそうだわ。あたしには他に話し相手がいないんだから。
この山に人が踏み入ることは滅多にない。一度だけ、幼い子供の骸を見たことがあった。それはもし月代と出会うことがなければあたしが辿る末路であっただろうことは、今ならよく分かる。
あたしはきっと幸運なのだろう。
そのままであったら果ててしまっていた命が、今もまだ続いているのだから。
でも。
「退屈なものは退屈だわ! 月代のいじわるー!!」
「阿呆が、やかましいわ!」
水面に向かって叫ぶと同時に、揺れる湖面から仏頂面の月代が姿を現し、思わず笑いそうになって慌ててごまかす。
月代は意外に単純だ。
こうすればいつもすぐに来てくれる。
「何をにやにやしている、気色が悪い。早う手を寄越せ」
伸ばされた白く細い手を取る。そこに感じたのは、違和感。肌以外の感触をした何かが、あたしの手に触れた。
「ふん。お前もなりはさておき、もうとうに成人の年頃を過ぎておるからな。親に祝って貰えなかったのは不憫だからな。私からの祝いだ、取っておけ」
役目は終わりだと言わんばかりに手を離した月代。辺りにはいつの間にか、見慣れた水底の景色が広がっていた。あたしは握りしめていた手をそっと開いた。
「……花?」
小さな小さな赤い花が一輪。美しいとは言えないけれど、素朴で愛らしい花だった。
「これを、月代が?」
あの仏頂面の月代が花を摘む所を想像して、思わず笑みがこぼれた。
あたしは花を大事に布に包み懐にしまうと、何だかそこからほっこりと温かい気持ちが伝わってきた。
月代はいつも仏頂面で無愛想で単純。そして、優しい。月代から見れば、見放せば死んでしまうようなちっぽけな存在のあたしを、見捨てないでくれたから。
でもそんな風に言えば、この阿呆が、ってまた言われてしまうから、内緒なのよ。
あたしは、月代がいるから、寂しくないの。