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一 ―声―


 声。

 微かな声。

 小さくか弱き者の声。

 幼き人間の娘の泣き声。

 ……親を呼ぶ震える声。


 ああ。

 またか。また繰り返されているのか。

 愚かな、愚かな、人の子よ。




   ◇◇◇




 色付いた木々の葉が揺れている。しかしその半分以上はすでに落ち、近く冬が到来することを匂わせていた。

 獣達は間もなくやってくる冬仕度に終われている。つい先刻も小さな樋熊が母親と共に餌を探し歩いているのを見た。

「お父ちゃあん、お母ちゃあん――」

 そんな中聞こえて来るのは、声。それはもう十度目の叫び。数えるのも飽きてきてしまうほど、その声は何度も何度もこだましていた。

 ここは人里離れた森深き山。獣の姿はあれども人の姿は皆無。ましてや子供など、いるはずもない場所だった。

 しかし、同じようなことはここでは何度も起こっていた。幼い人の子が、泣きながらこの森をさ迷うのを私は幾度も見たことがある。それは、人の世で言う『口減らし』として、人の立ち入らぬこの森に捨てられていく、哀れな子供だった。

「お父ちゃあん、お母ちゃあん」

 そしてみな息絶えていく。幸か不幸か、捨てられたということすら分からずに。

 この娘も、またしかり。

「――ああっ! やかましくてかなわん!」

 何もなければちょうど昼寝の頃合い。だが、今日は違った。いや、今日も、と言うべきだが、それにしても今日は特別だ。人の子が、ここに近付いて来ている。

「お父ちゃああん、お母ちゃあああん」

 ほんの少し前にはどこか遠くで空気を揺らすだけだった声は、さらに大きくなっているようだった。ちなみに数を数えるのはとうに止めた。どんなに呼んでも返事のない声を数えるのが馬鹿臭くなったからだ。

 それにしても、今回の子供は相当に諦めが悪いようだ。

 ――ああ、本当にやかましい。馬鹿な子だ。どんなに叫んでも、お前の親はもうここには戻らないというのに。どれ、どんな顔をしているかこの目で見てやろうか。

 欠伸を噛み殺し様子を窺い見る。驚いたことに、その子供はすぐ側まで来ていた――この湖の袂まで。

「あっ……」

 はたと目が合った。泣き声にも似た叫びが、ぴたりと止む。

 おなごだ。まだ、ほんの幼い。

 娘の目が見開いた。私を見て驚いたのだろう。かと思えば次の瞬間には、眉を下げ、大きな瞳に涙を浮かべながらうんと大きく鼻を啜った。

「……お姉ちゃん、だあれ」

 ……。

 この期に及んで、お姉ちゃん、とは。この私をおなごに間違えようとは、どうしようもない阿呆の子のようだ。

「お姉ちゃん、あたいのお父ちゃんとお母ちゃんを知らない? さっきまで一緒にいたのに、あたいが山ぶどうを探すのに夢中になっていたらいなくなっちゃったの」

 山ぶどうか。ふむ、そう言えば山の頂きには立派な木があったが、しかし今は時期ではない。おおかた、そのような子供だましで置いていかれたのだろう。確かに子供の足では、そこからこの山を下るのは難しかろう。

「お姉ちゃん、ねえ、お姉ちゃん」

 それにしても貧相な見なりだ。かろうじて小花が散らされたものだと分かる模様の着物は、色褪せた上にところどころが擦り切れあて布が施されている。そもそも、今の季節にこの薄着は不釣り合いだ。

「ねえ、お姉ちゃん。どうして水の中に入っているの」

「ねえ、お姉ちゃん。その髪きらきらしていてとっても綺麗ね」

「ねえ、お姉ちゃん。目が赤いわ、泣いているの」

「ねえ、お姉ちゃん」

「ええい、やかましい! 黙っていれば頭にのりおって! 私はこの湖の主、お姉ちゃんなどではない! お前ごときが軽々しく口を利ける者ではないのだぞ」

 そう、私はこの月代湖の主。幾百年もの長きにわたり、この湖に住まう高貴なる者。たった五、六十年程しか生きることの出来ぬ人の子が、私と対等になれるはずもないのだ。

 ふん、目を丸くしておる。当然だ。湖の主であるこの私を目の前にして、畏れおののいているのだろう。

「……お姉ちゃん」

 ……よく分かった。

 この娘は阿呆の子だ。関わり合いにはならぬほうが良いようだ。 踵を返し、身を翻す。

 邪魔された昼寝の続きでもしよう。

 そう思った、刹那。

「お姉ちゃん、どこ行っちゃうの!? ねえ、待って!」

 掴まれた。

 ほんの僅かな油断だった。

 着物の裾をはしと掴む小さな手が目に入る。

「お、お前!」

 着物を掴む娘と共に水を纏う。

 娘は目と口を真一文字に結び、その姿からは想像もつかない力で、私の着物を掴んでいた。必死に、離すまいと渾身の力を込める小さな手。それを剥がすのは、さすがに躊躇われた。

 ああ、戯れに湖から上がろうなどと考えなければ良かった。

 しかし後悔しても時すでに遅い。

「……いつまで掴んでおる。離さんか」

 私はいつまでも着物を掴んだままでいる娘に話しかけた。私からそうするのは不本意だったが、とうに水底に降り立っているというのに、この娘が着物を離そうとしないから致し方ない。

「え? あっ!」

 慌てた様子で手を離した娘は、その勢いで尻餅をついた。しかしすぐに起き上がると、ぽかんと口を開けたまま辺りを見渡し、反り返るように天を仰いだ。

「ここ、どこ……?」

「ふん、ここは月代湖の水底。お前が悪いのだぞ……私に触れたりするから」

 いつまでも阿呆のように口を開いたままでいる娘に、私は現状を説くことにした。

 この阿呆の子に理解できるかは分からぬが、説明はせねばなるまい。ここで地上のように騒がれたら敵わんからな。

「先刻も言ったが、私はこの月代湖の主だ。お前のような人の子が、私のような者と合い見えるなど、本来あることではない。しかし、お前の声があまりにやかましいから、仕方なしに様子を見に行ったのだ」

 相変わらず、口をあけたままの娘を尻目に続ける。いくら阿呆の子とはいえ、事実を伏せるわけにはいかないだろう。面倒なことになったものだ。

「幼き人の子よ、お前は捨てられたのだ。山ぶどうなど単なる口実に過ぎん。ないものを探すお前を置いて、両親はとうに帰路についただろう」

 そう告げた瞬間、わずかに曇る娘の顔。さすがにそれくらいは理解出来たということか。

「いくら呼んでも無駄だ。どんなに叫ぼうとも、両親の耳にお前の声は届かぬ」

「うそつき!」

 遮るように、娘が叫んだ。

 つい先程までの呆けた顔が嘘のような、子供ながら険しい表情で、その瞳には涙が浮かんでいる。

「うそつき! うそつきっ!」

 大きくかぶりを振り、体全体で私の言葉を拒絶する。周囲の水がそれに伴ってゆらゆらと揺れた。

「来てくれるもん! 父ちゃんも母ちゃんもすぐに来てくれるもんっ!」

「そう言い切れる理由などないだろうに。諦めろ、それが現実だ」

「うそだもん、来てくれるもん! お父ちゃあん、お母ちゃああん!」

 普段なら心地いい風にそよぐ水の揺れも、娘の泣き声に共鳴した今のそれは不快でしかない。

 諦めの悪い娘だ。

 ああ、耳が、頭が痛くなる。

「お父ちゃあん! お母ちゃああん!」 「黙れ、人の子! いい加減にせねば喰ってしまうぞ!」

「お父ちゃああん! お母ちゃああん! 帰りたいよお! 帰してよお!」

 帰りたいと泣く娘に、もう一つの現実を告げるべく、私は口を開いた。

「帰ることは叶わぬ。お前はもう、人であって人ではなくなってしまったのだから」

 そう。お前はもう人であって人ではない。

 私に触れたあの瞬間、人ではないものに変化したのだから。

 

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